2011-09-09
自己犠牲という暴力
自己犠牲的精神の持ち主は、助けてあげると言いつつ、なぜか重くのしかかってくる。
例えば、もし自分の親が自己犠牲的精神の持ち主で、「あなたのことは、私が全部背負ってあげる」「私さえ我慢すれば、それで良いの」と言いながら、ボロボロになっていたら、その親を見る子供の気持ちはどうだろうか。
子供は「親は自分のせいでこうなっている」と、親に対して罪悪感を抱き、「自分で背負えるものは自分で背負いたいのに」と、自分の気持ちが無視されているように感じ、親の「優しさ」に重さを感じるだろう。
相手の気持ちを無視し、罪悪感を抱かせ、そして重い。これは「困った親」に共通した特徴だ。助けるはずの相手にのしかかって押さえつけている。
自分には限界がある。自分には、自分にできる範囲のことしかできない。自分以上のものになろうとするから色々とおかしくなる。子供を虐待する親も、自分以上の「良い親」になろうとして、自分の理想像に無理矢理現実を当てはめようとするから、色々と歪んで、おかしくなっているのだ。
自己犠牲的精神の持ち主も、自分以上のものになろうとしている人だ。だから色々とおかしくなる。
助けるということは、あくまでも、問題を抱えた当人が主体だ。支援とは、当人を支え、当人の自立を助けることであって、当人の問題を丸々肩代わりしてしまっては、当人の自立の機会を奪ってしまうことになる。当人を「優しさ」の名のもとに、飼い殺しにしてしまう。
「自分にはここまでしかできない。ここから先は、あなたが自分ですること」「これは私が自分ですることであって、あなた任せにすることではない」という線引きができるのが、本当の優しさだ。
私の母にはこれができなかった。他人に嫌われたくないがために、他人がやるべきことまで引き受ける。その分、自分がほぼ完全に支配できる子供に対して、自分がやるべきことを押し付ける。線引きができていない人は、どこかで歪みを生じさせ、どこかで無理を生む。
自分勝手な人は、自他の線引きができておらず、相手の気持ちを考えない。本当に優しい人は、自他の線引きをした上で、相手の気持ちを考える。
自己犠牲的な親は、実は「自己犠牲的な自分像」を保っておくために子供に依存し、子供を自分に依存させるよう仕向けている。
自己犠牲的な自分に酔ってはならない。「自己犠牲的な自分像」を保っておくために、他人を踏み付け、犠牲にしてはならない。
他者が傷つくのは厭うのに自分は傷つける
傷ついた貴方をみて
貴方を大切に思うモノがどう傷つくかも理解らない
あたしそういうのって嫌い
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書かれていることはすごくよくわかる。
でも傷付いてはいけないということは避けられない。
やはり生きていること自体が試行錯誤だからきっと誰もが人を傷つけてしまうのではないかな。
私もそういうこといっぱいあったけれど、気づいてみたら傷つけていたんだよね。
あるいは、傷つけてしばらくたった後傷つけたと気づいたり・・・
だから逆に自分が傷付いてしまうことも避けられない。
誰かにとっては平気なことでも自分にとっては傷づくことってあると思う。
ほら、怒られたとき、へっちゃらな人ともろに受けてしまう人がいるように・・・
一歩一歩優しく、そして人をカバーできるほどいろいろな力を身に付けていくしかないんだろうね。
人を助けることを自己犠牲と捉えるのではなく、喜んでできると、まわりを変えていけるんだろうね。
これ、昨日のコメントを書いた人への警告というか、やんわりとした忠告でしょ?
他人と自分の痛みを混同している人がいたもんね。他者と自分の傷みが区別できず、自分が他者の痛みを肩代わりし、代弁することで自分自身の存在意義を持とうとしている人。
気持ちはわかるし、善意なんだろうけど、他者の痛みを背負おうとする(他者の痛みを奪う)のは、痛みを奪われた他者を傷つけるということに気づいていないのでしょう。
ある意味、自分勝手な善意、なんだよね。人を傷つける善意。自分の喜びは自分の物であり、また傷みも自分の物であり、それを奪われるのは生きることを奪われるのに等しい。
ところでクランプさんいいこというんだねぇ。
人は、意図せず他人を傷つけてしまうことがあるものですが、意図せず他人を勇気付けたり、意図せず他人を癒したり、意図せず他人の目からウロコを落としたりすることもありますよ。
>juri-yamagutiさん
傷つけられて育つと、自分が傷つくことで他人が傷つくということが、わからなかったりしますからね。
私が実際に優しいかどうかは、また別の話ですよ。
このブログは、ほとんど理論を書いています。理論と実践は別物です。理論を理解したからといって、ボールを打てるようになるわけでも、楽器が演奏できるようになるわけでも、絵が描けるようになるわけでもありません。
後は、実際に体を動かして、経験を積んで、身に付けていかないと、自分のものにはならないですね。
私も、自分の思う優しい人になれるように、経験を積んでいる最中です。
まぁこの件に関しては、私としては迷惑だったと表明したい、というのがありますけど。
XXXHOLiCは、名言が多い作品ですね。
人生の中で微妙な掴みづらいみんな大小似たような経験があるけど大人になるにつれ、ついつい忘れ気づけば自分も子に部下にやっているような感覚の部分をフォーカスし、読みやすい文章と程よい量の内容にまとめられているので、僕自身も
仕事中や生活のふとした時に自分は大丈夫かな?と行動を振り返ってたりします。
Yuhkaさんは、着眼点も論点も非常に素晴らしく、コラムニストもしくは作家さんなど文章を書く仕事をすでにされてる方なのかなと思っておりました。この鋭い指摘と理知的で冷静な批判的文章は、読み手の賛否両論はあれどみなさんの熱心なコメント投稿を見れば、新聞や雑誌に載ってるコラムよりも文章的価値が高いというかそこらへんの読んですぐに忘れ去られるコラムよりも心にガツンと響く影響力をもった文章だと思いました。変にべた褒めしたいわけじゃないですがほんとそう思います。
自分語りになりますが、会社に入って、先輩に言われたのが「自分がどのくらいで依頼された仕事をこなせるか見極められるようになれ」。
実はいつまでたっても、これは1ヶ月かかるのか、3日で出来るのかの見極めができませんでした。作ってみないとどこで躓くのか自分ではわからなかった。
すると、先輩が手を差し伸べるのではなく「進捗を説明せよ」という。先輩が納期に間に合うかどうかを見極めようとしたわけです。
これが、「面倒だ、俺がもう代わりに作る」といえば納期は守られるが、私は成長できません。
育成能力がある先輩がいてよかったのですが、この先輩たちを通じて、仕事が出来ないから嫌われるのではなく、仕事や周囲に対しての姿勢で嫌われることがあることがわかり。
年を取り、一部の部下に嫌われても構わないから全体を守って仕事を遂行したいと考えるようになりました。嫌われるのは上司の”仕事”です。自分が「先輩なんて嫌いだー!」wと思いながらも仕事し続けてよかったこともありますので…
それとユウゴウさんに同意。非常におもしろいコラムで、誰もが考えさせられる話だからこそ大量にコメントがつく。yuhka-unoさんの話は読んで終わり、というものはないですね。
私が好きな話は「自立とは、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分ですること」 http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110614/1308044705
です。気に入ってます。
「自己犠牲的な自分に酔ってはならない」
この一文を読んだ時、心にグサリと突き刺さるような感じがしました。
「自分の犠牲で誰かが助かるなら・・・・・・・」と思いながら、「人の為に身を投げ出す自分ってカッコイイ!」と思ってるのではないか?
自分のこれまでの行動を振り返ってみると、心のどこかでそんなことを感じつつも否定していたのではないか、そう思います。
僕としては、自己犠牲って言葉も行動も嫌いなんです。
自己犠牲はよく美談として語られ、人によっては暗に自己犠牲を他人に強制しようとする人もいます。
でも自分や誰かの犠牲が必要となった時点で、何かが間違ってるということですよね?
自己犠牲によって事が成就したことは語られますが、なぜ事が成就するのに犠牲が必要だったのかと言うことはほとんど話題になりません。
こういうことが、自己犠牲的な自分に酔う人や、他者に自己犠牲を強要する人が出てくる要員になってるのかもしれませんね。
しかし、そういう名言が飛び出すとは、クランプさんのアニメってなかなか侮りがたいですね。
自己犠牲にしても他者犠牲はあってはならない。
基本的人権は大切だと思えるのに、何故か、自己犠牲が尊ばれるとかそういうのは絶対にいけないと思う。
今日書き込まれていた他の方々のコメントからさらに私もガツンともう一発殴られた気がしました。
まずjuriさんの「「自分の喜びは自分の物であり、また傷みも自分の物であり、それを奪われるのは生きることを奪われるのに等しい。」」・・・何か感じる事のできる重いコメントでした。自分がしてあげられることを陰でわからないようにそっとできるそんな大人を目指していきたいと思う一方で、痛みは分け合うと半分こって・・・なんかそういうのも素敵だな。これは自己犠牲でもなんでもないと思うけれど・・・
自己犠牲って命を投げ出さなかったら、それは自己犠牲とは言わないと思う。命を投げ出さずに、自分が助けたい相手がいたら人って犠牲なんて思わないンじゃないかな。その対象が誰か・・・の違いだけなんじゃないか。ですから自分の話は自己犠牲とはまたちょっとずれた話なのかもしれません。それから、unoさんの、「「傷つけられて育つと、自分が傷つくことで他人が傷つくということが、わからなかったりしますからね。」」これは本当に何よりも重いコメントですね。
このことは知らなかったです。傷付くことはつらいことだから、なかなか見つめることはできませんが、こうやって深層を解き明かしていくと、自分が傷付くことがいかに自分にもまわりにとっても悲しい害であるかがよくわかります。
誰もがあたたかい気持ちになるように自分も光り、人も生かしていきたいですね。
それから、
うちの場合はそんなに強くは出ていなかったですが、母の外と内での変わり様とか、取り繕おうとしているところとか。通知表には必ず先生の評価を気にして良い子であることをゴリ押ししてコメントしたり、健康診断での項目もうるさく言われないようにと偽りの情報を書いたり。電話でのトーンが必ずいい人であるかのように1トーン上がったり、私の友人を品定めしたり。。その友人本人に「あなたおかしいわよ」と電話を掛けることもありました。母と父は不仲です。経済的に自立することができないのでなんか変な関係。家事はほぼ放棄してましたね。「疲れてるんだから!」「うるさい!」の一言で。1日中寝てた思い出が強いなぁ。挙げるときりがないですね。
私自身現在は看護学生2年生で、ここ1年祖父母の家に暮らさせてもらってます。十何年間家庭での日常会話が皆無だったのが少し増えたし、門限は厳しいけど実家より楽しいです。
ですが、正直それまでの余波をいまだに受けてしまっているのか…授業で行ったエゴグラムにてアダルトチルドレンの項目がmax値で出たりして、実際に人目をすごく気にして、面倒事から逃げてネットに耽ってしまいがちです。これでも今は良くなったほうですが…。なんだか愚痴のような変な文になってしまい申し訳ございません。少し、自分だけじゃないんだとほっとしてしまいました。
19歳にもなってこんなことを伺うのは恥ですが、yuhka-unoさんは人好きになれたこと、ありましたか?
私自身は友人付き合いは狭く深く、あとは広く差し障りなく…やってこれたのですが、今まで異性を好きになれたことがないんです。こわいし、正直めんどくさいと思ってしまうし、信じられないし…。異常にも思えてしまいます。逃げてきました。yuhka-unoさんは、どうでしたか?
変なこと聞いてしまってすみません。まだ全部記事を読めていないので、少しずつ、拝見させていただきます。
なんつーかこういう言い方以外に「ちょうどいい言い方」が見つからないんでこういう言葉になっちゃうんですが…与えられた身体、与えられた脳味噌(魂)、与えられた時間を誰かが代わることはできないんですよね。でも、時にこれを言うと「冷血」という反応が返ってきます。そういった反応を返してくる人は私を「自分がよければいい他人を切り離せばいいと言っている」と表現します。別にそういうつもりじゃないんですがねー…これは認知の問題のひとつだから難しいですね。
自分が何も望まないのに、他人の意向で勝手にある状況を強いられるのは犠牲かも知れない。でも自らが望んでやったことは、マゾ的な快感や自己満足も含めて、何らかの有形・無形に限らない見返りがある。それを自覚して気付いているかどうかは別として。結局「情けは人の為ならず」。他人への同情のようなつもりでも、同情自体の中に自分の心を満たす要素がある。何の見返りもないのにココまでやっちゃう自分に酔って楽しむ面もある。そんな自分の内面に僅か(微か)にでもあるモノを客観的に捉える気がない人が、自己犠牲の名の下に余計なお節介をしちゃったりするんですよね…。自覚のない人は自分の行為にブレーキ踏まないから。そして、時に自分のその自己犠牲を過大評価して、恩着せがましくなってしまう人も。