yuhka-unoの日記

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あなたは私よりも「大人」かもしれませんが、虐待については私よりも無知な立場です。

相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い
自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。
群がる「親」という名の感謝乞食たち
自分が嫌われたくない人の気遣いは、「いじめ防衛的気遣い」
困った親の言う「私を理解して」は、「私を良い親だと思って」
 
一連のエントリを書いてきた中で、色々なことを言われたが、その過程で思ったのは、なぜ、私と似たような家庭に育ったわけでもなく、私の家庭のようなことについて詳しいわけでもないのに、私に対してアドバイスなり説教なりができると思うのか、ということだ。
これは、いじめられている子供に対して、何も知らない大人が、「ニコニコして、自分から話しかけて、仲間に入れてもらいなさい」「皆がやってることに興味を持って、皆の輪の中に入れてもらいなさい」などと、的外れなアドバイスをするのに似ているのかもしれない。
いじめられた経験がなく、いじめについて勉強したこともない大人と、いじめられた経験がある子供とでは、前者のほうがいじめについて無知な立場だが、自分が大人で相手が子供だと、自分のほうが知恵者だと思ってしまいがちだ。
私のことについても、相手が若者で、自分のほうが大人で、しかも自分が「親」だと、自分のほうが知恵者だと思ってしまうのだろう。自分のほうが、私みたいな家庭について無知な立場なのに、「迷える未熟な若者を見守る大人」みたいな目線で見られても、微妙な気分になるだけだ。
 
あるいは、「ひねくれていた子供が親の愛を実感して立ち直る」系のドラマの見すぎで、自分がそのような子供を諭し、親の愛を気付かせ、子供に反省させる役どころにでもなって、「良い人」の気分に浸りたい願望でもあるんだろうか。ならば、ドラマはテレビで見ていろと思う。現実は、親がどうしようもないので子供がひねくれるケースが多い。
「親は子を思うもの」「子は我侭で、親の気持ちをわかっていない」を前提にして、「親が酷いとはっきりわかる具体的な事例を語れ。さもなくば単なる親不孝な子供とみなす」、というのは、実際の虐待被害者を傷つけることになる。なぜなら、その具体的な事例は、虐待被害者にとっては心の傷の深い部分に関わることで、そうそう簡単に他人に言えるようなことではないからだ。そして、こういう人は大抵話してもわかろうとしないので、わざわざそれ以上は話さないということになる。
 
これは例えば、若者だって、自分の話を聴いてくれそうな年長者にしか、自分の思っていることを言わないわけで、「最近の若者は、何も考えていないな」などという年長者に対して、わざわざ話をしに行こうとする若者など滅多にいないのと同じだ。こういうことを言っている年長者は、この先もずっと若者を抑圧し、若者の考えを聞く機会を自ら潰し、「やっぱり、最近の若者は何も考えていないな」という思い込みを強化し、大切な何かに気付かないまま終わる。老害は他人事ではない。
もちろん、若者が年長者に自分の考えを言わないのは、「最近の若者は、何も考えていないな」などと言っている年長者が沢山いるからであり、虐待被害者が自らの被害を語ろうとしないのも、「親が酷いとはっきりわかる具体的な事例を語れ。さもなくば単なる親不孝な子供とみなす」などと言う人が沢山いるからだ。
 
群がる「親」という名の感謝乞食たち』でも触れたが、子供を追い詰める親というのは「過剰」なのだ。普通の家庭で育った子供が、親に対して感じていた煩わしさや鬱陶しさ。普通の親がつい抱いてしまった、子供に対する欲望、やってしまった干渉。これらのことが「過剰」なのが「困った親」だ。
だから、何も知らない、想像力に乏しい人が、機能不全家庭に育った子供の話を聞くと、「そんなこと、どこの家庭だってあることだし」「そんなことくらいで、親を恨みすぎなんじゃないの」と思ってしまう。そして、「親の気持ちを理解しようとしない、未熟で我侭な若者」という偏見でもって、相手を追い詰める。それは親切心ではなく、単なる無知と偏見だ。
 
まず「子は我侭で、親の気持ちをわかっていない」という偏見があるから、その偏見に基づいて勝手に想像を働かせることになるのだろう。もっと言うと、「未熟で我侭な若者」に説教するのは気持ちが良いのだろう。
そもそも、私のことを「親の気持ちを理解しようとしない、未熟で我侭な若者」だと思いたい欲望が根底にあると思う。「最近の若者は、何も考えていないな」などと言っている年長者が、そもそも最初から若者のことをそう思っていたい欲望があるように。
「他人の家庭のことはわからない」「家庭状況は様々で、複雑なもの」ということを前提にするべきだ。そもそも、わからないのなら「わからない」で済ませておくことだ。
 
それから、やはり「切っても切れない親子の縁」を信じていたい人がいるものなのだな、と思った。
私は、「切っても切れない親子の縁」などというものは、安全神話だと思っている。親子が完全に縁切り状態になるという、「起こりうる最悪の事態」という現実から目を逸らし、「親子の縁は、切っても切れないものだ」という安全神話にしがみつくあまり、実際に親子の縁を持続させるための努力に手を抜いてしまう。その結果、「最悪の事態」を自ら招いてしまう。
親子であろうが夫婦であろうが、人の縁というものは、思っているより簡単に切れてしまうものだ。だからこそ、切れて欲しくない縁ならば、大切にしないといけない。一度できてしまった「縁」に安住し、メンテナンスに手を抜くと、やがて「縁」は壊れてしまう。
だから私は、「夫婦別姓にすると、家族の絆が壊れてしまう」という言説を信じていない。そういうのは安全神話だから。人と人との絆は、結局のところ、「相手を大切にし続ける」という、シンプルな、しかし手抜きができないことによってしか守られない。
 

@marmo3 まー
被害経験を少し話した時に、何か助言したり励まそうとする人がいる。そこにあるのは善意だと思う。でも、私は助言を求めている訳じゃない。その問題を知ったばかりで限られた情報しか持っていない人に、的確な助言をしろなんて無理難題だ。その難題をしようとしても、成功する確率は低い。
 
私は難題を与えて、それをこなせと言っている訳じゃない。なのに相手は、まだほんの少ししか情報を持っていない状態で、難題を解決する気でいる。違うんだ。私はそれを求めていない事を、まず知って。それは勘違いだから。助けたいと思ってくれているなら、まずは私の話を聞いて。
 
…と、伝える前に助言や激励をしてくれて、それが結果的外れな感じになって…。的外れな上に傷を抉る事をしていたとしても、相手は気付かず善意。善い事をしたと思い込まれる。困る。善意は有難い、有難いけどその行動は困るんだ…。
 
助けたいと思ってくれるなら、まず情報を集めてください。まずはただ知ってください。それはそんなに難しい事じゃないから。
Togetter - 伊達直人の善意をよい方向に定着させるには?