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yuhka-unoの日記 Twitter

2011-10-09

社会が押し付ける「良い親であれ」というプレッシャー

18:25 |

「もしも、自分が障害のある子を授かったら....みなさんはどう思いますか」・・乙武(h_ototake)さんの連続ツイート - Togetter

 

これは障害児だけでなく、広く「虐待」というものを考えさせられるテーマだ。

結論から言うと、私は乙武氏のスタンスに疑問を持っている。なぜなら、子供を虐待する親のパターンとして、「良い親でありたい」という気持ちが強い人が多いからだ。だから、このような「良い親になってください」という形の呼び掛けは、逆に危険なのではないかと思う。

なぜ虐待は起こる?

1 育児についての理想が高い:

  意外なことに子ども虐待してしまう養育者(特に母親)の多くは、「良い親でありたい」という気持ちが強い人達です。

  そのためにかえって子どもの発達や「しつけ」について高い理想を持ち、その理想どおりにいかない現実の子育てにいらだちます。

  さらに、「こんなことではいけない」と自分を責めることで自分自身を追いつめ、気持ちのゆとりを無くしてしまう傾向があります。

 

「もしも子供を授かったら、受け入れよう」そんなこと、ほとんどの人がそう思っているだろう。ところが、いざ子供が生まれてみると、子供を受け入れられない。子供が可愛いと思えない。それは欠点だらけの完璧でない一人の人間として、誰にでも有り得る話だ。

「もしも子供が授かったら」という視点で考えるのでは、不十分だと思う。「もしも子供を授かって、受け入れられなかったら、可愛いと思えなかったら」という視点が必要だ。子供を受け入れられたほうが良いということぐらい、受け入れられないと悩む親自身もわかっているだろう。

児童虐待のニュースを見て、子供を産んで育てたわけでもないのに、「自分の子供を可愛いと思えないなんて、信じられない!」と言う人がいる。しかし、自分がいざ子供を産んでみて、子供を可愛いと思えて、きちんと子育てができる保証なんてどこにもない。やったこともないのにできるつもりでいる。そんなものは、何の裏付けもない「素晴らしい自分像」に過ぎない。

 

本当は子供を受け入れらてないのに「子供を受け入れ愛する親」のつもりになっている親と、子供を受け入れられない自分を自覚しつつ、悩みながら受け入れようと努力する親とでは、後者のほうが子供にとってはずっとマシだ。

子供を虐待する親は、ともすれば、他の親よりも良い親のつもりでいることがある。誰よりも子供を愛し子供を思う親のつもりでいる。自己イメージと現実の自分が剥離しているのだ。

私が、児童虐待のニュースを見て「子供を虐待するなんて、信じられない!」と言う人に対して不安感を感じるのは、そういう理由だ。なぜ虐待に至ったのかを考え、「虐待は自分もしてしまうかもしれないものだ」と考える人のほうが、ずっと安心だ。

 

この社会には、自分が障害者を受け入れているわけでもないのに、障害者の家族に「明るく優しく幸せな障害者の家族像」を押し付ける人が沢山いる。おそらく、「明るく優しく幸せな障害者の家族像」を押し付けられた親御さんは、そういう親にならなければならないというプレッシャーを感じるだろう。ここで、子供を虐待する親のパターンとして、「良い親でありたい」という気持ちが強い人が多いという問題が起こる。加害構造が「社会→親→子供」になっている。親だけの責任ではない。

 

4歳の発達障害児を殺してしまった母親の件を思い出した。あの母親は確か、「子供を受け入れられない」「障害を受け入れる明るいお母さんになりたい」というようなことを言っていた。

あの時私は、「最初から『障害を受け入れる明るいお母さん』になれるなんて、どんなスーパーお母さんだよ!」と思った。最初からそんなスーパーお母さんになれる人のほうが、珍しいんじゃないのか。

いきなり「良い親」にならなければいけないと思ってしまったのだろうか。大抵の人は、受け入れられないと悩みながら、努力しながら、色々乗り越えて、「良い親」に近付いていくものだと思う。最初から「良い親」になれる人なんて、そんなにいない。

あの母親は、この社会が押し付ける「明るく優しく幸せな障害者の家族像」に、押し潰されてしまったのだろうか。

 

「子供が可愛いと思えないなんて、信じられない!」「子供のことを受け入れてあげて!」と言っている社会と、「子供が可愛いと思えない時だってあるよね」「受け入れられないことだってあるよ」と言っている社会とでは、どちらが親にとって助けを求めやすい社会だろうか。

社会に向かって良い顔をしようとする親は、そのストレスの捌け口を子供に向ける。社会に向けて吐き出せる親は、子供に向かうストレスを減らせる。だから社会は、親の吐き出し口としての役割を担わなければならない。親に対して「こちらに常に良い顔を向けいていろ」と要求する社会は、間接的に児童虐待に加担している。

 

「いっそのこと、子供を殺してしまいたいと思う時がある」というのも、親としての現実だろう。親がこういうことを言った時に「酷い親だ」と叩く社会では、親は社会に助けを求められない。

「酷い親だ」と叩くのは、「私はあんな親とは違う」と思いたいからだろう。「私はあんな親とは違う。だから私は虐待をしないし、していない」と思うその根拠は、どこにあるのだろう。私の親も、勉強や習い事などで子供を縛り付ける他所の家庭と比べて、「私はあんな親とは違う」と思っていた。実際はそれほど違わなかったのだが。

虐待は、特に酷い、狂った親がするものだと思い込み、私はあんな親とは違うと思って、勝手に安心してしまわないでほしい。虐待は誰でもする可能性があるものだ。そう認識することが、悩みを抱えた親が助けを求める心理的ハードルを下げることに繋がる。社会に住む一人一人が認識を改めるのも、虐待防止に貢献することだ。

なぜ虐待は起こる?

2 周囲の援助を求めることが苦手:

  核家族化によりただでさえ孤立しがちな現状の中で、特に周囲との関係を作ることが苦手な人が虐待に向かう傾向が多いようです。

  周囲の援助を求めるためには、自分も気持ちを開いて悩みや弱さを相手にさらけださなければなりませんが、それは簡単に出来ることではありません。

  これは、自分の弱さをさらけ出したときに相手から軽蔑されたり、援助を拒まれることをおそれる気持ちが原因になっています。まして、自分が虐待しているという事実をうち明けることは大変勇気がいることです。

 

障害者を受け入れるキレイなワタシ」という自己イメージを持つよりも、「本当に全ての障害者を受け入れることができるのか」と自分自身に問いかけるほうが良いと思う。虐待親も、自分が後生大事に抱いている「良い親」という自己イメージを捨てて、自分の醜い部分を認めないことには、本当に良い親にはなれないからだ。自分の醜い部分を認めてはじめてスタート地点に立てる。そこから一歩づつ、地に足をつけて、本当に良い親になっていくのだ。

障害者を受け入れるキレイなワタシ」という自己イメージを抱いてしまった人は、厳しいことを言うと、子供を虐待する親になる素質がある。そして、このような人は珍しくない。だから虐待は珍しいことではない。誰でもする可能性があるものだ。人間は誰だって、自分のことを「良い人」だと思っていたいものだから。もちろん私も。

 

 

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thorthor 2011/10/09 19:40 「と、僕がいくら言ったところで、やっぱり子どもを生み、育てていくのは親だ。その親が、羊水検査をした結果、「やはり、障害者としての人生は不幸にちがいない。だから、私たちは中絶する」という決断を下したならば、何も言うことはできない。口をはさむべきことじゃない」

良い親であれ、ということを視点に置いているのではないと思います。

乙武さんが言いたいことは、子どもに「不幸」という「親の価値観」を押しつけるなということだと思います。
子どもは自分なりに考えて自分で幸せを探していけばいい。
その幸せを探すための芽を、親が「不幸」と決めつけて潰すなと言っているのではないでしょうか。

yuhka-unoさんの例に例えるなら「子どもが一人で絵を描いていたっていいじゃない」ということと、そう違いがあるようには思えません。

以前も言いましたが、僕は脳にいろんな障害を持っています。
いつも思うのは「僕は社会や周りの人間にとって死んだほうが有益な人間である」ということです。
この認識は、今でも消えていません。
乙武さんは、そうした既に生まれてしまった障害者にも「人生が不幸かどうかなんてわからない」と言っているのだと思います。
もしかしたら、僕はいずれ、社会にとって有益な人間になれるかもしれない。
それを諦めず、有益な人間になろうとしているから、僕はいまもかろうじて生きています。
いつ精神の均衡が崩れて自作に走ってしまうかわからない身ではありますが、それがはっきりするのは当分先のことになりそうです。
乙武さんのような人が、まだ社会で活躍している限りは。

今日は休み今日は休み 2011/10/09 20:29 >人間は誰だって、自分のことを「良い人」だと思っていたいものだから
それと日本の教育水準の高さ、道徳教育などから、親のあるべき姿の幅が狭まってきたのかもしれないなと、個人的な感想ですけど。
真面目すぎる親からすれば、へんな言い方をすれば”製造・品質管理責任”があるような気持ちになるんでしょう。
ネットのおかげでこれほど多様な発想があるという事が分かっても、一番理想に近いものになりたい、と願う。
たとえ自分がその能力から程遠くても、近づく努力を常に惜しんではならない、という強迫観念。

親に限らず、日本のサラリーマンのあるべき姿はいわゆる24時間365日働くジャパニーズビジネスマン、なのでしょう。
そんなスーパーマンな人なんて一握りなのに(寝ないで働ける人も周りに居るけどね)。

頑張りすぎても不幸になるので、”乙武”さんになれなくても、自分の”身の丈”がわかる人になればいいと思うよ。
出来ない部分は周囲にも協力してもらえばいいし、周囲もコレができないが分かれば、「じゃあ俺はコレできるから手伝える」が分かればいいね。

周囲・外部に、全部おんぶにだっこ(仕事放棄)は困るけど、何が出来て何が出来ないか、これから何が出来るようになりたいか。
そういったことを考えないといけないなあ・・・自分は。

monmonmonmon 2011/10/09 21:42 yuhka-unoさんのお母様と私の母親が本当によく似ているので、ずっと興味深く拝見しています。
私は人生半ばになって、自分は両親から酷く虐待されていた(父親も相当問題あり)のだとやっと気がついたのですが、キッカケは、私の産んだ息子が自閉症と診断されたことでした。

自閉症の子どもは、幼い頃はハタから見るとしつけがなっていない子どもと区別のつかないことが多くて、社会の冷たい目が本当に突き刺さります。人一倍、他人様の迷惑になることの恐怖心を刷り込まれて育った私は、余計に追い詰められ、息子にも手を上げました。
障害児の母親(あるいはそう思い込んでしまっただけの母親)が我が子を手にかける事件があるたびに、胸が締めつけられます。

「優しくて愛情深く素敵な母親であるワタシ」だった母は、次のステージ「可愛い孫たちに囲まれた幸せなおばあちゃんであるワタシ」の青写真に、先天性の障害児など組み込む余地はなかったので、私が息子を虐待するので発達が遅れているのだと思い込むことにしました。
昔の母は「障害者を受け入れるキレイなワタシ」でもあったんですけどね。

何が嫌なのか一日の大半を泣き叫んでいる息子に振り回されヘトヘトになっているところへ、のべつ幕なしにお前が悪いと攻め立てられて、日が暮れても灯りをつけるために立ち上がれないほどのうつ病になりました。
息子を抱いて踏切に飛び込もうかというくらい思いつめた私を救ってくれたのは、保育園の先生方、保育園出入りの小児科医の先生、市役所の障害福祉課の担当の方と、血のつながりのない赤の他人ばかりでした。

両親と決別してから10年以上経ちます。生涯で最も平穏で幸せだと感じながら、日々暮らしています。小さい頃はかわいそうな目にあわせてしまった息子も、今は案外幸せそうに見えます(本当はどう思っているのかわかりませんけど)。
もし息子が健常児だったら、私が親にされたことをそのまま無自覚に息子にしていたでしょうし、何かと生きづらい自分の人生の原因に気がつくこともおそらくなかったです。

乙武さんやthorさんと違い、知的にも相当遅れのある息子が、一般的な意味で社会で有益な人間になることはないでしょう。
それでも、息子を産んでよかった、息子は私を選んで生まれてきてくれたのだと、心から思います。

takammtakamm 2011/10/09 23:04 今日、ツイッターであなたのアカウントをフォローした者です。実に感銘深い文章です。また改めて感想を書かせていただこうと思っています。三井貴也 @takammmmm

takammtakamm 2011/10/09 23:07 失礼しました。ツイッターでフォローしたのは別の方のようです。それ以外は上記のとおりです。

thorthor 2011/10/09 23:59 > monmonさん
僕はアスペルガー症候群です。
見た目のIQが低いということは確かにありませんが、言語の異常、想像力の異常、コミュニケーション不全、運動音痴、方向音痴、二次障害のうつ病、人格障害、いろいろ持ってます。
世間にとっては立派なキチガイです。

ともすれば、monmonさんの息子さんが「自分は親に迷惑を掛けるくらいなら死んだほうが親孝行だ」と自己嫌悪してしまうことがあるかもしれません。
自閉症当事者の中には、そうやって周りの人に対して申し訳なさや遠慮を抱えながら生きる人がいるということ、知ってもらえたらありがたいです。
息子さんのためにも。
息子さんが社会で有益な人間になれるかどうかを決めるのは、息子さん自身なのですから。

monmonmonmon 2011/10/10 01:02 > thorさん
息子の学校にも様々なタイプのお子さんがいらっしゃいます。
おっしゃるとおり、障害の種類や重軽と、社会での生きやすさはリンクしていないですね。
息子はカナータイプで自他の区別もあまりついていないので、自身の障害について思い悩む姿を見なくてすむのは幸せなことなのかもしれません。

thorさんが息子の目線から物事を捉えて、有益な人間になれるかどうかは本人が決めればよいとおっしゃるのは当然だと思いますし、私が決めつけたことで不快に思われたのでしたら、すみませんでした。

私自身、小さい頃から両親にダメな人間と言われ続け、家庭には居場所がなく、社会で有益な人間になれなければこの世のどこにも居場所がないと思って、キャラでもないのに学級委員だの生徒会だの必死で優等生を演じ続けて人生半分過ごしました。
ですから、有益な人間になりたいと思う気持ちを否定するつもりは全くありません。thorさんの本当の苦しみをちゃんと理解できている自信もありません。

それでも、私は親の立場から言いたいです。
社会で有益な人間であろうがなかろうが、息子には生きている価値があります。

子の立場に立ったときの私には、だからthorさんの親御さんも、とは気軽に言えないのですが、thorさんが生きていたほうがいいと思ってる人がきっと誰かいるんじゃないか、いるといいな、と思います。

thorthor 2011/10/10 03:08 > monmonさん
不快ではないです。
ただ、monmonさんが、息子さんには生きていてほしい、と願っても、周りの人はそうでないかもしれません。
場合によっては、赤の他人が息子さんに、「親(monmonさん)に迷惑を掛けながら生きていて恥ずかしくないのか」と言ってしまうこともあるかもしれません。
「社会に迷惑を掛けて申し訳ないと思ってるならどうして今すぐ死なないんだ? 俺なら恥ずかしくて生きてられない」と言う人だって出て来ることでしょう。
そうなったとき、やっぱり社会に対しても胸を張れる確証が欲しいんです。
生きていてもいいんだ、って証明したいんです。
無条件に親に受け入れてもらってるだけでは、甘えと言われてしまうと思うんです。
社会の知的障害者や発達障害者に対する認知って、そういうものですから。

だから、今の僕は目下、同じような境遇の人たちに、生きていてもいいんだ、と証明するために行動しています。
僕自身が、そうやって他のアスペルガーの方の背中に励まされて、その背中を追っているからです。
元気に生きているだけでも、同じような自閉症の方々が生きるための希望になることがあるかもしれない。そこに可能性を見いだしています。
きっとそれは、能力の問題じゃないと思います。
生きていることを証明すること、それが居場所になることもあるんじゃないかって、そう思います。

人は一人では生きられないと言います。
ですが、自閉症は「集団の中にいても一人」という孤独と一生戦っていく運命にあります。
だけど、自閉症同士なら、心の居場所は作れるかもしれません。
それが今、僕が生きる意味です。

monmonmonmon 2011/10/10 13:30 >thorさん
お考えよくわかりました。
息子の場合、自立とは身の回りのことを自分でできるようになること、困ったときに回りの人に困っていますと伝えられるようになることなので、精神的な自立について想像力がおよびませんでした。

生きているって案外悪くないよね、と思って暮らせる日がthorさんとお仲間のみなさんに早く訪れますように。

tekitouyanentekitouyanen 2011/10/13 01:59 はじめまして。いつも興味深く拝見しています。
 私も乙武氏のツイートには違和感を感じました。乙武氏の「愛」という無防備な使い方(どちらも、わが子を愛しているからこその思い〜とか、障害児の親は、愛ゆえに、生まれたばかりのわが子に〜とか)を見ると、「自分の子供=無条件で愛することができるもの」であり、自分の子供が愛せない場合もあり得るという視点が抜けています。
 乙武氏は自身の親御さんのことを『「別に指なんて何本だっていいわよ」という、おおらかな親』と仰っていますが、最初からそういう考えだったのかは分かりません。また、そのような考えに至るまでにそれなりの葛藤なり、悩み、周囲の偏見、差別などと闘った上での子供の接し方であるかもしれませんし、実際は親御さん自身の心の中にだけあるものです(子供には分かりません)。
 きっと乙武氏の親御さんは素晴らしい方なんだと思います。でも、子供を愛することができない親がいる場合もあるし、もし愛することができなくっても、社会がその子供を受け入れて育てるくらいの懐の深さを持つべきだと思います。そういう意味では、熊本の「こうのとりのゆりかご」なんかは、私は大賛成。
 そうそう、山岸凉子の「日出処の天子」未読でしたら是非読んで下さい。親から愛されない子供の話です。