yuhka-unoの日記

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なぜ、若者と見れば「甘やかされている」と思ってしまうのか

若者と見れば甘やかされている、一人っ子と見れば甘やかされている、お金持ちの家の子と見れば甘やかされていると考えてしまうのは、自己承認欲求なのだろう。「自分はこんなに努力して苦労している」→「あいつは努力して苦労していないに決まっている」→「あいつは甘やかされている」という思考回路だ。
もちろん、若者だから、一人っ子だから、お金持ちの子だから甘やかされているかというと、必ずしもそうではなく、個々の事情は異なる。しかし、これらの人のことを、すぐに「甘やかされている」と見てしまう人は、実はその人自身が一番甘えたくて、自分の努力や苦労を褒めて欲しいのだろう。しかし、自分の中の「甘えたい」という気持ちを抑圧しているので、素直に「褒めて欲しい」と言えない。だから、他人の努力や苦労を過小評価する形で、自己承認欲求を満たそうとする。
 
つまり、「自分だけが可哀想」と思い込みたい心理に似ているんだと思う。「自分だけが可哀想」と思い込んだ人は、他人の辛さや苦しさを過小評価したりなかったものにしたがる。「お前の抱えている問題なんか大したことないじゃないか。俺の方がずっと辛いんだ」というやつだ。
「お前よりもっと辛い目に遭っている人は沢山いるんだから、文句言わずに頑張れ」と、「お前の抱えている問題なんか大したことないじゃないか。俺の方がずっと辛いんだ」とは、隣り合わせの思考だと思う。自分が一番可哀想だったり苦労していたりすると、承認欲求が満たされる権利が一番に得られる気がするのだろう。
 
「我侭な人は、自分の我侭さを認められない。なぜなら我侭だから」というのが、私の中での法則だ。我侭な人は、自分の中の「褒められたい」という欲求を認識できない。なぜなら、それはまるで我侭な人みたいだから。なので、他人の苦労や努力を過小評価することによって、自分の苦労や努力に価値を持たせて、「褒められたい」という欲求を満たす。この方法なら、自分が我侭なのではなく、自分に敬意を払わない無礼な相手が我侭なのだと思える。
我侭な人は、「私はあなたにこうして欲しい」と言えない。個人的な要求をするなんて、我侭な人みたいだから。だから、「普通はこうする」「これが常識」「だからあなたは〜すべきだ」という言い方をする。この方法なら、自分は我侭を言っているのではなく、単に正しいことを言っているだけだと思える。
つまり、自分の我侭さを認めたくないという我侭だ。
 
いくら年齢を重ねても、「褒められたい」「構われたい」「承認されたい」という欲は消えないものなんだろう。なら、自分の中にそういう欲があるということを、素直に認めてしまったほうが良い。そういう欲を「大人」という体面を保ちつつ満たそうとするから、余計格好悪いことになるのだ。大人になるというのは、幼児的な心性がなくなるということではなく、幼児的な心性を自分でお守りできるようになるということだ。そして、これをするには、自分の中の幼児的な心性の存在を自覚して認める必要がある。
やたら「近頃の若者は甘やかされている」と言う年長者にうんざりするのは、その言葉の裏に「ママ〜ぼくこんなに頑張ったんだよ〜褒めて褒めて〜」という心理が透けて見えるからだ。その人の努力や苦労はその人の財産だし、尊敬に値するものだとは思うが、精神的赤ちゃんプレイに付き合わされるのはうんざりだ。素直に「褒められたい」と言える人のほうが、ずっと気持ちが良い。
 
 
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