yuhka-unoの日記

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モテないことでバカにされない社会が良いと思うわけ

 
20歳前後の頃だったかと思うけど、中村喜春という人のエッセイを読んだことがあった。この人は戦前に新橋で芸者をして、結婚して離婚し、戦後アメリカに渡り、アメリカがすっかり気に入って、留学生の世話などしながらアメリカで暮らしたという、なかなか面白い経歴の人だった。著者がこの本を書いたのは、たぶん80歳を超えてからだったんじゃないかと思う。
ときめきが大事だと言い、おしゃれが好きで、地味な着物を着ることを嫌い、男性との付き合いもそれなりに沢山ありそうな人だと思うのだが、「人生で本当に悲しい別れは3度あった」と書かれていた。恋愛絡みの別れだった。
もうひとつ、これは男性が書いたエッセイで、その人は奥さん公認で他の女性とデートをする人なんだけど、「もし病気になって死が近いということになったら、女房の他に会いに行きたい女性は二人いる」という。
 
私はこれらの本を読んで、「沢山お付き合いしてそうな人でも、人生の中で本当に惚れる人って、3人くらいなのかもしれないな。なら、私も人生の中で3人くらい本当に惚れることができたら、それで良いんじゃないの?」と思った。
高校生の頃、片思いではあったけれど、自分の意志とは無関係に惚れてしまうという体験はしていた(『「理想の母」の姿をしていた恋』参照)。一方、私は出不精だし社交的じゃないし、広く交友関係を持つタイプではなく、親しい友人が片手で数えるほどいればそれで満足できるタイプなので、活発に合コンしてデートしてウェイウェイ盛り上がるようなお付き合いができるような人間じゃないことはわかっていた。
テイラー・スウィフトみたいに、どの恋愛も長続きせず、元カレリストが長くなるような付き合いをするのも、色々言われるけど、いい年して誰かと付き合った経験がないというのも、色々言われる。でも、自分が望んでいないことや合わないことを無理矢理しても、なんか違うんじゃないかって、当時、なんとなくそんなことを思ったんだよね。
 
それに、モテるということは、当然、自分がモテたいと思う相手から言い寄られることばかりじゃないわけで、モテたくない相手に言い寄られた場合に、上手くあしらうということができないと、色々しんどいんじゃないかと思う。私はコミュニケーション能力が高くないので、相手を上手くあしらっておくということができるとは思えないし、あまり気心の知れていない人と二人で食事に行くくらいなら、一人で図書館にでも行ったほうが楽しいという性格なので、モテることに対してそれほど旨みがあるとも思えない。
そりゃ、自分にとって付き合う気がない人からでも、恋愛対象としてアプローチされると、自己肯定感みたいなものがめっちゃ満たされるとか、そういう人なら、モテの旨みもあるだろうけど、私はそういうのは面倒臭いと感じてしまうので、モテには不向きだと思う。

美人は得だという人を見るたび、この人は身内に美人がいないのかなと思う。美人が得をするのではない。人心掌握に長けた人が美人扱いされ、周りを転がしていい思いをするのだ。小保方さんはそのすぐれたサンプルだったと思う。こういう女性は美人ではなく、美人意識が高い人だ。
美人と金持ちの人格は軽視されがち - はてこはときどき外に出る

と、ここまで話すと大概「女の嫉妬でしょう」と勝手に納得している人がいるけど、違うんだなぁ。男なんです、問題は。勝手に惚れる→振られる→いやがらせ。これは学生時代からあったことなのでそういうことが起きないように警戒していたんですが、やはり、という感じでした。俺の好意を踏みにじりやがって、みたいに逆恨みする男性は本当に多かった。わたしの三十余年の人生では。相手が傷つかないよう20枚くらいのオブラートに包んで丁重にお断り申し上げても、次の日から、ねちっこい嫌がらせが始まるわけです。
美人に生まれたら

 
その後、インターネットを通じて、レイプ被害者の人の話やセクシャルマイノリティの人の話を読むうちに、これまで自分がこの社会の中で、なんとなく違和感を感じていたことが、だんだん輪郭を持って理解できるようになっていった。そして、「全ての人は、性別・セクシャリティに関わらず、いつ誰と性的接触をするか・性的関係を持つかを、自分で決める権利がある」という、ひとつの答えにたどり着いた。つまり、これを無視したり侵害したりする行為が、セクハラであり性暴力なのだと。そして、互いの合意があれば、色んな人とセックスしていても、ヤリマンビッチと非難されるいわれはないし、逆に一生処女童貞でもその人の自由なんだと、そう思うようになった。世の中にはアセクシャルノンセクシャルの人もいるんだしね。
私に必要なのは、私がモテなくてもバカにされない社会だった。まぁ確かに、互いに理解し合えると感じられる恋人がいたら良いなとは思うけど、無理して誰かと付き合うくらいなら恋人はいないほうがマシだし、もし本気で「恋人が欲しい!」という気持ちになったら、そのための努力をすれば良い。ただ、いつそういう気持ちになるかは、個々人でタイミングが違うと思うし、その人のタイミングで良いと思う。
 
もしモテなくてもバカにされない社会というものがあったら、モテるかどうかは、楽器が上手く弾けるかとか、絵を上手く描けるかとかと同じような話になるんじゃないかな。演奏家の世界では、楽器が上手く弾けるかどうかがほぼ全てだけれど、その世界から一歩出たら、それは世の中に沢山ある能力のうちのひとつに過ぎず、全く関係ない場でわざわざその能力の有無を持ち出されて、あれこれ言われることはない。全ての人がやらなければいけないわけではないし、いつから、どの程度までを目指して取り組むのかも、その人の自由だ。モテるモテないの問題でつらいことのひとつは、全く関係ない場でもモテるモテないを持ち出されて、自分が評価されてしまうことだから。
ただ、モテなくてもバカにされない社会になったからといって、モテない苦悩がなくなるわけではないと思う。それは、演奏家になりたいけれどもなれなかったとか、楽器が弾けるようになりたかったけど、自分には全然才能がないらしいとか、そういう、自分が望んでなりたかったものを諦めなければならないという苦悩は、やっぱりあるだろう。それはもちろん、とてもつらいことだけれど、ただ、それはその人個人の問題であって、社会からとやかく言われる筋合いはないということだ。
よく「何人の女とヤったか」を自慢する男の人っているけれど、そんなものは、オタクがフィギュアを何体持っているかを自慢するようなものだ。同じ趣味仲間の内輪でしか通じない価値観だとわかった上で言うのならともかく、全世界で通用する自慢話だと思って言っているのなら、けっこう痛いと思う。どちらも、興味のない人にとってはどうでもいい話なのだから。
 
私はたぶん、母に進路を誘導され、やりたくもないことをやりたいのだと思い込まされ、本当にやりたいことを抑圧されてきたので(『「普通」の親が子供を追い詰める』参照)、できるだけ、自分が何をどの程度望むのかを、社会とかの他者に勝手に決められてコントロールされたくないという思いがあるのだろう。例えば、自分にモテたいという欲求があったとして、その理由を、「男の本能が〜」「男は精子を撒き散らして〜」みたいに、「自分は」ではなく「男は」でしか語れない男の人ってよく見かけるけど、それは、自分自身の意見を語れずに、「普通は」「常識は」でしか語ることができないのと同じだと思う。
二村ヒトシ著『すべてはモテるためである』の中で、「なぜモテたいと思うのか? どういうふうにモテたいのか?」という部分を徹底的に問いかけているのは、自分の願望や欲望を、「普通は〜」「常識は〜」「男は〜」ではなく、自分自身のものとして具体的に言語化するためなのではないかと思う。その人の言う「モテたい」という言葉が、もし、親や世間から刷り込まれた「良い学校に行って就職したい」という程度のものでしかなかったとしたら、その人は自分が本当は何をしたいのかもわかっていない。

「自分がなんなのかよく分からない状態」の人は、社会的善悪や正不正の『基準』を強烈に求めるようになる。自分の考えがないから、意見がない。だから『世間体』や『常識』で自分の言葉を語らなきゃいけなくなる。(中略)そういう人は、「世間体」や「常識」が実は実体がなくてふやけたようなものだという意識は全くない。むしろ絶対に全人類がひれ伏さなければならないモノだと思っているから、使用の仕方も相当に横暴である。
自分がなんなのかよく分からない状態: むだにびっくり

世の中には、処女童貞だとオコサマで、非処女非童貞だとオトナというような価値観があるけど、私は、自分のことを自分で決められるのが大人だと思う。
 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

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