まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

別の手段をもってする科学の継続

UCLのHasok ChangがThe Philosophers' Magazineのインタビューで、科学哲学の意義について語っている。

Inventing Temperature: Measurement and Scientific Progress (Oxford Studies in the Philosophy of Science)

Inventing Temperature: Measurement and Scientific Progress (Oxford Studies in the Philosophy of Science)

チャンは60年代のポパーとクーンとの間で生じた、科学における批判の意義についての論争を導入にして自分の見解を述べる。この論争でポパーは、「批判はあらゆる理性的思考の神髄である」と主張したのに対して、クーンは「批判的言説を放棄することこそが非科学から(通常)科学への移行を特徴づけるものである」と主張する。

わたし自身の人生においては、わたしは当初ポパーの側にたっていました。わたしは、物理学の基礎について無批判的な態度を取ることが期待されていたことについて、物理学の学部生として、いつも不満を持っていました。わたしの先生たちはそのほとんどが「通常」科学者でしたが、彼らはわたしの問いに対して「それは哲学的な問いだよ」という、会話を打ち切るためだけの答えにならない答えを返すことがしばしばでした。わたしは、ほとんど嫌悪感から、物理学の現状に対してまったくの失望を感じながら、哲学の博士課程に行ったのです。しかし年を経てわたしは、科学がフォーカスを絞ることの必要性についてクーンがよい点をついていることがわかるようになったのです。しかしそれでも、社会は批判的態度を必要とします。ポパーとクーンのジレンマへの解決は、通常科学はそのままにしておくが、それと平行して、科学哲学を科学の補完物として行うことです。それでわたしは、科学哲学を(クラウゼヴィッツのフレーズを用いると)別の手段をもってする科学の継続だと見なすようになったのです。


それでは「別の手段をもってする科学の継続」たる科学哲学はなぜ必要で、何をするのだろうか。チャンは、通常科学はある意味で閉鎖的で、ある種の問いを排除することによって成り立っている、そしてそれにはそれなりの理由があると述べる。

 この補完的モードにおける科学哲学の必要性は、...専門家科学(わたしは「通常科学」ではなく「専門家科学」と述べます。通常科学やパラダイムについてのクーンの考えを拒絶する人の注意をそらさないためにです)は完全にオープンであることはできないという事実から生じます。このオープンネスの欠如が必要なことには二つの側面があります。ひとつは、専門家科学においては様々な知識を前提におかなくてはなりません。そうしたものはほかのものを研究するための基礎やツールとして用いられるからです。これはまた、ある種の考えや問いは、もしそれが[科学の中で]前提となっている知識と矛盾しあるいはそれを不安定化させるほど異端的なものであるならば、抑圧されなくてはいけないということでもあります。それは専門家科学にとって必要なものであって、異端者を理由もなく抑圧することとはまったく異なることです。第二に、専門家科学の中では、問うに値する問いのすべてに取り組むことはできません。これは単純に、あるコミュニティが一時に取り組むことのできる問いの数には限りがあるからです。専門家科学のコミュニティはそれぞれ、どの問題がもっとも緊急性が高いか、また解決できる見通しが最も高い問題はどれかについてある程度のコンセンサスをもっているでしょう。重要でないか解決できないと見なされた問題は無視されるでしょう。こうしたことすべては、悪意にもとづいたあるいは愚かな無視ではありません。むしろ、やるべきことに優先順位をつけるという合理的な行為なのであり、これは物質的・知的なリソースに限りがあることによって必要なのです。


かくして専門家科学にはその枠組みの中では問われない問いがつきまとうことになる。そうした問われざる問いがあることを一概に非難することはできないが、しかし同時にその科学コミュニティの知的限界を形作る。そうした問いを引き受けるのが科学哲学なのである。

 とはいえ、われわれは、抑圧され無視された問いは、そこに知識の損失(それが実際の損失であれ潜在的な損失であれ)があることを示すという事実に向き合わなくてはいけません。科学哲学の相補的な機能は、そうした問いを――またもしうまくいけばそうした問いに対する答えをも――発見したりさらには作り出したりすることなのです。したがって、このモードにおける科学哲学の研究から生まれる望ましい結果とは、われわれの自然に対する知識と理解が増大することなのです。


こうした科学哲学観からすると、科学者が問わない問い、問うても仕方のないと思っている問いを哲学者が問うことを直ちに知的退廃と捉えるのは行き過ぎということになる。それは将来科学者が考えなくてはいけない問い、現在の理論的枠組みを捨てなくてはならないときに考慮しなくてはならない問い、あるいはもし答えが出れば科学者にとって役立つかもしれないような問いかもしれないからである。しかし同時に哲学だからといって、何でも問うてよいということにもならない。成熟した科学の成果に真っ向から反する前提や結論をもつ議論をすることには、科学からの厳しいチェックが入ることを覚悟しなくてはならない。もちろん、この意味でのダメな問いとまともな問いの間に明らかな境界線を引くことは往々にして難しいだろうが。