父のこと、父とのこと(佐々木明/巨椋鴻之介)その3

前回

さて、ここからは家族しか知らない2006年秋以降の話だ。


父はすい臓癌を患っていた。すい臓は「物言わぬ臓器」と言われ、その発見は早くはなかった。その兆候がはじめて見られたのは2006年9月。父からすると孫にあたる、私の息子の誕生日の会食時であった。脂っこい料理を食べていた父は不調をレストランで訴え横たわってしまったのだった。検査をしてみると癌が見つかり、余命は1年内外と宣告された。2006年の10月のことである。それから手術をするか否かの判断がはじまった。振り返ると、父、そして家族もこの時が一番のパニック状態だったと思う。


すい臓癌についての医学の常識は、「摘出できる可能性があるのならば、手術によって腫瘍を取り除く」というものだった。だが、父は手術を恐れた。というのも手術によって体が衰弱し、その時点でできていた「普通の生活」が脅かされるのはないかと考えたからだ。


「普通の生活」のかなりの部分を占めていたのが、彼の最後の著書の執筆であった。さらに言えば、それは彼の「遊び」についての本であった。それまで、比較的ゆっくりとしたペースで作業を進めていたのだが、それができなくなる可能性を彼は恐れたのである。仮に手術が成功したとしても、すい臓癌の場合はその転移の可能性が高いため、転移した癌によって余命が1年前後であることが多いという。転移した癌の進行を抑えるために抗がん剤を服用することはできるが、それによって生じる副作用により思考にとれる時間が減ってしまったり、場合によっては思考そのものが難しくなる可能性もあったのだ。


私と母、そして妹は父と一緒にセカンド・オピニオンを求めて国立がん研究センターなどに赴いたが、すべての医者の判断は手術を勧めるものであった。最後には父も考えを改めて、私たちは手術に賭けることにした。


幸い13時間に及ぶ手術は成功し、すい臓の腫瘍は完全に摘出された。2008年の早い時期に肝臓への転移が見つかるのではあるが。


さすがに体力が回復するまでしばしの時間が必要だったため、執筆が再開されたのは2007年3月からであり、そこからの7ヶ月間が勝負であった。初冬に上がったゲラを見ての校正作業を急いでいた時期には、やや疲れた表情で「やることがあるのはいいことだ」というのが父の口癖だった。


そして『禁じられた遊び 巨椋鴻之介 詰将棋作品集』は2008年4月に上梓された。まさに病と闘いながら父が書きあげたこの本は、巨椋鴻之介という彼のもう1つのアイデンティティである詰将棋作家としての作品集であり、また同時に巨椋鴻之介あるいは佐々木明の自分史という性格を併せ持つ読み物でもあった。出版後、毎日新聞では父と詰将棋と文学という共通点を持つ若島正さんが書評を書いてくださり、深く著者と著作を理解したその素晴らしい書評を父はとても喜んでいた。冒頭で父の死に対して「清々しさに近い気持ち」などと書いたのはこの彼の充実した最期を私が知っていたからだ。

禁じられた遊び 巨椋鴻之介詰将棋作品集

禁じられた遊び 巨椋鴻之介詰将棋作品集


すでに書いたように、2008年の早い時期に癌は肝臓に転移していた。それでもその後、京都在住の若島さんを自宅に招いて食事をするという機会も父は得られたし、小学生となった私の息子は将棋を祖父と指すようになった。口の悪い私は何度も「しぶといね」と言ったものだ。


だが、出版後の一連の仕事がなくなっていった2009年後半になると「もう難しいものは読めない」と言うようになり、2010年に入り一層の衰えが目立つと、「もうまとまったものは読めない」と父の口から出る言葉は変わっていった。そしてついには、「もう、やるべきことはやった。お前も来年はサバティカルだから今年中には逝くよ」と言うようになったのだった。それでも5月の末に私のサバティカルが正式に決まったことを告げると、少し寂しそうな表情を見せた。


がんの末期に現れる譫妄(せんもう)がひどくなってきたのは8月末で、そこからの40日ほどが最後の入院生活であった。一切の延命措置を退け、死を受けいれるための日々は、父の、そして私たちの考え方をよく理解してもらったホスピスで粛々と流れていった。私にとっての最後の父との楽しい会話は、9月20日。病院食の献立を選ぶために私がメニューを父に説明するときに「お前は魚へんの漢字が読めないのか」とにやっと笑いながら言われた、その時となった。


つづく