10月10日(木)束松峠へ

2時半起床、Facebook、メールのチェック、
最近はお仲間も増え、送られてくるメールの数も半端じゃない。
日時の出来事や世界情勢を瞬時に知ることが出来る。便利な世の中だ。

このブログも誰かが覗いているのだろう、怪しい事は無造作に書けない、
私が生きた証を残す事に注力し、主だった事柄は書いている。

束松峠は旧越後街道、人物往来は勿論、物資の運搬、
新潟県蒲原地区は会津の領地だった、戊辰戦争時は越後街道のあちこちで戦いがあり、
逸話も残っている、新潟は長岡藩河井継之助の活躍で
詳しくは司馬遼太郎の峠で語られている。佐川官兵衛も越後戦争に参加している、

新発田藩奥羽越列藩同盟に同意したが、いち早く降参し攻める側に回ってしまった。
この束松峠、天屋地区、片門地区は白虎隊も出動して戦った所だ。

今回、峠の茶屋跡に句碑を建立、秋月悌次郎北越潜行の詩がそうだ、
戦い敗れ次の会津を担う若者を長州藩奥平謙輔に頼むため越後へ向かった秋月
峠の茶屋で、行くに輿無し、帰るに家無し、国破れて、、、、、元より会津藩天皇に尽くしていた。
心に沁みる刹那さをよんでいる、
山川健次郎14歳はここが会津を出る出発点となる、
アメリカエール大学を首席で卒業
東大総長2度、京都帝大総長は東京帝大総長と兼ね、
明治の教育の草分け的存在であった。

束松事件もこのところで起こった。
戦後処理で一ヶ月も死者に触れさせず西軍の仕打ちは目に余るものがあった。
伴百悦以下数名で待ち伏せをし、ここで惨殺をした。

妻と遠いな、まだつかねの、あどかえっぺ、いやもう直ぐのはず、あど一息だぁ。
だましだまし往復で1時間半かかった。

27日には除幕式が行われる、
私は京都で立命館大学全国校友大会があるので出れない。