2009-06-24 「一夜限り、45席のレストラン、”コンモベンテ・ア・モトヤマ”へ」
山下一穂の無農薬有機野菜を食べて「おいしい」と感心した私は、山下と奥田政行を勝負させたいと思ったのです。
奥田政行は、山形県庄内で「アル・ケッチャーノ」(山形弁で「あるけっちゃのう」とは、「ここにそんなものがあったのか」の意味だそうです)のオーナー・シェフを務めています。私はここへ年に二度程飛行機で通い、食べに行く客でした。
奥田のイタリアンを初めて食べた時、「和食と勝負して勝てる男」と感じました。すると奥田は”情熱大陸”に出たりして名が売れ始め、のちに山下の「おいしい野菜」と勝負させて山下の「超かんたん無農薬有機農法」を広めるにはもってこいの人物となってゆきました。
「439有機協議会」を2007年春に、永野雄一、山下一穂らと立ち上げ、一年間は永野と、轟組の吉村文次社長のカンパで活動を続けました。(一年後に「高知439国道有機協議会」と名を改め、農林水産省の補助金400万円をゲットします。)
仁淀川町の700mの高所にある八角形の永野の山荘に、初めて奥田政行と、助っ人に大島今日(東京丸の内「リストランテヒロ・チェントロ」の料理長)を招いたのは2007年の夏。「コンモベンテ・ア・ツボーイ(つぼいの喜び)」と称して、24名限定、一夜だけのレストランを、手作りで開催したのです。
奥田は、4メートルもの雪の降る山形と、冬もあたたかく、柑橘類のたくさんある高知のコンビネーションを喜んでくれ、この「一夜だけ」のレストランは、これまで4回行ってきています。
奥田を紹介する「庄内パラディーゾ/アル・ケッチャーノと美味なる男たち」(文芸春秋社より今春刊)にも、今年3月の私たちがパレスホテルを舞台にくりひろげた食事会のことが書かれています。
今年度の食事会は、7月27日(月)に、本山町のレストラン「四季彩館」をかりきって行います。(詳しくはこのHP上でご覧下さい。)
一夜だけ、45席のみ。山下一穂の無農薬有機野菜と奥田政行のイタリアンの勝負を、味わいにぜひおいで下さい。先着45名のみです。お早く!
2009-05-27 「棚田と”頭取”」
”アル・ケッチャーノ”というイタリアンレストランを知っていますか。山形県庄内の無農薬や在来野菜と、海の魚や山の獣を組み合わせて、うすい塩味の妙味を料する奥田政行シェフのレストラン。文芸春秋から単行本「庄内パラディーゾ―アル・ケッチァーノと美味なる男たち」も出版されています。
この奥田政行シェフを、「高知439国道有機協議会」は高知へ呼んで、山下一穂の有機無農薬野菜と勝負させています。
昨年は、山下の住む本山町営レストラン「四季彩館」で11月に、3月には高知市内のパレスホテルで食事会を行いました。
山下の住む本山町には、CWニコルが惚れ込んだ棚田群があります。樫の川という吉野川の支流の両岸、東は吉延、西は大石という集落に幾重にも重なる棚田は、かつてナショナルジオグラフィック誌が日本の代表的な棚田として、紹介したこともあります。
その棚田に山下の野菜を奥田さんが料する「オーベルジュ」(おいしいものを食べる宿)をつくりたいと、ある時、四国銀行の青木章泰頭取に話しに行ったことがありました。
「棚田なんて、どこにでもあるんじゃない?わざわざ高知の山奥まで、いくらアル・ケッチャーノの奥田さんに腕をふるわせるといっても人が来ますかね」。
意気揚々と構想を話し、図面までつくって行ったのにこんなことを言われてしまった私は、ガックリ。
ところが、青木頭取がこうおっしゃったのは、御自分の幼児体験からだったと、後からわかったのです。
青木頭取のお父さんの里は、大石の棚田集落。お母さんの里は吉延の棚田集落だというのです。
小さい時から父方母方の里に遊びに行って目に映るものは棚田ばかり。そんな体験をしていれば、「棚田など日本中にあるのでは…」と今まで思われていたのも無理はありませんね。
ナショナルジオグラフィックの写真をお見せして初めて「わがふるさとの棚田」が、今では世界にも賞賛される貴重な”文化”であったことを御理解いただけたようでした。
その青木頭取が、私たち「439」の吉延の棚田での初めての田植えにやってこられたのが、5月16日(土)。
当日の模様は”天狗”のブログにおまかせしますが、頭取の、この嬉しそうなお顔を見て下さい。
”田植え”というので、緑の苗を一本一本植えるものだと思ってこられたようでしたが、あにはからんや、「紙マルチ」農法。
この日は、「お客様サポート」部長の高橋さん、本山支店長など5名で”田植え”に参加して下さりました。皆さんキビキビとチームワークのとれた行動をされるのには感心しました。
今年、四国銀行は、新入社員研修も、全員で山下一穂農園の”援農”(農作業を援助すること)だったそうです。いいですね先頭にたって「行動する”頭取”」って。
2009-05-13 伊佐美ばあちゃんと今年の畑作業を始めました
81歳の近藤伊佐美さんは、79歳の年に、私たちの「高知439国道有機協議会」に参加してきました。
高知県いの町の山中の段々畑で、一人で田んぼも畑も茶畑も営む農業者。これまではできるだけ農薬を使わないことを心掛けてこられていたのですが、79歳で私たちの誘いに乗って、山下一穂さんの”超かんたん有機無農薬”講習会に参加してみようと行動されたのでした。
その年2007年には、この伊佐美ばあちゃんを訪ねて、菅原文太さんが私たちの「いのモデル圃場」にやってきて、私が1月26日号の週刊現代に二人のショットを載せています。
今年の「いの圃場」の作業は、5月9日(土)に始まりました。参加したのは伊佐美ばあちゃんと高知に住む娘さん、「439」会長の永野雄一さんと弟さん、そして私。
山下一穂さんを先生にPM1:00より授業開始。まず、山下さんが塾長を勤める「有機のがっこう”土佐自然塾”」の生徒二人で、ホンダの耕運機「サラダ500」で二段の段々畑を耕運。この畑は私たち「439」が使い始めて3年目になりますが、まわりの他の人の畑に比べると土がフカフカなのが違います。指を土の中に入れると、「ズブリ」と入るのです。隣の人の農薬を使っている畑の地面はカチコチで、こんなことはできません。
こんな土にするのが、山下さんの”超かんたん”有機無農薬農法の特徴。耕運機で耕した畑に、ソルゴーという緑肥のタネを蒔き、7月までこのままの状態にしておくと1メートル50センチくらいに育ちます。それを漉き混んで、土の中で2ヶ月熟成させ9月に野菜の苗を植えつける。このように昔ながらの有機農業では堆肥づくりの熟成に一年近くかけるところを、これで省略できる。だから”超かんたん”というわけなのです。
さて、伊佐美ばあちゃんのこの日のいでたちは…。
見て下さい。背中に背負っているのは、箕。あの”かかし”の歌「山田の中の一本足のかかし、天気が良いのに箕傘つけて」の箕なのです。
「写真を撮るから」と伊佐美ばあちゃんにいうと、手はソルゴーを前方に蒔きながら、目線はカメラ目線。このように伊佐美ばあちゃんは、とてもお茶目なばあちゃんなのです。
この日の作業は一時間で終了しました。
2009-03-26 「レイチェル・カーソンより早く」
昭和37(1962)年に、アメリカでレイチェル・カーソン女史が「サイレント・スプリング(沈黙の春)」を著し、”農薬の危険性”が、世界中で認識されました。
しかしこの一年前に、日本でも”お医者”が、「農業の害について」というパンフレットを出していたことを、皆さんはご存じですか?
有吉佐和子さんが昭和49年10月14日から8ヶ月にわたって朝日新聞で連載された「複合汚染」に、この梁瀬医師を「現代の華岡青洲」として紹介され、このことが知られました。
この梁瀬医師だけでなく、日本のいたるところで医師たちがこの頃、自分の地域の農業者に
”農薬被害”が出始めたことに気がついてゆきます。
第一次と第二次世界大戦中は(あるものはそれ以後からも)、戦争をしている双方の陣営で”兵器”として開発されていた化学薬品が、戦後は「農薬」と名を変えて世界中で使われるようになり、日本にはアメリカ資本から「DDT」などが持ち込まれ、農業への使用が始まったのが「農薬」でした。
そしてそれが与える「健康被害」が、まず農業者から始まったのは、当然といえば当然だったと思います。
ですから、わが国でも昭和30年代から各地で梁瀬さんのような医師たちが動き始めていたのです。その動きと協働していったのが、かつては「農協の知恵袋」とまで称されていた一楽照雄さんがつくられた、「日本有機農業研究会」(昭和46(1971)年設立)の活動でした。
それから37年後の2008年を、私は週刊現代2008年1月26日号のグラビアに、”有機元年”と書きました。
2006年に成立した「有機農業推進法」にのっとって初めて、有機農業に4億6000万円の国家予算がついた年だったからです。
「高知439国道有機協議会」は、その”有機元年”に、私が高知の皆さんとつくった、有機農業を普及するための市民団体です。
高知県の北部山岳地帯に位置する5町村の首長さんたちにもご賛同いただいて、「超かんたん・無農薬有機農業」の著作のある本山町在住の山下一穂さんの無農薬農法を、日本中の市民に広めたいという想いで、結集したものです。山下一穂さんを初め全国で有機無農薬農業に取り組む方々を、2008年度は高知新聞にて「次代を拓くー有機農業への挑戦」として連載し、ホームページや高野孟さんと運営するブログ集「The Commons」にも掲載しているので、ご参照下さい。(つづく)


