オンライン海賊版ゲーム ユーザーも初摘発へ:このような摘発は問題だ

産経新聞より。

オンライン海賊版ゲーム ユーザーも初摘発へ 神奈川県警 
2012.9.5 02:00
 オンラインゲームのプログラムを不正に入手し、別のサーバー上で正規ゲームと同様のゲーム空間を作り出した上で多数のユーザーにプレーさせたとして、神奈川県警が近く、著作権法違反容疑でサーバーを管理していた大阪府八尾市に住む20代前半の男について、書類送検する方針を固めたことが4日、捜査関係者への取材で分かった。

 このゲーム空間が違法な“海賊版”と知りながらプレーしていた複数のユーザーについても同容疑で書類送検する方針で、ユーザーにまで同法を適用した摘発は全国初になるという。

 捜査関係者によると、男はIT会社「エヌ・シー・ジャパン」(東京都)が運営する、多人数が同時に参加して2グループに分かれて戦う人気オンラインゲーム「タワーオブアイオン」のゲームプログラムを入手し、海賊版となるゲーム空間を作り出して多数のユーザーにプレーさせていた疑いが持たれている。
[・・・]
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120905/crm12090502000001-n1.htm


オンラインゲームのプログラムを別サーバに不正にコピーしてサービスを提供していた人が書類送検されるという記事。それはいいのだがこのゲームのユーザーも書類送検されるという。著作権侵害とだけ書いてあるが具体的に何なのか不明。またオンラインゲームのデータの持ち方がどうなっているのかも記事からは不明。
なのでユーザー側で複製しないという仮定が必要だが、この事件にはムカっと来たので簡単に取り上げたい。


ネットの浸透にともないそれらに対する著作権法の締め付けが強化されているというのはよく知られている。この事件もその一例だが、著作権侵害のオンラインゲームのユーザーまでも著作権侵害とするのは問題だ。
なぜかというと著作物の利用を著作権侵害とするからだ。著作物の利用とは古典的な例を挙げると、本を読む、絵を見る、レコードをかけて音楽を聞くなどだ。これらは著作物に関する人の行為のもっとも基本的なものだが著作権法はこれらを規制対象にしていない。正確にはしていなかった。海賊版の本を読んでも、贋作の絵を鑑賞しても、ブート盤を聞いても著作権侵害にはならない。
なぜかというと著作権はそもそも著作権者(出版社など)が著作物(本など)の流通を支配して利益を得るための制度として発展してきたからだ。そして著作権者が流通を支配するために目をつけた行為が複製だ。著作物を流通させるには複製するしかないからだ。例えば、本を流通させるには大量に印刷するしかないわけで、一冊の原本を回し読みしても流通にはならない。よって複製が規制対象になり、著作権は英語で「コピーライト」と呼ばれる。


ネット時代の著作権法の締め付けが厳しい理由の一つはネット上では利用行為についても複製がついてまわるからだ。以前話題になったブラウザのキャッシュなどがその典型的な例だろう。ウェブを見るという本を読むというくらい基本的な利用行為にもキャッシュという複製がともなうということだ。
これだけでも著作権法はネットにとって邪魔だということが分かる。それなのに、本件で警察は複製をともなわないユーザーの利用行為(ゲームをやる)までも著作権法で規制しようとしている。このような規制はネットでの行為が複製をともなうという技術的な理由で著作権法の規制対象になってしまったのをいいことに、ネット上での行為は利用行為であっても規制しようという動きであり問題だ。
著作権法の本質的な問題、すなわち著作権法は誰のために何を規制するのかを議論せずにこうやって規制対象だけ広げるのは本当に腹が立つ。

ダウン症か99%わかる出生前診断導入に人権団体が異議:検査には何ら問題はない

NHKより。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120829/t10014608571000.html

検査は、アメリカの検査会社が去年10月から行っているもので、妊娠10週目以降の妊婦の血液を調べるだけで、ダウン症など3種類の染色体の異常がないかどうか99%の確率で分かるとされています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120829/t10014608571000.html

アメリカで行われているダウン症等の出生前検査が日本でも開始されるというニュース。

2ちゃんまとめサイトは「日本ダウン症協会『ふるい分けするな!断固反対』」などというタイトルを付けて煽っているがNHKの記事を見るとダウン症協会の理事長は冷静だ。

新たな検査が始まることについて、日本ダウン症協会の玉井邦夫理事長は「海外の動向からいずれ日本でも検査が必ず始まると思っていた。新しい技術ができ、それによって分かることを知りたいと思うのは個人の権利なので、検査の導入は否定できないが、ダウン症の子どもたちや家族を否定するような世の中につながることは絶対にあってはならない。検査が簡単になっても結果の重みは変わらないので、安易な気持ちで検査を受ける妊婦が増え、混乱が広がることが懸念される」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120829/t10014608571000.html


このような検査を認めるかどうかが問題になっており、2ちゃんのレスはほとんどが賛成。はてなブックーマークでも賛成が多いが「難しい問題だ」とか言っている人もいる。自分にとってはこの問題は明確だ。今回はこの問題について書いてみる。


このような出産前検査がなぜ問題か。検査結果からダウン症児だと分かった場合に中絶するのが問題になるのだろう。ダウン症か分かるだけならばいずれ分かることなのだから。
これが問題だとすると、一般的な人工妊娠中絶と同じ条件でダウン症児を中絶をするのは問題がないはずだ。一般に認められている中絶について、ダウン症の胎児でも、そうでない胎児でも平等に扱うためだ。


そもそも中絶はなぜ認められるのか。その根拠はダウン症協会の理事長も言っている妊婦の自己決定権だ。一方、中絶を否定する根拠は胎児の生存権だ。中絶の問題はこれらの(重要な)権利の衝突だ。よって世界的には胎児が一定以上育ってしまった場合*1胎児が生存権を得るので、堕胎は違法とされる。

日本では妊娠21週以内であれば中絶が可能となっているようだが、刑法の堕胎罪を適用除外にする母体保護法には時期的な基準は書かれていないので運用に過ぎないのだろう。ともかく一定の期間内であれば中絶の正当性は社会的に認められていると言える。よって、そのような中絶を目的にした検査であれば何ら問題はないのではないか。


むしろ問題がないか議論すべきなのは日本を"中絶天国"にしている母体保護法だろう。母体保護法はもともと妊婦が危険な出産により命を落としたりすることのないよう中絶を認めるという趣旨だった。

第1条 この法律は、不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護することを目的とする。


しかし、身体的に健康を害する場合だけではなく経済的理由で健康を害する場合にも中絶を認めると規定されている。

第14条 都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。

一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの

この経済的理由で健康を害するという趣旨がよく分からないが、この部分が緩く解釈され、「子を産むと生活が苦しくなる」という理由で中絶できるようになった。このような理由での中絶を認めているのだから「ダウン症の子を産むと生活が苦しくなる」という理由も論理的に当然認められる。ダウン症協会の人たちはこの条項をどう考えているのだろうか。出産前検査の是非よりもこの条項の是非を問題にすべきではないか。

【参考文献】

法と生命倫理20講

法と生命倫理20講

*1:胎児が独立して生存できる時期が基準となっている

ジョンレノンってたかが4,5人のグループで仲違いしてたくせに戦争反対とかよく言えるな:リベラリズムの理解度テストになる

ジョンレノンってたかが4,5人のグループで仲違いしてたくせに戦争反対とかよく言えるな
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4259867.html

2ちゃんまとめサイトより。はてなブックマーク経由で知った。
タイトルを見て、「面白い発想。でも間違ってる」と思った。


どう間違っているかはスレ内でも早々に指摘されていた。

7: 名無し募集中。。。:2012/08/02(木) 00:09:39.20 ID:0
仲違いはいいけど暴力はダメってことでわ


ブックマークのコメントでもちゃんと指摘されていた。しかも人気コメントになっている。こういうのを見るとはてなはまともな方だと思う。

kamiyakenkyujo
戦争反対とは仲良しになることではない。アサドと反政府勢力が互いにそっぽむいて口もきかないレベルの「争い」で収まるなら紛れもなく和平。このスレタイ的な感覚が広まるのは平和運動にとって問題とさえ思う。

okra2
あいつは気に食わない->だから攻撃してでも排除する。が日本人の解釈。気に食わないけど不利益の無い関係が維持できるならお互い共存できるよねって発想が無い


このスレタイにどう反応するかで近代社会の基本であるリベラリズムが分かっているかどうかが判別できるので興味深い。


このブログに何度も書いているがリベラリズム宗教戦争(三十年戦争)の経験から「人びとがたとえ仲良しになれなくても共生できるようにしないとマズイぞ」という思いで生まれてきたものだ。そのために「共生に必要最低限のルールさえ守れば、信仰なんかはそれぞれ好きにすればいい」ってなって、今の憲法の信教の自由につながる。その必要最低限のルールが侵害原理として憲法をはじめとして刑法など基本的な法に流れ込んでいる。侵害原理とはある人が他者に危害を加えない限り国家はその人の行動に干渉すべきでないというルール。


こういうリベラリズムを奉じる憲法が現在の多くの国の憲法であって、憲法はその社会の最も基本的なルールなので、リベラリズムが現在の多くの国の最も基本的な思想になっている。


リベラリズムが分かっているかどうかは、自由にしていい領域と自由にすると共生できなくなるからダメな領域との区別がついているかだろう。本来はその区別を法が示していたはずだが、現在は法が複雑化・肥大化し、昔のように単純に侵害原理とは一致していない。よく出る例は「わいせつ物頒布罪とか誰にも迷惑かけてないだろ。好きにさせろ」というもの。確かに侵害原理を侵しているか微妙な例は多いと思う。


さらに法と道徳の区別ができていないという問題もあるだろう。例えば「みんなで仲良くしましょう」は道徳であり「イジメはやめましょう」は法の問題だ。話題になった大津のイジメ問題を見ても明らかに侵害原理に反している(犯罪行為が行われている)。この「みんな仲良く」と「イジメはダメ」の区別が非常に重要だということが小学校でほとんど教えられていないのではなだろうか。法律の話は小学校教育ではほとんど出てこない気がするが、リベラリズムは日本人全員が暮らす社会の基本なので小学生だろうと、社会のメンバーにはまず教えるべき事柄だと思う。


なお、スレタイの「戦争反対」については「戦争は犯罪か?」(正義にかなう戦争はあるか?)という難しい問題もあるので「戦争反対」じゃなくて「暴力反対」とかにすれば、リベラリズムの理解をためすテストとしてより単純になる。


侵害原理とリベラリズムについてはミルの『自由論』(1859)が参考になる。過去エントリの読書メモ

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

ガンジーとヒトラーの共通点は何か?

ガンジーヒトラーへ宛てた手紙「我が友よ」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52094032.html


はてなブックマーク経由で知った。この記事自体はガンジーヒトラー宛の手紙の冒頭で「Dear friend」と書いたというだけの話で何のことはない。
「一般にガンジー=善、ヒトラー=悪と思われているので、その両者が友人なら意外性があって面白いんじゃない?」という釣りだ。
記事はこう書いている。

両者は「善」の象徴、「悪」の象徴として取り上げられ、一見正反対のように見える。事実そういう風に扱われる事例が多いが、はたしてそうだろうか?


記事は下らないが、もし本当に「一般にガンジー=善、ヒトラー=悪と思われている」とするとそれは単純すぎるだろう。なにしろ両者は民族主義という点でまったく一致しているからだ。


ヒトラーの「ゲルマン民族は世界一、ユダヤ民族はクズ*1」は有名だが、ガンジーも近代国家(≒ネーションステイト)を否定するという点ではある意味ヒトラーよりも過激な民族主義と言える。それを示すのがガンジーの著書『ヒンドゥー・スワラージ』(1909)の次の文。なお、以下は歴史学者古田元夫氏(東京大)の『アジアのナショナリズム(1997)からの孫引き。

過去50年ばかりの間に学んだ知識を捨てることによってインドは救済されるのです。鉄道、電報、病院、法律家、医者等はすべて消えさらなければなりません。またいわゆる上流階級は、意識的かつ宗教的に農民の単純な生活を営むことを学ばなければなりません。」(p.22)

これはトンデモとしか言いようがない。ガンジーはイギリスの法学院(≒ロースクール)に留学し弁護士になっているのにこんなことを書いている。ガンジーはイギリス留学時にフェビアン主義の影響を受けたというがこれはフェビアン主義どころではない過激さ。古田氏も非現実的なユートピア思想と評している。


これらを一言で表した古田氏の次の指摘は印象的だった(前掲書 p.78)。

ガンジーはインド独立の最大の功労者にして最大の批判者といえる。


このようにガンジーは近代化を否定し、伝統的な農民の生活を最上のものと考えていたとすると、ガンジーのいつものコスプレも糸車を回すパフォーマンスも納得がいく。ちなみに糸車は「イギリスの織物の輸入を止めてインド人の紡いだ織物を使え」という意味。まさに保護主義。イギリスの織物は貿易品の例として国際経済学で必ず出てくる。


ヒトラーのロシアを征服しそこにゲルマン民族ユートピアを作るという思想もマジなのか分からないトンデモっぷりだがガンジーもキテいるという話でした。

アジアのナショナリズム (世界史リブレット)

アジアのナショナリズム (世界史リブレット)

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)

*1:我が闘争』では寄生虫とかウジ虫とか書いてたような。

フランス・アメリカ・ドイツ著作権法におけるパロディ規定:文化審小委「パロディー」規定検討へ

日経新聞より。
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO42306130X00C12A6000000/

著作権にまつわる法制度を検討する文化審議会文化庁長官の諮問機関)の小委員会が7日、今期の初会合を開き、既存の著作物をパロディーとして改変・2次創作する行為について、今期の検討課題として取り上げることを決めた。現行の著作権法にはパロディーに関する規定がないが、インターネット上の動画共有サイトなどでの2次創作が活発に行われていることから法整備を目指す。ただし、パロディー作品に対する関係者の認識は一様でなく、法制化には曲折も予想される。


 パロディー作品は、著名な絵画や楽曲を一部書き換えたり、漫画やアニメなどで元の作品の世界観や登場人物を流用しながら新たなシナリオを考えたりして、元の作品とは別の新たな作品として発表するもの。中には、内容の良さや芸術性の高さなどで高い評価を得るパロディー作品もある。


 これまで日本の著作権法ではパロディーに関する規定が存在しなかった。このため、現行の著作権法を厳密に適用すると、パロディーは「同一性保持権」の侵害にあたり、元の作品の著作者に許諾を得ない限りは違法となる可能性があった。しかし、近年はインターネットの動画共有サイトなどを中心にパロディーによる2次創作が本格化しており、実情に合わせた法体系の整備を求める声が高まっている。
[・・・]

1.なぜパロディ規定が検討されるのか

まず「なぜパロディ規定が検討されるのか」について日経の記事の説明では不足だと思うので自分の理解を書いておく。

元の著作物とそれに基づく著作物とがあるとする。後者の著作物が前者の著作権を侵害するかどうかは次のように考える。なお、パロディは当然後者の一例。

後の著作物を見て、元の著作物の本質的特徴を直接感得

  • できる場合→侵害(複製・翻案)
  • できない場合→非侵害(別個の著作物)

というのが基本的な基準(江差追分最高裁判決)。


一般にパロディは元の著作物への言及であると考えられる。なのでパロディを見て元の著作物が何か分からないと意味がない。よって一般にパロディは上の基準で「感得できる→侵害」になる。
しかし、パロディには社会的意義があるとも考えられるので、原則侵害になるパロディを例外規定で救済してあげようかしら、というのが今回問題になっているのではないか。このような例外規定で有名なのがフランス著作権法で「パロディは著作権侵害にならない」と規定している(122条の5第4項)。


「じゃあフランス法のパロディって何?」ということが気になるが、本記事の審議会で報告された報告書*1に諸外国のパロディ規定の比較法的調査が載っていたので、次にこれをメモしておく。

2.フランス法でパロディと認められる要件

(1)主観的要件
パロディを行う意図・目的がユーモアであること。
(2)客観的要件
パロディを行った者と元の著作者が別人であると分かること。


(1)のユーモアはフランス文化について詳しくないとそれが何を指すか理解するのは難しそう。風刺はユーモアに含まれるが、抗議・オマージュは含まれないという。

(2)が興味深いのは商標法の出所の混同防止と同じだという点。パロディと元の著作物の出どころが別だということが見た人に分かるようになっているかをパロディと非パロディの線引きに使っている。

3.個人的感想

日本法でもこのようなパロディ独自の要件を追加してそれに当たれば侵害にならなくなるようにしてもいいかもしれない。ただ報告書でも指摘されているように、パロディは各国固有の文化的背景の影響が大きい分野だという気がする。フランスと風刺ってすんなり結びつくが日本のパロディ(記事の指摘するMAD動画)に風刺がどれだけあるか疑問だ。


まあ、最後は「侵害から救済してあげるべきパロディがあるよね」と関係者(官僚・委員・政治家)が思うかどうかだろう。あると思えばそれに合わせた要件が考えられるだろう。このあたりはフェアユース規定の検討と同じ事の繰り返しになるのではないか。フェアユースの際も映り込みなどの救済してあげるべき事例を個別に救済する方向に動いたので。


以下、おまけとしてアメリカ法とドイツ法についてメモ。

4.アメリカ法でパロディと認められる要件

アメリカ法にパロディ規定自体はないが、一般規定であるフェアユース規定(107条)に含まれる。アメリカでパロディというと必ず出てくる判決がプリティウーマン事件(キャンベル事件)。2 Live Crewというヒップホップグループが映画主題歌として有名な「プリティウーマン」をサンプリングして訴えられた事件。曲は多分これ
この事件でも、当然パロディと認められるかどうかが直接問題になったわけではなく、パロディがフェアユースの4要件(要素)に当てはまるかどうかが問題になった。裁判所は4要件を検討してフェアユースとして認めた。


なお、判決はパロディ自体にも言及している。

パロディの定義の要点、そして既存の資料から引用することについてのパロディストの主張の核心は、先行する著者の作品に、少なくとも部分的に、コメントするような新しい作品を創作するために、その先行する著者の作品の要素をいくらか使用していることである。逆に、もし批評が原作品の中身やスタイルに批判的な関係を持たず、侵害者と主張されている者が、単に注意を引いたり、完全に新しいものを作ることに伴う重労働を避けたりするために原作品を利用するのなら、それに応じて他人の作品から拝借することを公正と主張する資格は弱くなり――それが消滅しないとしても――商業性の程度のような他の要素がより大きな意味を持つ。

やはり批判が重要で、自分で作れないから借りるというだけではパロディとして救済されないということのようだ。MADに批判はないような。

5.ドイツ法でパロディと認められる要件

ドイツ法にパロディ規定はないが、著作権の権利範囲の規定や引用の規定の解釈論として展開されている*2

(1)批判・滑稽さがあること。
(2)反主題性があること。

(1)はフランスと似ている。(2)が独特だが、その意味するところは「パロディと元の著作物が同じ主題であること」だそうだ。主張が対立しているということだろう。またパロディと原著作物の関連が明瞭であることも要求されるとのこと。よって単なる本歌取りは反主題性を欠きパロディと認められない。

*1:http://www.bunka.go.jp/chosakuken/pdf/chosakuken_toriatsukai.pdf

*2:日本も引用の解釈論でやるということも考えられるがパロディーモンタージュ最高裁判決があるので難しいかも。

スカイマークサービス簡略化へ:予期と制度

2ちゃんまとめサイトより。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1715121.html
元記事はスポニチ
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/05/31/kiji/K20120531003366440.html

スカイマーク「機内での苦情受け付けない」「丁寧な言葉遣い義務付けなし」…サービス簡略化へ


「機内での苦情は一切受け付けません」「客室乗務員に丁寧な言葉遣いを義務付けておりません」―。航空会社のスカイマークが搭乗客に対して、サービスの簡略化などへの理解を求める内容の文書を、5月中旬から機内に備え付け始めた。


1998年に運航を始めたスカイマークは、低価格を武器に事業を展開。最近参入が相次ぐ格安航空会社(LCC)に対抗するため、経費削減を進めているとされる。コストカットによるサービス簡素化に伴い増加も予想される顧客の苦情に、先手を打つような同社の措置は論議を呼びそうだ。


スカイマークは、機内の座席ポケットに備え付けた「サービスコンセプト」と題した文書で「従来の航空会社とは異なるスタイルで機内のサービスをしている」と主張。荷物の収納を「乗務員は援助しない」ことや、乗務員の私語を事実上容認し、服装やヘアスタイルについても、会社支給のポロシャツなどを着用する以外は「自由」とするなど、“大胆”な方針を盛り込んだ。また機内では受け付けないと表明した苦情については、同社のお客さま相談センターか「消費生活センター」に寄せるように呼び掛けている。

スカイマークは「利用客らからいろいろな問い合わせを受けたため、当社のコンセプトをあらためて明文化した」と説明。他の航空会社からは「航空業界の評価を下げかねない」と懸念する声が漏れている。

近代社会を考える上で重要な制度という概念について書いた前回のエントリで予期にも言及した。今回はスカイマークのサービス簡素化を例に予期と制度の関係について書いてみたい。前半は一般的な予期と制度について、後半は前半の内容に基づいてスカイマークの例を取り上げる。

1.予期と制度

まず近代社会において予期と制度というのは切っても切れない関係にあるということの確認。自分の採用しているゲーム理論を用いる社会科学の立場では<制度というのはルールであって、ルールに基づいてプレイされるゲームが社会である>と社会をとらえるわけだが、この社会観が成り立つには<自分もルールに従うし、相手もルールに従ってくれる>という予期がある場合(だけ)だ。


分かりやすい例は自動車の運転だろう。「対向車が信号に従ってくれるはず」という予期がなければ危なっかしくて交差点なんて近寄れない。京都の事故などでてんかん患者による運転免許付与が問題になったが、これは「みんなちゃんと運転してくれるはず」という脆い予期が成り立たないと運転免許制度が成り立たないことを示すものだ。なお、自動車の運転自体は道路交通法などのルール(制度)にのっとってドライバーというゲームのプレイヤーが行うゲームと捉えることができる。
ここで重要な点は「対向車は信号に従ってくれるはず」という予期を互いに行なっている点だ。このように互いに相手の行動を予期するような状況を戦略的状況と呼び、ゲーム理論はおおざっぱには戦略的状況を分析する理論と定義できる。社会はこのような戦略的状況で成り立っているのでゲーム理論がいろいろな分野に応用できるといえる。また社会は戦略的状況の積み重ねなので、相互依存的であり原因と結果が無数に絡み合っていると理解することができる。


この社会観は基本的で有用だと思われる。社会の戦略的状況、相互依存性をうまく理解していないがために起こる失敗は散見されるので。例えば、本ブログではゼンショーの防犯体制について言及したことがある。


予期の他の例としてお金(貨幣)を挙げられる。貨幣というのはもちろん制度だ。おおざっぱには「1000円札は1000円という価値をもつ」というルールが貨幣制度だ。制度論ではなく存在論的に「貨幣とは何ぞや?」という問いを考える経済学の一分野があるが、ひとつの有力な答えは「相手が貨幣を貨幣として受け取ってくれるから」というものだ。これは相手に対する予期であり、貨幣を受け取る相手方もまた「第三者が貨幣として受け取ってくれる」という予期をもっていて、相互的な予期が貨幣を支えているといえる。この人びとの予期が崩れたのがハイパーインフレ後の物々交換社会で、資本主義社会の擦り切れた状態といえる。


もうひとつ面白い例は宮台真司氏(首都大)のよく挙げる都市伝説だ。例えば18世紀ロンドンのスウィーニー・トッドの話とか。これはトッドという床屋が店を訪れた客のノドをカミソリで切り裂き、死体を落とし穴に落とすと穴が隣の肉屋につながっていて、肉屋が人肉ミートパイにして売るという都市伝説。このような都市伝説は都市という見ず知らずの他人を信頼しないと生活が成り立たない空間で発生する。それは予期が社会を支えていることを示すんだというのが宮台氏の論。日本で昔あったマクドナルドがミミズ肉を使っているという都市伝説もマクドナルドというよく知らない相手を信頼しないとハンバーガーが食べられないという近代社会のありようを表している。他にも9.11テロや福島の原発事故などリスク社会と呼ばれる近代社会の問題を予期の崩壊という観点から論じることもできるが、それはまた別の機会に。


一方、近代社会とは異なり、人びとが共同体の外に出ず一生を過ごす前近代的ムラ社会では、互いに顔見知りなのでよく知らない相手への信頼は不要だ。その意味で気も楽というメリットがあるが、よく知らない相手との協力(商売とか)などができず社会の発展も望めないというデメリットもある。そう考えると、社会は信頼の範囲が拡大するのにともない発展したともいえるだろう。

この知らない人への信頼と協力という状況を極端に拡大したのがネット社会といえるだろう。知らない人とネット上でどうやってルールを合意するか(予期を一致させるか)は私のみる限り頻繁に問題になっている。その一例が前回の虚構新聞騒動。また例えばインターネットオークションを考えれば容易に分かるだろう。何も知らない売り手・買い手を互いにどう信頼するか。


以上のような本ブログと同様の立場から「日本社会は未だに前近代的だが、今後ますます信頼が重要になる」という指摘をしているのが社会心理学者の山岸俊男氏(北大)だ(『安心社会から信頼社会へ』(1999))。このあたりは本ブログのいつもの近代化問題。


2.消費者と生産者の予期の不整合

1.で述べたのは近代社会は予期の上に成り立つ制度の上で人びとが行動する過程・結果であるということだ。ここで予期は相互的なものである必要があった。
このような観点から見るとスカイマークのサービス簡素化は人びとの予期に整合性を与えるという点で好意的に評価できる。言ってしまえば「安かろう悪かろう」だ。
予期の整合性がない、この場合、消費者の商品・サービスに対する予期と生産者・事業者の商品・サービスに対する予期の不整合は問題だというのは広く同意が得られるのではないか。


例えば法学的に考えると、商品に対する予期の不整合があれば、民法の前提にする契約も成り立たないだろう。だから予期の不整合に対して錯誤無効や消費者法による取消といった手当が用意されている。
また経済学的に考えると、ミクロ経済学の前提にする需要と供給の均衡が成り立たない気がする。ミクロ経済学の市場では「○○だけ効用が得られるなら、その商品に対して□□円までなら払おう」という消費者が想定されているからだ。だから古典的な市場(効率的な競争均衡=厚生経済学の第一基本定理)が成り立たない場合を分析する情報の経済学が発展してきている。なお、情報の経済学はゲーム理論ミクロ経済学に応用するものとも言えるので話はちゃんとつながっている。


さて、最近起きた関越自動車道での格安深夜高速バスの事故とか以前から時折話題になるクレーマーの問題とか最近話題になったコンプガチャの問題などもこの予期の不整合という問題といえるだろう。どの問題でも同じだと思うが、消費者に対して「あなたは○○という効用が得られると予想して納得の上で□□円を払ったんですよね?」というように言って、事業者の責任を制限しなければ、市場はまともに機能しないのではないか。
この「予想して納得したんでしょ」と言えるかどうかが分かれ目であるように思う。言い換えれば「消費者と事業者が同じルールでゲームをプレイすることに同意したでしょ」と言えるということだ。
その意味では今回のスカイマークによるポリシーの宣言は、あなたは荷物の収納を「乗務員が援助しない」など「従来の航空会社とは異なるスタイルで機内のサービスをしている」スカイマークの飛行機だということを知った上で納得して利用しているんですよね?と言えるようにする方策であり、好意的に評価できる。


なお、言うまでもなく消費者と事業者(スカイマーク)の予期(合意)の内容が重要だ。スカイマークが宣言しているのは「従来の航空会社とは異なる機内サービス」であって「従来の航空会社とは異なる安全基準」であれば、命にかかわることなので納得する人は少ないだろう。このあたりでルールを消費者と事業者に任せる(契約)か政府が介入する(規制)かが別れてくる。この切り分けを合理的に行うことが大きな政府vs小さな政府問題への地道でつまらない解決策のように思う。このあたりから格安高速バスの規制をどうすべきか、コンプガチャへの景表法の適用をどうすべきかを考えていくことができるだろう。

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

虚構新聞騒動:ルールの普遍化の挫折

虚構新聞の記事に釣られた人たちが怒っている件が話題になっている。この騒動は内輪な人たちのローカルルールが広がりすぎて通用しなくなったために起こったと言えると思う。
この件は、ローカルで生まれたルールが広まって行き、そして挫折する一例として興味深いので今回はこれについて。

1.ルールとは何か

ルールというのは人びとの合意(予期・期待)であって、人びとがルールに沿って行動することで新たなルールが生まれる。このルールは明示されていなくてもいいし、法律のような公的なものでなくてもいい。虚構新聞を冗談として楽しむというローカルルールがルールの原始的なものだろう。別の例としては2ちゃんねるのスレごとのローカルルールとか。このブログでは以前、違法動画アップロードコミュニティのローカルルールを取り上げた。


ルールは制度とも言い換えられる。ルールは文字通りゲームのルールでありゲーム理論にとっても重要な概念で、ゲーム理論を使って社会のルール(制度)の生成や変化を分析しようとするのが、経済学や政治学の新制度論と呼ばれる分野。この立場からは経済活動や政治活動をアクターがルールに基づいてプレイするゲームの過程・結果ととらえる。
つまりゲーム=社会ととらえるのでゲームのルールが非常に重要になってくる。あたりまえのことのようだがこの点を科学的に取り入れた点がゲーム理論や新制度論のスゴいところだと思う。例えば、企業が競争というゲームに勝つにはゲームのルールを作る/作り変えるのが最も強い。このようなルール作り競争の例がITの分野でのプラットフォーム競争といえるだろう。例えば、OSとかブラウザとか。

2.ルールの普遍化

といっても作ったルールを人びとに合意してもらわなければならない。IT企業の例で言えば、作ったプラットフォームに乗ってきてもらわなければならない。そこでどうやってルールを普遍化していくかということが問題になる。
結論をいうと、虚構新聞の騒動はルールの普遍化に挫折したよくある例といえると考える。そしてこのルールの普遍化が日本の不得意なところで、大雑把にはルールの普遍化ができない≒近代化できていない≒日本のダメさだといえるだろう。
虚構新聞がローカルでしか通用しないルールではなく、釣られて怒ってるようなリテラシーの低い(?)人たちにも通用するようなルールを作ってそのルールに合意してもらえれば、虚構新聞にとって更なる発展のキッカケになると思うのだが、なかなか難しいかもしれない。自分に思いつくのはタイトルに「虚構新聞」と入れることぐらいだ。ただ、これだけでは2ちゃんのまとめサイトなどと同じで、まとめサイトで釣られる人が大勢いる以上、効果は薄そうだから。<日本がダメなのは近代化できていないから>というのはこのブログでしつこく繰り返している主張だ。そして近代化というのはヨーロッパで生まれたローカルルールが世界中に広がったことと言い換えられる。ルールの例としては科学とか法(例えば人権)とか民主主義とか資本主義とか。
ヨーロッパがすごかったのはこのような普遍性をもつルールを作れたことだ。なぜヨーロッパは普遍性をもつルールを作れたのか、なぜ日本は作れないのか(作れた例はあるのか)、現在アメリカが"グローバル化"という名前の普遍化をやろうとしているが、反対するのか賛成するのか。このあたりが非常に重要な問いだと考える。虚構新聞の騒動はこのルールの普遍化という重要問題の身近な例。