ヨネヤマママコさんの思い出

私の評論集に及川廣信さんとヨネヤマママコさんの関係に関する下りがでてきます。これは二人が出演した「All about Zero」公演の内容が、あまりに表面的だったため、本人からの証言のとり、そこからデータを組む必要を感じたことが背景にあります。つまり土方系を中心に舞踏の人たちがヨネヤマママコをマイムと位置づけ、及川さんやそのマイムスタジオでのヨネヤマさん、大野一雄慶人さん、三浦一壮さん、植村秀さん、笈田ヨシさんらマイムスタジオに通った人たちを排除し、大野・土方舞踏を語ってきたことがあります。
及川さんの側からは話を伺っています。そこでヨネヤマさんのところにコロナがあるなか2022年の夏にインタビューに行きました。埼玉の奥の方へ移住され、お弟子さんと活動をしている姿をみることができました。ここにお悔やみ申し上げます。

梅津貴昶さんの訃報に

梅津貴昶さんとは後年の公演を通じて交流しました。勘三郎玉三郎との仕事などで知られます。国立能楽堂歌舞伎座で拝見しました。素踊りが多かったですが、振付師として独立して新たな表現へ挑戦する姿勢と強い意思を強く感じとりました。著作に「舞をどり」があり、様々な人物との交友でも知られています。
コロナ禍の下の突然の知らせに驚かされました。大変にお世話になりました。ここに冥福をお祈りいたします。

十世宗家・西川扇蔵先生の思い出

十世宗家・西川扇蔵先生の思い出はいろいろあります。まだ書き始めた最初のに先輩の評論家の石川健次郎先生から”若いのをよろしくお願いします”ということでご紹介をしていただいたときに、扇蔵先生は「お前、変なことを書いたらこうだからな」とおっしゃりながら棒でつつくような所作されて、その場の一同を沸かせたことは印象深く覚えています。きりりと二枚目でありながら、ユーモラスな先生でした。素踊りが得意で、松の内が明けてしばらくしてから、経団連会館で日本酒をいただきながら扇蔵先生のお祝儀舞踊をみることが多かったことも忘れられません。文字通り昭和の日本舞踊界の大きな存在の一人でした。扇蔵先生がいなくなって数日後に日本舞踊が無形文化財になりました。昭和・平成・令和を生きた大舞踊家とのお別れは本当に寂しいものです。ここにお悔やみを申し上げます。

『舞踊批評の肉声:吉田悠樹彦初期芸術評論集(2002-2022)』

「舞踊批評の肉声」表紙

 

◆各界から寄せられた推薦・コメント

吉田悠樹彦著『舞踊批評の肉声』を読む」

西田敬一

 

 踊りをみる機会はあまりないし、この評論集に書かれている舞踊家についてもほとんど舞台をみていない立場で、この著作について何かを述べるというのは正直おこがましいのだが。

この書物の第1章は戦前、あるいは戦後間もない頃に生まれ育った著名な舞踊家へのインタビューで編まれていて、踊りをこころざす人々には垂涎のエピソード満載といったところ。彼らが活躍した時代の特徴もあるだろうが、当時はさまざまなジャンルとの交流というよりも、身体・肉体を踊りの枠のなかだけで追求するのではなく、あらゆる方法で身体・肉体の可能性あるいは限界にチャレンジし、美術で言えばネオ・ダダ的な表現を追求していたのではないだろうか。この第一章に登場する舞踊・舞踏家と一緒に活動していた人々で、今なお現役で活動している、多くのダンサーは、多分、今はそうした前衛的とも言える踊りからは距離をとって、演劇的、美術的表現には頼らずそれぞれの踊りの独自性を追求しているように見受けられる。それはなぜだろうか。

一方、第2章インタビュー〜舞踏家達との対話〜に出てくる1976年生まれのDohriki(動力)という舞踏家は、新しいジャンル越えの芸術家として活動しているようだ。実は、この書物のp219に出てくる写真を見て驚いた。なんとふんどし姿のDohrikiとまさしく首を括った首くくり栲象さんのツーショットの写真が掲載されている(2008年10月『肉体の大バーゲンセール』)。しかも栲象さんが「30年間いろいろなことをやってきたけど、これしか残らなかった」とか語っていた話まで掲載されている。これは、僕にとってインパクトのあるエピソード。

多分、この書物を読めば、多くの人々がアレっと感動するそれぞれのエピソードを発見できると思えるのだが。

ところで著者は「この書籍を読了し、若い舞踊評論家が現れるなら、お問い合わせていただければ幸いである。私は全力でサポートすることを約束する」と、あとがきに記している。   

私もまた、これを機会に若い人々の舞踊批評を目にして、この書物との比較ができればと期待するところだ。

 

にしだ・けいいち NPO法人 国際サーカス村協会代表

シアターX(カイ)国際舞台芸術祭実行委員

 

戦後の日本洋舞界を支えた批評家やアーティスト達の人間模様を鮮やかに映し出すは…舞踊史の裏社会 アーティスト達のインタビューも面白い…

三浦一壮(舞踏家)

 

「開かれた舞踊の肉声」

この本の文字が声となって聞こえてくるようだ。そのリズムはダンスとなり新しい総合知と云いたくなる。著者の吉田悠樹彦氏が足を運んで立ち会った現場からの言葉は、あらゆる芸術の分野を縦横無尽に駆け抜けた体感があるのだ。その躍動を支える優れた批評精神は血肉となった教養であり、次世代に届く開かれた肉声だ。この類を見ない垂涎ものの一冊を先ずは手に取ってほしい。

池宮中夫(ダンサー・振付家・美術家、Dance Company Nomad~s主催、Brick-one主催)

 

「舞踊の歴史を紐解く渾身の一冊。この中でしか語られないような貴重なインタビューもあり。これだけの量と質にとにかく感服しました。」

山本 裕(ダンサー、振付家、アートディレクター)

 

吉田さんの長年の仕事がついに一冊の本になりました。丁寧な仕事ぶりに感動しました。

金安顕一(「中南米マガジン」)

 

◆舞踊批評の肉声:吉田悠樹彦初期芸術評論集(2002-2022)

¥2,500 税込

 

ダンスやパフォーマンス、身体表現に関心がある方々にはガイド的に使えるところもありますし、独創的な実演家たちの生き方や肉声は映像や美術、音楽にもヒントになります。ダンスのみならず芸術評論として映像や美術に関する評論も収録しました。東日本大震災なども登場し21世紀の指針となります。東日本大震災アジア・太平洋戦争など現実社会との接点も登場し21世紀の指針となります。

現代・戦後のダンス界を代表する優れた表現者たちを上手に紹介しました。60年代から70年代の代表作家たちと21世紀へのリンクも示されます。

 

◆書籍の目次と詳細

 

『舞踊批評の肉声:吉田悠樹彦初期芸術評論集(2002-2022)』

吉田悠樹彦・著

四六判並製 386頁 定価(本体2,500円+税) 発行所:株式会社彗人社 デザイン:小笠原幸介 企画・責任:吉田悠樹

ISBN 978-4-909468-05-5  C0073

 

目次

第一章 

人物評論

雑賀淑子─戦後フランスのバレエから勅使川原三郎

三浦一壮─南米に舞踏をもたらす

及川廣信─パフォーマンスへの水脈、マイムから舞踏、バレエ

山田奈々子─そして現代詩との交流、審美の舞踊家

横山慶子─福島の浪江町に最初のスタジオを立ち上げて

河上鈴子─日本のスペイン舞踊のルーツで南米でも踊る

与謝野晶子と永田龍雄、そして和辻哲郎―スミルノワ・ロマノフの帝国劇場公演からアンナ・パヴロワの来日へ

 

第二章 インタビュー

尾上菊音、中村祥子、Dohriki(動力 )

 

〈次代を担う若手舞踊家 インタビュー>

高田茜、瀬島五月、飯島望未、池田美佳、川村真奈、山本裕、Tarinof dance company(坂田守、長谷川まいこ=主宰)、川村美紀子

 

第三章 

評論集震災後の東北から─横山慶子/モレキュラーシアター 他多数

 

 

◆オンラインからの注文は下のアドレスから:

https://suijinsha.thebase.in/items/72602451 

 

 

 

追悼・石川健次郎、三枝孝栄

コロナが世間に蔓延しだした2020年夏に二人の日本舞踊の批評家が旅立った。石川は檜健次に洋舞を学んだこともあったが、日本舞踊の批評家になる(檜のパートナーは藤間喜与恵である。)賀来良江やケイ・タケイ、石川須妹子らとすれ違っていたため、洋舞界にも一定のつながりがあった。彼は初代・吾妻徳穂の最後を看取った批評家でもあった。故に藤間のことも語ってくれたが特に吾妻の事を多く述べた。日舞の批評家の中では古典舞踊ではなく新舞踊に力を入れていたとされる。妻が西川流の家元だったため、文化庁などの公の仕事はしなかった。招待席に座ることも好ましいと思っていなかった。家では三弦をひきながら長唄を唄い、そして酒を嗜む人だった。藤井修二や伊藤喜一郎らと同じようにNHKで仕事をしていたが、雑誌「日本舞踊」などで活躍をした。戦後直後の新舞踊運動の雰囲気を語っていた。その見識と存在は一目置かれており、英文学者の父を持つ大駱駝艦の田村一行は日本大学時代の恩師に当たる石川の講義ノートを捨てられないと回想する。彼は同時に頑固者としても“意見は1つ、価値観は1つ”ということをいっていた保守派で原則に忠実な頑固者でもあった。

三枝孝栄は石川のこの頑固さについて「高卒でNHKにはいって、中継の仕事とかしていたから」と述べている。いわゆるたたき上げのノンキャリでもあった。例えば舞踏の笠井叡に対して“ああいうのは無視”と述べた。戦後の創作舞踊で活躍した花柳照奈は若手のパフォーマンスに批評家として八巻献吉と石川を必ず呼んでいた。花柳は前衛書家の上田鳩桑に書道を子どもの時に学んだことがある。創作と古典の両方を熟知していた。評論家の二人の中で古典の側が石川なのだが彼は創作についてコメントはとても少なかったという。なんとも石川らしい逸話だ。

三枝は慶應義塾大学の出身で長唄研究会の出身である。学生時代に折口信夫と接したこともあった。藤田洋と同じ見解をもち”彼は一段と高いところにいた”と語った。学生時代から日本舞踊家の稽古場に出入りをしており、ブランド大学を卒業した後はテレビの仕事をしてきた。故に“彼は世間を知っている人”といわれ、彼はまたは長年つきあった石川の頑固さに上のような見解を持っていた。石川と三枝は互いに親しく、また対照的な二人だった。三枝の娘は岩井流の日本舞踊家(岩井梅我4世)で、今は孫娘の5世の時代である。彼は三島が関係する台本などを書いたこともあり、児童舞踊の詞も残している。共に戦後を代表する邦舞の批評家だった。ここに冥福を祈る。

牧阿佐美 お別れの会

「牧阿佐美 お別れの会」(2022年9月6日、新国立劇場 中劇場)
牧阿佐美先生のお別れの会が行われた。世話人は牧阿佐見バレヱ団と新国立劇場運営財団、喪主は三谷恭三だ。コロナ禍の最中、バレエ界の関係者が多く集い、中には現代舞踊やフラメンコの長老たちの姿もあった。
三木谷春子、銭高眞美が挨拶し、お別れの言葉を遠山敦子と戸倉俊一が述べた。牧が日本のバレエ界の基をつくり後進を多く育てた事、橘秋子からバレエ団を引き継ぎ今日へ繋げた65年間、新国立劇場新国立劇場バレエ団を立ち上げ軌道ののせたこと、バレエ芸術へ深い愛情と生きたことが語られた。その結果として牧はバレエ界初の文化勲章の受賞の知らせを他界する前日に受けることになる。そしてこれが三谷と牧の最後の会話となったことが喪主から語られた。まさに天命を全うしたといえる生涯だった。
世界のバレエ界を繋がりながら日本のオリジナルなバレエを発信してきたことも重要なことだ。これは前週末に行われた追悼公演での「飛鳥 Asuka」の上演ともつながる。ロビーにはこの時の1stキャストの主役だった青山季可・菊地研が立っていた。牧バレエ団や新国立劇場バレヱ団の名ダンサーたち、スタッフたちもいた。彼らも同窓会に近い状態だったが、観劇してきた側も走馬灯のように様々な名舞台を回顧することになった。そして献花の時には「くるみ割り人形」の雪の場面の音楽がかかっていた。
牧は芸のみならず、洗練された品の良い生活をおくることや、日本の文化を知ることを重視していた。バレエを通じて精神や品の向上を考えたこと、能・歌舞伎や小笠原礼法とバレエに共通点を見いだしていたことも語られた。これが牧が世界のどんな立場の人からも関心をもってもらえる存在と語られるようにせしめたベースだろう。
2021年という年は牧や山野博大らが旅立った。それは戦後という時代を回顧しながら新しい風を考える時でもある。個人的にも公演会場や青山の稽古場で世話になることもあった。お会いするといつも「いらっしゃい」とあの口調でおっしゃてくださった。
音楽舞踊新聞から批評活動を開始した私はバレエについて現場で多くを学び、戦後の代表作家たちや牧や薄井憲二、松尾明美慶応義塾バレエ研究会の先輩たち、そして久保正士ら20世紀舞踊の批評家たちから多くを学んだ。戦前~戦中期の話も交えながら50年代・60年代の洋舞界のことも多く学んだ。これからのバレエ芸術を見守り育んでいきたい。

ジェスパー・ジャスト展「Seminarium」


デンマーク出身のジェスパー・ジャストの初個展が六本木で行われた。メディア・インスタレーションとバレエダンサーの身体にセンサーをつけ刺激を与えるこてから痙攣させる事を交え新しい表現を模索するプロジェクトの記録が展示された。前者は演じ手の動画が映るディスプレイの前に観葉植物があり触れやすい。後者はABTとデンマーク王立バレエ団のバレエ団のダンサーを用いたプロジェクトの記録で結末が気になる。
(2022年1月29日、ペロタン東京)