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2014-08-05 タンブラーの効能 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

夏になるとタンブラーが活躍する。そう、あのタンブラー

これの一番いいところ、ぬるくならない、そりゃそうですが何といっても水滴がつかないこと。テーブルが濡れない、これが最大の価値だ。私にとっては。。。

結構夏はテーブルが濡れますよね、それが一度も拭かなくていい。

でも、ハイボールとか作るときにどこまで酒が入ったか見えないので入れすぎる、という欠点もなきにしもあらずw

2014-07-19

SI'er から ビジネスデザイナーへ

18:00 | SI'er から ビジネスデザイナーへを含むブックマーク SI'er から ビジネスデザイナーへのブックマークコメント

こんな本があると釣りと思ってもつい読んでしまう。まぁよしとしてさらっと読めるし考えさせらることもあるのでSI'erの方には一見の価値はあるかも。
なぜこの本を手に取ったかはこの1点につきる。

  • 大きな見積に失敗するとその後数年苦しい道を歩むことになるというモデルへの疑問

ということで、内容を引用しつつそれらに対する解を考えてみたい。

SI'erというシゴト

 SI'erは顧客に価値を提供しているはずであるが、原点に戻ってそもそもSI'erとは何かから考えてみる。

システムインテグレーションとは、システムを構築する際に、ユーザーの業務を把握・分析し、ユーザーの課題を解決するようなシステムの企画、構築、運用サポートなどの業務をすべて請け負うことである。これらを行う業者SIerである。(IT用語辞典より引用)

「システムを構築する際に、ユーザーの業務を把握・分析し、ユーザーの課題を解決するようなシステムの企画、構築、運用サポートなどの業務をすべて請け負う」とある通りなのだが、どうもインテグレートという言葉がしっくりこない。でも実際はRFPをもらい、経営効率化のためにこんなことをシステム化したいという要望をもってどんなシステムでどんな機能があるからといったことを積み上げて工数を算出し、その上でより詳しくどんな機能をどういう作りでといったところを検討・設計していくわけだ。

システムを提供するわけではないということへの理解

 SI'erの定義は上記の通りだが、いつからだろうか、文字通りシステムを売るのではなく価値を売るのだ、と言われ出すようになったのは。結構長いこと言われているように思うが、誤解を恐れずに言えばやっぱり大半の人は分かっていない。正確に言うと「頭では分かっている(つもり)だが・・・」という人が大半なのだ。あまりにも言われることだから見聞きしたことはもちろんあるので「価値を提供するんだ」と言われると「そうだよね」「その通りだ」とは思えるものの、いざ「価値を提供せよ」と言われても理解できていないからやっぱりシステムを提供しようとしてしまう、これが世の中の人の大半だ、と私は言い切ってもいい。

システムインテグレーションの本来の役割は、テクノロジーを使って、お客様のビジネスの価値を高めることです。ビジネスプロセスを革新することであり、お客様のビジネスにイノベーションをもたらすことが、本来の目的です。しかし、それがいつの間にか、手段であるはずの「情報システムを作ること」へと目的がすり替わってしまったようにも見えます。 この「顧客価値を高めて、その対価を得ることで、ビジネスを成り立たせる」という原点をあらためて見つめ直す必要があります。

SI'erの未来

 ではSI'erは終わりなのだろうか。その答えは御社の中にあるという実にズルい回答だが、ひとつだけ言えるのは今と同じやり方・考え方で10年はもたないだろう。「変わらなければ!!」もはや私には滑稽にさえ聞こえるこの言葉は耳にタコができるほど聞いているが、私も含め「誰かが変えてくれるわけではない」ことにもっと恐怖を感じなければならない。SI'erの未来は私が語るわけではないが、このあたりはヒントになるだろう。

手段であるテクノロジー要素のひとつひとつがどんなに優れていても、プロセスの断片が正しくても、全体として事業目標を達成させるためのデザインがないビジネスは、お客様に魅力を感じてもらえません。新規事業のプロジェクト責任者は「ビジネスデザイナー」でなければなりません。

システムのデザインだけでなく、顧客のビジネスデザインを創造する、そのデザインをシステムを使って実現し、それによって顧客が得られる価値こそがまさに提供するもの、というわけである。大それた考え方にうつるだろうか。例えばいきなり数百億円級の案件でこれをやろうとしても破綻しそうである。ならば小さい案件から少しずつというのが現実的な解であろう。劇的な変化ではなく身近なものから少しずつ、そういうことだ。

SI'erのゴールは何か

 ゴール、今までの話上もちろんシステムを作ることではないはずですが現実はどうか。SI'er側はまず見積だが、ここでは競争がベースとなっているため、ギリギリの利益ラインのせめぎ合いとなる。そんな見積上の少ない利益を少しでも増やすためギリギリまで原価を落としたいところだ。ここでビジネスのデザインがどうとか言っているとどうか。もうすでに貰える金額は決まっているので、作る予定の機能を粛々と作る以外の作業をしていると逆に原価が食われてしまう。ということで、SI'erは作るといった機能を予定通りにシステムとして作り上げていく、それに従事することになる。これはSI'erの利益の最大化という面では最も効率が良い方法になるのでとてもじゃないがSI'erを責めるわけにはいかない。一方、SI'er側の売上を支払った顧客はどうか、顧客はもちろん自分たちの利益を上げるため、経営上の課題解決のためのシステムを目指している。当然ながらそこには目指すべきものがあるわけだが、SI'erは最初に決めた通りにどんどん作っていく。それは使い勝手が悪かろうが、要らない機能だろうが関係ない。当然のことながら顧客は不満を漏らし始め、改修・変更を要求する。するとSi'erは改修費用がかかるので仕様変更として追加のお金をくれと言い出す。顧客としては要らない機能を提案して作ったのはSI'er側のビジネスの理解不足としてお互いの言い分が激突する。とはいえSi'erはシステムを収めてお金を貰わないと今までの工数がまるまる赤字となるので立場上は弱く悪い条件でも飲まなければならない事態にも陥る(実際はここは両社の関係次第で、後から別案件で回収とかもできる可能性がある)。結果としてどうなるか、本書ではこう書いてある。

情報システム部門は、工数積算で予算を確定でき、瑕疵担保で成果物の完成責任をSI事業者に負わせることができます。一方、SI事業者は、作業負担が増大するリスクを抱えながら、低利益を強いられます。問題が起きれば、情報システム部門は「SI事業者要件定義が不十分であり、スキル不足なのが悪い」「自業自得だ」といい、SI事業者は「要件定義を適性に評価できなかった情報システム部門の問題だ」と頭を抱えます。このような、「ゴールの不一致」と「相互不信」といった「構造的不幸」を内在したままのSIビジネスが、双方にとって健全であるはずはありません。

なので重要なのはここのゴールを一致させることだ。それってどうするのか、そこが今後のSI'erの収益モデルの変更になるだろうし、「変わらなければ!!」の行く先でもあることだろう。

SI'erと顧客のゴールを同じにすれば解決する

 そう、もう答えは簡単だ。顧客とSI'erのゴールを同じにしさえすればよい(簡単に言うな、と)。正確には顧客とSI'erのゴールを同じにできる仕組み(モデル)の構築が答えのひとつだ。さて、どうすればよいか。その一つの恒例が成果報酬である。去年、こんな記事を新聞で目にした。

簡単に説明すると、NTTデータANAの貨物の予約や搬入、積載など一連の中核業務を支援する新基幹システムを無償で構築し、本番稼働後はANAが取り扱った貨物量(貨物の搭載重量)に応じて月額利用料金をANAから貰うと言うものだ。これの凄いところは単に継続的な収入を得られるということだけではない。先のゴールの不一致を解決するモデルなのだ。当然ながらシステム構築がまるまる初期投資なので採算の管理が丸ごと変わる上に、使えないシステムを作ってしまうと利益どころか初期投資回収すらできない状態に陥るのでNTTデータは単にシステムを作ればよいという訳にはいかない。真剣にANAの経営課題に向き合い、どういったシステムならANAの利益が最大化するかを考え抜いたことだろう。ANAとしてはもちろん使えるシステムを作りたいはずなので思惑は一致する。
 母体となる会社規模が大きくないとこんなことはできないと思うかもしれない。だからこそスモールスタートである。会社によってスモールの規模は異なるかもしれないが、まずはごく小さいシステムから試してみてはどうだろう。その中で今まで見えてこなかったことが見えるようになるとともに今まで直面しなかった課題にぶちあたるに違いない。それを乗り越えてこそ、新しいビジネスデザイナーへの道が開ける、そう私は思っている。また、本書では成果報酬の他に、レベニューシェアサブスクリプションが挙げられている。ぜひ読んでみて欲しいが、時間のない人は下記スライドでも。

2014-01-12

つい忘れるviエディタの設定

04:02 | つい忘れるviエディタの設定を含むブックマーク つい忘れるviエディタの設定のブックマークコメント

サーバ初期化したのでfirewallの設定をしていたらどうにもviエディタ文字化けするなぁ、と。[編集]-[貼り付け]でもダメだな、と。

ふむ。文字コード設定を忘れておりました・・orz
結構個人的に何度もやるので忘れないように備忘。

[root@xxx ~]# vi .vimrc
 :set encoding=utf-8
 :set fileencodings=iso-2022-jp,euc-jp,sjis,utf-8

2013-12-30

ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく

| 14:44 |  ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していくを含むブックマーク  ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していくのブックマークコメント

 さて、今年も残すところあと2日となった。今年は色々なことがあったが概ね静かな一年で新しい行動を起こせなかったことは反省すべき点である。理由としては管理職への昇格試験があってその準備に一時期追われ、その準備期間に本を読んだり自己啓発をしたりとすることが激減し、そのまま惰性で2ヶ月を過ごした、というのが現状だろうか。そんな今年の最後のブログはこんな本で締めくくろうと思う。

 言わずと知れた堀江さんの本である。結構、本屋にも平置きされていたりするので手にとったことがある人は多いのではないだろうか。この本は何気に読み始めたが今年一番の本だった。収監されて人は何を感じるのか、「反省」ということではなく、何もなくなったときに自分はどうするだろうか、ということを考えさせられる本である。あっという間に読めるので、特に来年どうしようか、と思っている人は一年の計を立てる前にこの本を読んでみるといいかもしれない。ではいつもどおりキーワードベースに。

新しいことをしようとする時は条件はみな同じ

 色んな人が新しい第一歩を踏み出すのは間違いないが、それは新人であっても管理職であっても変わらずに怖いものだ。誰かに反対されたらどうしよう、誰も賛同してくれなければどうしよう・・・そんな思いが一歩を阻害していることは間違いない。

人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ。

新しい一歩というのは周りから見るとそうでもなくても、本人にとっては一大事業なのだ。スタートラインにたとうと思ったことだけで尊敬に値すると私は思う。そして、実はスタートラインに立った人を見ている人も実はその人がどんな道を走り抜けるのかは分からない。だからもうここは精神論と考えた方がよい。えい!ってやってしまった方が良い、準備はそのあとで良いかな、と思う。

言葉だけでは人を捉えられない

 このブログでも何度も言っているように、私も含め多くの人は総論賛成各論反対の立場を取る傾向にある。特に日本人はそうかもしれない。下手をすれば言いだしっぺすら各論反対に回る可能性すらあるww 堀江氏はその善悪は関係なく行動の人であり強い口調で論ずることがしばしばあるが、それについてこんなことが書かれている。

、理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。そればかりか、ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、まず「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。言葉を尽くして丁寧に説明しなければならない。その認識が完全に抜け落ち、多くの誤解を招いてきた。これは最大の反省点である

言葉を尽くす、私にもっとも欠けている部分かと思う。確かに人は見ているということもあるが、目的のためにはきちんと丁寧に説明すべきなのだ。正しいからいつか分かってくれる、ということもないこともないかもしれないがこの忙しい時代にそんなに丁寧に人を見ている人はなかなか多くはない。特に上にいけば行くほど理解しておかなければならないことだろう。
もし、あなたが「変わりたい」と願っているのなら、僕のアドバイスはひとつだ。 ゼロの自分に、イチを足そう。 掛け算をめざさず、足し算からはじめよう。

そう、急に大きな存在にはなれないのだから自分の2歩目を踏み出せるための1歩目はどんなレベルなのか、それを見出すことが先決だ。仮に大きなことをやりたいと思うのなら、そのことに辿りつくまで具体的に何歩に刻んでいくのか、それが現実的な計画であり一番の早道と言えるだろう。それはこんな言葉で語られている。
そして経験とは、時間が与えてくれるものではない。 だらだらと無駄な時間を過ごしたところで、なんの経験も得られない。 なにかを待つのではなく、自らが小さな勇気を振り絞り、自らの意思で一歩前に踏み出すこと。経験とは、経過した時間ではなく、自らが足を踏み出した歩数によってカウントされていくのである。

「ノリのよさ」をポジティブに受け取る

 自分は自分、そう思っている人ほど変われないものだろう。私もそのひとりであるが、「ノリのいい人」というのは周りに一人や二人いるに違いない。自分はそういうノリの人間じゃない、そう思わずちょっとだけ、普段の自分なら選択しないことをやっていくと何か違う日常が待っていて何かが変わるきっかけになるかもしれない。そしてそれはチャンスにもつながる可能性を秘めている。とはいえ・・・と思うかもしれないが、そこにいつまでも考えていても何も始まらない。さすがにそこはチャレンジなのである。

小さな成功体験の前には、小さなチャレンジがある。 そして小さなチャレンジとは、「ノリのよさ」から生まれる。

「もらう」から「稼ぐ」へ

お金を「もらう」だけの仕事を、お金を「稼ぐ」仕事に変えていこう。

これは起業している、または起業したことのある人にとっては至極当たり前のことだと思うが、プロジェクトの歯車になっている間は実はなかなか感じられない。自分の何かが利益に直結するという数字を見たことがないからかもしれない。これはそういった数字を見る必要がない、見なくてもなんら支障が出ないからに違いない。数字を気にしながら日々を暮らすと辛くげんなりするような気がするが、どう売上を、利益をあげていこうかと考えることに少し違った興奮を感じる(嫌気がさすことの方が多いかもしれないが・・・w) ただ、「もらう」から「稼ぐ」に意識が変わると仕事の質は劇的に変わる可能性が高いので一度考えてみた方がよい。

クリエイティブな仕事!?

 クリエイティブな仕事がしたい、とはよく聞く言葉であるが、いざやろうとするとどれほどの人ができるだろうか。その真実、困ることになって、最終的にググることになったりはしないか・・w。そう、クリエイティブな考えや仕事は、やればできる類のものではない。そこには実は大きな勇気と覚悟が必要である。前例にないことをどう説明できるか、反対されても確固たる自身をもって推進できるか、それができる人は多くはないに違いない。結果、あまり説明しなくても楽な既存の方法に流れてしまう。とはいえ、10年以上もクリエイティブな仕事をしてこずにいきなりやれと言われても難しい。なので、本気の改善を繰り返して、少しずつそういった作業に慣れていくしかない。

マニュアル(前例)どおりにこなすのではなく、もっとうまくできる方法はないかと自分の頭で考える。仮説を立て、実践し、試行錯誤をくり返す。そんな能動的なプロセスの中で、与えられた仕事は「つくり出す仕事」に変わっていく

今の仕事が好きではない症候群

 今の仕事にやりがいが持てない、楽しくない、そうかもしれない。そう思う人はきっと多いのだろう。でもやってみたら楽しかったということは仕事に関わらず多いものだ。特にそんなのやりたくない、と思った遊びに没頭したような記憶はないだろうか。そう、何事も一生懸命やらなければ好きかどうかは実は分からないのではないだろうか。  

人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。 順番は逆で、「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。

そう簡単に夢中にはなれるのならば苦労はしない、ごもっともである。ならば没頭するにはどうしたらいいのか、阻害要因は何なにか、を突き詰めていくしかない。それができないのは、私も含めて結局逃げているということに他ならないとは頭では分かっていることではないだろうか。

「できっこない」をうちやぶる

 これはもう引用のみで事足りる。そのとおりだ。

それでも、これといったアクションを起こさないのは、なぜか? 理由はひとつしかない。 最初っから「できっこない」とあきらめているからだ。(中略)やってもいないうちから「できっこない」と決めつける。自分の可能性にフタをして、物事を悲観的に考える。自分の周りに「できっこない」の塀を築き、周囲の景色を見えなくさせる。 だからこそ、次第に「やりたいこと」まで浮かんでこなくなるのだ。欲望のサイズがどんどん小さくなっていくのである。

これからの時代を生き抜く信用を勝ち取る

これからの時代を生きるあなたには、「お金」ではなく、自らの「信用」に投資することが求められている。ほんとうに困ったとき、人生の崖っぷちに追い込まれたとき、失敗してゼロに戻ったとき、あなたを救ってくれるのはお金ではなく、信用なのだ。(中略)ほんとうに自信があれば、どんな仕事に対しても「自分ならできる」という自分基準の判断を下すことができる。 ハッタリをかますこと、背伸びをすることは、決して悪いことじゃない。他者からの信用を獲得していくために、絶対に乗り越えなければならないハードルなのだ。(中略)80の力しかないのに100の仕事を引き受け、それを全力で乗り越える。すると次には120の仕事を依頼してもらえるようになる。信用とは、そうやって築かれていくものなのだ。

 自分基準の判断を下す、これはもっとも勇気と覚悟が必要である。信用を得るためのリスクとはこういうことも必要で、(失敗の有無は別として)こうしたことをきちんと乗り越えた人が信頼を勝ち取ることになるということだ。

自分の地力を底上げする

 私の来年の目標はここである。敢えて少し地味な一年にして地道な作業をしようと思っている。その結果として何かをカタチにする、それが私の第一歩なのだ。

もし、あなたが仕事で成功して、人生の成功者になりたいと思っているのなら、仕事術の本を読む前にやるべきことがある。 掛け算を覚える前に、足し算を覚えよう。他者の力を利用する前に、自分の地力を底上げしよう。同じ3を掛けるでも、23よりも53のほうが大きいように、自分が2なのか5なのか10なのかによって、結果は何倍にも違ってくる。ゼロからイチへ、そしてできれば5や10へ、自分をもっと積み重ねていこう。

そしてこれは注意事項としてw
常に新しい分野に目を向け、新しい出会いをつくり、新しい情報を浴びて、思考と行動をくり返す。止まることなく、休むことなく、動き続ける。 思考停止が持つ力を甘く見てはいけない。人は少しでも油断すると思考停止に足を踏み入れ、「ここでいいや」と安住の地を求めてしまう。

課題が難しい理由を考えてみる

 30代も半ばになると「このままでは・・・」という思いの苛まされることが多いはずだ。人生が前に進んでいなくでも時間は進んでいく、実に焦るが、一番怖いのは「まぁそういうもんだ、周りも変わらないし」と思ってしまう一瞬が来ることだ。それは痛風のように朝おきたらそう思ってるかもしれないと思うと恐怖に感じるものだが、そう悩まないようにするには結局決断するしかないのである。

どれほど複雑に見える課題でも、元をたどればシンプルなのだ。 シンプルだったはずの課題を複雑にしているのは、あなたの心であり、揺れ動く感情である。そして自分の人生を前に進めていくためには、迷いを断ち切り、シンプルな決断を下していく必要がある。決断できなければ、いつまでもこの場に留まり、「このまま」の人生を送るしかない。(中略)シンプルだったはずの課題を複雑にしているのは、あなたの心であり、揺れ動く感情である。そして自分の人生を前に進めていくためには、迷いを断ち切り、シンプルな決断を下していく必要がある。決断できなければ、いつまでもこの場に留まり、「このまま」の人生を送るしかない。

決断とは捨てること

 ここもログとして引用しておくので十分。

決断とは「なにかを選び、ほかのなにかを捨てる」ことだ。 あなたはAを選んだつもりかもしれないが、それはBやCやDの選択肢を捨てたということでもある。たとえその選択が正しいものだったとしても、決断には大きな痛みが伴うこともあるだろう。

やっぱり努力

 成功する人は努力している、これはもう疑いようもない。ただ、周りから見える苦労は違ったものであるかもしれない。例えばであるが「迷ったらアミダで決断する」という自分の心の中で決めたとしてもそれは他人からは分からない。その決断が結果的に正しければ正しいほど他人からは当たり前のように見られるものである。アミダで決めるというのは大げさな一例ではあるが、絶対に決断するということに対する思いを形する努力としてのアミダと考えればよい。笑い話にように聞こえるかもしれないが、実際にはどっちもホントに決断できないような選択を迫られることがなくはない。十分に情報を集める時間もない場合は、もはや感と経験と度胸なのかもしれないが、理由が見つからないならアミダで決めるという度胸もまた決断と言えなくもない。

人が前に進もうとするとき、大きく3つのステップを踏むことになる。  挑戦……リスクを選び、最初の一歩を踏み出す勇気  努力……ゼロからイチへの地道な足し算  成功……足し算の完了。(中略)でも、挑戦と成功の間をつなぐ架け橋は、努力しかない。

責任とは自由である

 大きな責任とは怖いものだ。誰でも怖い。できなかったら、期待に応えられなかったらどうしよう。私もそう思うことがしばしばある。

大きな責任を引き受けたときにだけ、僕たちは自由になれる。いまあなたが怯えている責任の重みは、そのまま自由の重みなのだ。 失敗なんか怖れる必要はない。僕らにできる失敗なんて、たかがしれている。 たとえ最大級の失敗が襲ってきてもマイナスにはならず、ただゼロに戻るだけだ。それは怖いことでもなんでもない。

確かに責任とはイコール自由なのである。不自由な仕事には責任がなく楽かもしれないが人は自由になりたいと不満がたまる。どちらがいいのだろうか。自分で敢えてその責任をつかみにいくのが怖いなら、最低でも与えられる責任を避けずにすることから始めるしかない。それも嫌なら不満との付き合いを大事にしていくしかないが、そこは人次第である。

何よりも形にこだわる

 「思いをカタチに」、これは近年、私も常に感じているし、後輩にもそういった話をする。ひとつ前に立ち上げて頓挫した勉強会でもこいったコンセプトでキックオフをした。が、これはなかなか難しい。

インターネットの普及によって、アイデアの価値はどんどん均一化されてきている。 アイデアは頭の中からひねり出す時代から、インターネットで検索し、組み合わせる時代になっているのだ。 そこで勝負を分けるのが、スピードと実行力である。 手持ちのアイデアを、いかに具体的な行動に落とし込めるか。そのために一歩踏み出す勇気を持ち合わせているか。 口先のアイデアを披瀝しても、なんら評価の対象にはならない。アイデアを実行に移し、誰よりも早くかたちにできた人だけが評価されるのだ。 飽きっぽい人の持つ「惚れる力」は、その突破口になる。 無節操だと批判されても、行き当たりばったりだと笑われても、勝手に言わせておけばいい。誰よりも早く動き出し、かたちにしてしまおう。

どんなに素晴らしい100のアイデアを持った人よりも、たった一つでも素人のようなコードであっても形にした人の方が、何百倍も信頼できる。それは他人から見た自分でも同じことだ。だから形にこだわっていくことは重要である。

何からはじめるか

 さぁ、2014年、何からはじめてみようか。こんな言葉を引用しておく。

どうやって最初の一歩を踏み出すのだろうか。ヒッチハイクからはじめてみるか、飲み会の幹事からはじめてみるか、さっそく起業に動きはじめるか、進む方向やスピードはどうでもいい。とにかく「ゼロのままの自分」に見切りをつけ、一歩を踏み出すことだ。

最後に

 書いてみると実に引用の多いブログになったが、それほど思ったことが書き綴られていたと言っていい。こういう本を堀江氏が書くということは、やはり迷って決断できなかったり、勇気が持てなかったりする人は山ほどいるわけだ。だから自分だけが。。。と悲観することは何もない。しかし、その状態が10年も続いているなら、きっとここに書いた内容は鼻で笑ってしまうのではないだろうか。でもそれは「もう今更・・・」という自分を取り繕うためではないかと思う。誰もが人から信頼を勝ち取りたいし、何かを成し遂げたいと思っているはずである。そのオモイに忠実に、実現するためには2014年、どんな一歩を踏み出すか、人それぞれ差はあるに違いないが、踏み出すか踏み出さないか、それは未来に大きな違いを生みだす。未来の自分に「こんなはずじゃなかった」と言わせないために。

2013-10-14

管理職になった

10:37 | 管理職になったを含むブックマーク 管理職になったのブックマークコメント

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The 管理職

 さて、長らくブログを書いていなかったが、色々と論文やら何やらとバタついた結果、10月1日付けで管理職になった。念願・・・というほどではないけど、自分が目指す道の通過点の一つではあるので喜ばしいことだ。きっと社内では「あいつが?」とか色々な声があるに違いないが、こういうことを言ってはいけないのかもしれないけど「地位が人を作る」という言葉の通り、これから何とかなるんじゃないかと思っている。ダメだったら降格されるだけ、というほど無責任に思っているわけではないけれど、これから色々とこれまでの失敗とかを活かしながら、未来を見つつ、上司と、後輩と、一緒に素敵なことが実現できるよう尽力しようと思っている。

入社10年を振り返る

 今年で入社10年、もうすぐ10年勤続表彰も受けることになる。そんな10年を振り返ってみると、若気のいたりで上司に噛み付いたことも多くあるが、概ね良好な関係を築いてきたと思っているし、社内勉強会を何度も開催して頓挫したり、社内パネルディスカッションを小規模でやってみたり、と少しだけ業務以外のことにも力を入れてきたつもりだ。実は私は多くの年月を技術系ではあるが間接部門で過ごしてきたので、入社以来現場でバリバリやってきた人には負けることが多数ある(・・・とか言っていてはいけないんだろうけどそこはこれから挽回しようw)。ただ、それを理解した上で推薦してくれた上司や審査員たる役員の方々に昇格認定をもらったことは、もちろんベースとなる売上や利益への貢献は当たり前として、もっと違ったところでの活躍も期待されていると勝手に思っている。

陥り易い「理解あり過ぎる」ということの罠

 さて、少し話を入社時に戻してみたい。入社から3年くらいするとだいたい色んなことが見えてきて、少なくともまだやる気がある人は、「べき論」と「ある姿」とのギャップに噛み付き始めたりする。私もそのひとりだった。まぁだいたい一様に噛み付いたところで、「分かるけど難しいんだよ」とか、上手いというかずるい人は「そうだね、なんでそうしないんだろうね?」とか他人事のように返してきたり、ヒトによっては「じゃぁお前はどうなんだ?」くらいで怒られたりすることもあったわけだが(こんなことを思ったこともあったな、と⇒:言いだしっぺが言い負かされる主な理由と対策 - When I feel like it.)、そんなこんなを繰り返して地位も上がっていくと、上がこれまで言っていることが分かってきたりするわけです、良くも悪くも。それが何をもたらすか、というところがとても重要で、一番ヤバい症状は「あぁしょうがないことなんだ」とか納得してしまうことだ。それって何を表すかというと、自分が同じ立場になってそれを改善するのは大変なので諦めるのが一番楽、という立ち位置なのかと思う。少なくとも私はそうだ。つまり、これから自分の中のこの偽物の「理解ある人材」との闘いが始まるというわけだ。
 

昔思ったことと今の自分にできること

 昔上司や会社に不満を持ったことは今でも覚えていることもあるし、こうしたブログや社内のレポートに書いて残っていることも私の場合は多い(Wikiに悪態を書いていた痛い過去もあるw)。昔はそこまで考えていなかったが、そういうことを振り返れるということはとても最近役に立っている。というのは、地位があがると当たり前になったことでも下には理解できないことがそこに綴られているからだ。そういうことを一つ一つ今の立場で解決できることはやっていくのが使命、とかも勝手に思ったりしている。

実はみんな同じことを思っていることも多い

 これまで理由はないけどこういう習慣になっていて誰も変えようとしないのは「自分は困らない」からという理由が多いのかな、と思う。改革とまではいかないまでも「あれ?」と思うことはそこかしこにある問題だったりする。そういったことを変えるのはとても大変と若い人は思っているかもしれないが、実はそうでないこともたくさんあることに気づいて欲しい。ちょっと極端に言うと、みんな「誰かが言うのを待っている」こともたくさんある。だから勇気を出して言ってみると、意外とすんなり変わることも少なくない。

背中を押す労力は上に行くほど少なくなる

 散々言っといてなんだが、経験上まったく何もせずにいうだけで何かが変わるようなことはやはり少ない。でも、偉そうに言うとちょっと後ろから背中を押してあげることで変わることはたくさんある。その「ちょっと背中を押す」のが意外と大変で、いろんなところに了解をとらなければならなかったりするので少々面倒だ。実はそれを「権力」が助けてくれる。上にいけば行くほど、上が少なくなるし、自分の責任で頼むことができる人も多くなる。依頼された方も下から言われると上に了解を得なければならなかったりするので面倒だが、上から言われるのなら調整さえつけばやれる。

入社5年目あたりの転換期

 私の場合、色々上の話を聞いていて、入社5〜6年目くらいのときにこれは言っても変わらないなと思った瞬間というか時期があった。だってみんな言ってることはまともなので、それぞれの立場でそれぞれの事情があって、やむを得ない理由があるので、それをとやかく言っても始まらない。なら自分で権力を持とうと思った時期である。

権力には責任がつきもの

 いわずもがな権力には責任がついてくる。権力だけを行使することはできないことは誰もが理解している。ここが上にいくことが敬遠される理由、かもしれない(ホワイトカラーの残業問題もあるとは思うけど。)とはいえ売上と利益をあげる責任はやはり大前提なのでそこはまず第一に注力するしかない。その過程で入社3年目とかに私も色々言われるかもしれないが、そこをないがしろにするとやれることもやれなくなってしまうのでご理解頂きたいw。とはいえ、夢を語ることを忘れてはいけないだろう、とは思う。まぁこれからも利益にはもっと貪欲に、そして今まで溜め込んできた思いは会社ぐるみで上手くいくように動いていこうと思う。今ある日々が自分にも会社にも未来への投資であることを忘れずに。

こぼれ話

 最近、出向先で毎週まとめる資料が上手くまとまらず夜22時までかかってしまい、メールで上司に確認依頼をしたところ、指摘とは別に「作成ありがとう。それにしてもこんなに纏めるのは大変だったでしょう」という一言がまず最初に添えられていた。これには35になる私も感動を覚えたことを覚えている。こういう一言の積み重ねが部下との信頼関係を作っていくんだな、と深く心に刻んだ瞬間だった。

2013-06-17

統計学が最強の学問である(その1)

| 00:56 |  統計学が最強の学問である(その1)を含むブックマーク  統計学が最強の学問である(その1)のブックマークコメント

随分前にちまたで騒がれた本を読んでみて、書評を書くのが今になった。先のビッグデータとデータサイエンティストがクローズアップされたことに乗じた本かと思って舐めていたら、予想外に面白く「統計リテラシー」に興味を持たずにいられない。まぁタイトルの釣り具合もなかなかのものなので読んでみる価値はある。特に数学科出身だが紙とペンによる統計学に何も興味を抱かず、成績もイマイチだった私には興味を呼び起こすのに十分な内容だった。筆者の言葉を借りれば「ITによる統計学のパワフルさ」を感じたというところである。今回は、統計の面白さというよりも、ビジネスの世界でデータ分析をどう活かせるのか、活かすために考えるべきことを(その1)としてまとめてみた。近いうちに(その2)として統計学にもう少し踏み込んで統計リテラシーを身につけるという面白さを書いてみようと思う。

何て書いておきながら、今回は書評というより、本文を引用しながら思ったことを綴っていこうかと。

統計学が最強の学問である

統計学が最強の学問である


ビッグデータ」という言葉が流行るワケ

ITはビジネスにとって欠かせないものとなった昨今では、ほとんどの業務プロセスがIT化されている。今後はどうなっていくのか、ビジネスとしてITで武装した集団どうしのせめぎ合いはどこへ向かっていくのか、そんな回答のひとつもここにあるのかな、と思う。

一通りの業務がIT化されてしまうと、ITがらみのビジネスは行き詰ってしまう。いくらハードウェアソフトウェアの処理性能が向上しても、これ以上IT化すべき業務プロセスはないし、顧客が特に性能に不満を持たなければ、商品を売り込むことはできない。だから、ハードウェアメーカーも、ソフトウェアメーカーも、それらを使ってITのサービスを提供しようとする者も、ITに関わる企業はすべて、すでに満足している顧客に、十分すぎる性能を持った新しい技術を売り込む「理由」が必要なのである。 ポジティブな建前としては、この十分すぎる性能を使って「いかに価値を産み出すか」という考え方が必要になる。またネガティブな本音としては「価値を生み出そうがなんだろうが、大量の処理が必要になる使い道」を提案しなければならないし、それを売り込むためには「一見ビジネスの役に立ちそうなお題目」が必要にもなる。

ここの正直な記述がなかなか面白い。要は技術の進歩によって出来ることが広がったが、その技術を売るための理由が必要で、それには「統計学」の力が必要だということだ。つまり、ビッグデータが流行るということの根本には飽和した市場に何とかして技術を売るために腐心する売り手側の苦労の証とも言えなくもない。ただし理由はどうあれ、マイクロソフトGoogleも「これからの10年で最もセクシーな職業は統計家」と言っている事実もあるため、そうした企業が主導する以上、本当にそうなっていく可能性は高い(というより大企業側の先導でそうしていくのだろう)。

サンプル数は多いほど良い!?

統計学を駆使する前には事前にデータを準備する必要があるが、そのデータは多ければ良いのだろうか。ここには標準誤差という考えを入れる。標準誤差を説明すると、サンプルから得られた割合に対して標準誤差の2倍を引いた値から標準誤差の2倍を足した値までの範囲に真の値が含まれている信頼性が約95%、という値である。

ほんの1%やそこらの精度を改善することは、果たして数千万円も投資する価値のあるクリティカルな影響を持つのだろうか。その答えがYESならその会社は間違いなくビッグデータ技術に投資を惜しむべきではない。だが、もしNOと答える会社なら数千万円分の投資のうちいくらか、あるいはそのすべてについて、お金をドブに捨てるようなものと言えるのかもしれない。

つまり統計的な「精度の改善」と「投資」のバランスをこの標準誤差によって保つことができる、例えば8000名分の解析程度ならエクセルでできてしまうが100万人分の解析にはビッグデータ技術が必要というときに、その精度は1%しか違わないというならどうする?という判断を正しくする必要がある、ということだ。

あなたの会社にはデータ分析が必要か

「データ解析が必要だ」と思える局面は多々ある・・・がコスト以上の利益を自社にもたらすような判断につながるかどうかが問題である。データをビジネスに使うためには次の3つの問いに答える必要がある。

【問1】何かの要因が変化すれば利益は向上するのか!?
【問2】そうした変化を起こすような行動は実際に可能なのか!?
【問3】変化を起こす行動が可能だとしてそのコストは利益を上回るのか!?
この3つの問いに答えられた時点ではじめて「行動を起こすことで利益を向上させる」という見通しが立つのであり、そうでなければわざわざ統計解析に従って新たなアクションを取ろうとする意味はない

自社でもコンサル会社でも良いが、調査結果として提示されたグラフがこの問に答えられるものでなければ、その解析結果は意味がないということは、ビジネスに携わり利益をあげようとする人なら疑いようのない事実だろう。それは、ビッグデータを使ったとしても同じことなのである。ここに筆者は厳しく突っ込んでいる。
あなたが行なおうとしている、あるいは誰かに依頼しようとしている分析が、そもそもまったく【問1】〜【問3】の質問に答えられるものでないのだとすれば、精度がどうとかスピードがどうとか言う以前にそもそもやるだけムダである。

ビジネスを推し量れないデータ分析は無駄だということだ。

製品を買ってくれる人は誰か!?

 自社の製品は誰かが買ってくれるから成立するわけだが、誰が買っているのだろうか。もう一歩踏み込むとなぜ買ってくれるのだろうか。それは価値があるからに他ならない。マーケティング的には価値を追求するのだが、本書では当然ながら統計的な検知から考えている。つまり、「なぜか分からないが買ってくれる人」と「そうでない人」の違いをコントロールしようというわけだ。例えば、DMを送付するかどうか、DMを送付するにしても売上を伸ばす顧客とそうでない顧客の違いはなにか、というところをデータを用いて集計できればそれは売上の数%を左右することになる。仮に1%の差でもその違いを明確に見つけることができれば、100億の売上企業では1億売上が増加するわけなので、バカにはできない。こうした何となく、とか経験的に、という部分を明確に数値化して裏付けがとれると今一番何をすべきかという戦略目標が見えてくる。

誤差を考慮する

 さて、実際にはこういったクロス集計だけでは中々難しく、「誤差」についての考慮が必要となる。誤差を考慮するとどの程度の誤差までが意味のある数値と考えることができるかを明確化できる。要は、ある条件下で統計をとったとき、その差が本当に売上に影響のある結果なのか、単なる誤差なのかが分かる、ということだ。統計的にはこの「実際には何の差もないのに誤差や偶然によってたまたまデータのような差(正確にはそれ以上に極端な差を含む)が生じる確率」のことをp値という。慣例的にこのp値が5%以下であれば、その結果は偶然の偏りではなく意味のある偏りだと判断できる(誤差とは考えにくい)。本書はこの誤差についてこう書いている。

誤差を理解し、誤差を考慮したうえでも意味がある結果といえるかどうか、という統計学の考え方を身につければ、こうした間違いから解放されることだろう。

どのようなデータを解析するべきか

 先ほどの「なぜか分からないが買ってくれる人」と「そうでない人」の違いをコントロールするには「適切な比較を行うこと」と、「ただの集計ではなく、その誤差とp値についても明らかにする」ことを意識すればよい。そうなると次の課題は、何を比較すればよいか、ということになる。つまり、違いを生み出しうる要因を探し当てるには何を比較すればよいかという話に他ならない。
 結論としては、「利益をあげる」か「そうでないか」の違いを比較すればよい。それは需要が伸びるか、とか生産性を上げるか、といった要素とも言える。ビッグデータという言葉が一人歩きする中で重要なことは、ここである。データがあるからと言って「ここから何かわからないか」という視点では誰の得にもならないような結果を導き出してしまうかもしれない。それはそれで無用だとは言わないまでも、ビジネスという局面の中においては、直接的な利益になるか(またはそこに至る因果関係が明確なか)が導き出せなければならない。まさしくそれらが売上(等)と比較するデータになるわけだ。繰り返しになるが、どのような関係で利益とつながっているデータであることが分からないままに漠然と解析することは意味がなく、まずはそうした比較対象や差異を得るデータを見つけ出すことが重要になる。
※こう書いていると、結局のところビッグデータブームとやらで一番儲けるのは、データサイエンティストというより、コンサルタントなのではないか、と思ったり思わなかったり。。。

まとめ

 ビジネスが飽和する中でのこうしたビッグデータブーム、顧客企業のデータ解析を売りにする意外にも、自社でデータを保持しているのであればそれは解析すると売上があがる結果を見いだせるかもしれない。その際に重要なことは「このデータを利用できないか」というありがちな落とし穴にはまらず、ビジネスのゴール、つまり利益をあげることができる対象は何か、というものを見つけ出すことだ。また、仮にそれを見つけ出したとしても、そのコストと想定の利益との比較をもって実施有無を判断しなければ、有用なデータを見つけたが利益よりも解析コストが上回って赤字、なんて笑えない話になりかねない。あくまで、ビッグデータ統計もビジネスのためであることを忘れてはならない、ということだ。

2013-04-26

他人のふり見て我が身をふと振り返る

01:34 | 他人のふり見て我が身をふと振り返るを含むブックマーク 他人のふり見て我が身をふと振り返るのブックマークコメント

最近思う部下の教育について少し。

今はちょっと特殊な環境にあるが、今年の4月で2年目を迎える私の部下。そんな2年目の彼を私はとても優秀だと思っている・・・が足りないところももちろんある。(むしろその点の方が彼の年次には合っているのかもしれないが。)

今日、他社の方と飲んでいて、部下への指摘について驚くほど同じ感覚で指導していて驚いたが、ふとこの部下は育つだろうか、ということが気になった。もちろん厳しく叱責することもあるし、同じことをしつこくいうこともある。

が、この他社の方と話していて一致したのは
「本当に理解できているだろうか・・・」
という疑念をもっていることだ。

「厳しくやっているんだけど、部下がなかなか育たない」

近いうちにこんな状況が生まれていたら、私の叱責は単純に「萎縮」や失敗に対する「恐れ」や「不安」を与えているに過ぎないということだ。せっかくの優秀な才能を潰すわけにはいかないが、それゆえの期待もある。

部下が100%正しいことを行わなくても、おおむね正しいことを行えば、それを認めることを心がけなければならない。100%正しい行動とは、おおむね正しい行動の積み重ねである。(ケンブランチャード博士)


心がけます。最近は、反省が多い・・・。

2013-04-10

ファシリテート失敗を人のせいにする未熟な自分との闘い・・・

23:14 | ファシリテート失敗を人のせいにする未熟な自分との闘い・・・を含むブックマーク ファシリテート失敗を人のせいにする未熟な自分との闘い・・・のブックマークコメント

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f:id:yukinkster:20130410233829j:image:right
最近疲れていたと思いたい。疲れからくるイラつきか、イラつきからくる疲れかは分からないが、愚痴っぽい自分がいる。誰もが疲れているはずのこのプロジェクト、自分だけが疲れているわけではない、むしろ周りの方が疲れているに違いない。

 そんな日を過ごしながら、何だか漠然としか内容が分かっていない会議のファシリテートをすることになった今日、黙ってふったりしていれば上手く収まるかなぁなんて・・・甘かった。決まらない、終わりの見えない、判断材料がないんじゃないのかと思った、そんな会議。いつしか私はイラついていた。「決めるのは俺じゃない」「直近で困るのは俺じゃない」そう思っていたからね。そんな会議を何とか締め、席に戻ると上司に言われる。

「ちゃんとファシリテートしてくれないと・・・」

とね。イラつきが最高潮を迎えた瞬間、「実際に直近困る人たちが良いというならもういいんじゃないですか?」と言い返した自分がいた。その私のイラつきに笑ってくれた上司、あとから思えば私は反省するばかり。

このレベルでは内容の習熟度とファシリテートはそれほど相関関係がないことは知っている。要は、決めるべき人や困る人を言い訳にしているだけで、決めるべき人や困る人が決められるように困らないように場を上手く進めて、最適解を見出すお手伝いをするのもファシリテーターの役割、人の責任にしているようでは甘いどころか、恥ずかしい限り。上司がそんなことを言いたかったかどうかは分からないが、きっとそう思っていただろう。逆に上司に「ちゃんとファシリテートしてくれないと・・・」と言われなかったら冷静には考えなかったかもしれない。
 
 正直、自分の中では真正面から向き合ってこなかったファシリテーターというポジション、何となく持っている力だけを使ってこなしてきたファシリテーション、今いるポジションはその力を飛躍的にあげるチャンスなのは知っている、ならミッションを超えるところまで正面から向き合ってみようと思う(それもどうなのかとw)。ファシリテーターとしてのスキルをあげる機会が満載の明日をまた頑張ることにする。

森和夫さんは言っている。

リーダーには才よりも徳が求められる

私には才も徳も著しく不足している。そんなことを痛感して、また登る階段と対峙する4月10日。

2013-04-06

ビジョンが部下には伝わらないという現実の受けとめ方

13:00 | ビジョンが部下には伝わらないという現実の受けとめ方を含むブックマーク ビジョンが部下には伝わらないという現実の受けとめ方のブックマークコメント

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少し前にhatenaビジョンを部下と共有することはできないという前提で考えるという記事を読んだが、面白かった。

抜粋するとこのあたりが秀逸というか、結論じみているというか、未熟な私にはいわゆる世間に認められる優秀な他人でもこう思っているんだということで安心する部分でもある。

そういう状況を、僕は時々苛立たしく思うことがないと言えば嘘になる。何度言えば解るんだ、と思うこともある。でも真実は、何度言っても解るわけがない、ということだけだ。
けれども多くの場合は時間が解決する。いまは鬱陶しく思っていたとしても、その人物が真に優れた人物ならば、10年後、僕と同じ立場、同じ視座に立った時に初めて僕が今言っていたことの真意が理解できるはずだ。10年経っても同じ視座を得られないなら、そもそもそんな人物とビジョンを共有する価値はなかったのである。そう割り切るしかない。


新人にも、若手にも思いを伝えているつもりだけど、「あぁこいつは分かっていないんだな」という思うことが多々ある。でもそれは私と私の上司の関係でも同じことが言えるに違いない。つまり、上司のビジョンを私が理解できていないということだ(そもそもビジョンがないというのは論外だけれどもw・・・)。

というよりは、多くは「新人にも、若手にも思いを伝えているつもりだけど」という部分がそもそも怪しい。少なくとも私の場合は。プレゼンや文書は如何に他人に上手く伝えるか、を考えるのに、部下にはそこまで考えずにその場で思ったことをただしゃべる、伝わっていないことを嘆くよりも伝え方を考える方が先なのだと最近は思っている。(決して清水亮さんができていないということではなく、一般論と私個人のお話。)

要は「伝える側の責任」も考えなくてはならないし、それが仮に完璧だったとしてもなお(すぐには)部下には伝わらない」という現実を受け止めなければならないのだ。

上司としては歯がゆいと思うかもしれないが、この現実を受け止めた上でどうするか、それを考え続けられる人が将来的に多くの部下を従えることになっていることは揺るがない事実のように思う。

2013-02-13

あの人に言っても仕方がない・・・

00:27 | あの人に言っても仕方がない・・・を含むブックマーク あの人に言っても仕方がない・・・のブックマークコメント

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今日hatena20代の社員に「アホは出口さんです」と言われましたという記事が上位だったので読んでみたら面白かった。ライフネット生命の出口さんと社員のやりとりというかコミュニケーションが書かれた記事なのだが、独特の社風が見て取れるし、理にもかなっている。

まずはこんな記述。

 60代の頭では、20代、30代のことが分からないのだ、と。当たり前じゃないか、と思われるかもしれません。けれども、私のようになまじひとつの業界で経験を積んでいると、自分の経験のほうを重視しがちになってしまうのです。
 ただ、コミュニケーション、とりわけウェブでのコミュニケーションは、その舞台での中心が20代30代です。だったら彼ら彼女らの文法に従うのが筋、というものです。


これは中々潔いというべきなのか、普通は「自分の経験のほうを重視しがち」になって当然である。若手に負けたくない気持ちもあれば自分の生きてきた道を否定されたくもないから。「顧客のことを考えろ」という上司は多いが、そうであれば出発点として「顧客に近い」人材の言うことを信じてみることが一つの選択肢ではある、ということに気づかされる。

もうひとつ。これはちょっと耳が痛いひとがいるかもしれない。
40代半ばから上の、会社で偉いポジションに就いている読者の皆さん。もし皆さんが、会社で「俺は聞いてないよ」という経験を何度もしていたら、それはあなたが、年下の社員たちに「あの人に言っても仕方ない」と思われている証拠なのです。


これはあると思う。下の人間も自分の意見を通すことに必死なことに違いはない。そうであれば話の分かってくれそうなところから攻めるのは当然である。ただ、日本はおそらくよくできた人材が多くて、「俺は聞いてない」を最後まで放置することは少なく、何らかの形、しかもその人の顔をつぶさないように後処理をすることもよくある話のように思う。そこまで深読みすると、気分は悪い状況ではなくても、後から聞くことが多いという人は「あの人に言っても仕方ない」と少なからず思われている可能性は否定できない。