急にGalaxy 5G Wifiにスマホがつながらなくなった原因

私はスマホ2台もちなんですが、単純に機種変後に旧機種をWifi専用で使っているだけです。新しい方がZenphone8で古い方がZenphone5。で、Galaxy 5G Wifiを使っているので、Zenphone8では電話とかLineとかを主に、Zenphone5で動画を主にって感じで使ってます。




が、ある日突然Zenphone5がGalaxy 5G Wifiにつながらなくなりました。
症状としては、Galaxy 5G WifiSSIDを選択しても無視される。
今思えば、つながらなくなってパスワードを聞かれたときに気づくべきでしたが・・・

原因:Galaxy 5G Wifiの暗号化方式がWPA3に変わっていたため

これ、普通は気づきそうなもんですが、切り分けするために行ったのは以下で、Zenphone8がつながるので、Zenphone5側がおかしくなったと思ってしまいました。

スマホ側:

■Zenphone8:WPA3まで対応
 →WPA3に変わってもつながる

■Zenphone5:WPA2まで対応
 →WPA3に変わったらつながらない、WPA2は問題なくつながる。


Wifi側:

■自分のWifi(Galaxy 5G Wifi):WPA3になぜか変更になってた
 →Zenphone8(〇)、Zenphone5(×)

■家のWIfi:WPA2
 →Zenphone8(〇)、Zenphone5(〇)

■人のポケットWIfi:WPA2
 →Zenphone8(〇)、Zenphone5(〇)

※〇:つながる、×:つながらない

バッグにGalaxy 5G Wifiを入れていて、画面ロックもしていなかったのでうまいことバッグの中のものとの摩擦で変わっちゃったのかなぁ・・・と思っていますが、設定は変えていない、さっきまで接続できてたのに使えなくなった、他のWifiはつながるとかの状況(切り分け)からもうZenphone5の寿命だと思い込みました。。。

どれもつながらないなら、暗号化方式は疑ったかもしれませんが、Zenphone8がつながることで、そこに気づきませんでした。悔やまれる。機種の新しさによる違いを考慮できず・・・。
新たにZenphone5未開封品を何とか手に入れたあとで気づいたのでさらに悔やまれる。買ったZenphone5どうしよう・・・さすがに3台はいらない・・・。

自分の組織を「采配」する

采配

采配

野球選手として落合はすごいなと常々思っていたけれど、あまり読む気にはなれなかった落合さんの本「采配」。正直、なんかひねくれた事がたくさん書いてあるんだろうな、と思っていましたが度肝を抜かれました。私は野村さん信者な訳で「野村ノート」とか今でも読むのだけれど、一気に私のバイブルに躍り出ましたよ。ちょうど次年度計画に悩んでいたので大変参考になりました、という事で自身の備忘録も込めて。
 
野球のチーム采配の話?とか思ってる人もいるでしょう。私もそう思ってました。まぁそうといえばそうなんですが、非常にビジネスに通じるものがありました。野球を知っていたり野球が好きだとより楽しめるって感じでしょうか。
名2遊間だった井端と荒木の劇的なコンバートの理由 
とかは純粋に野球ファンとしても楽しめますし、選手との関係、監督の覚悟、コーチの役割、選手の立ち居振る舞い、最後は幸せって何なのか、とかね。
 

「慣れ」という恐怖

 仕事も「慣れ」とは恐ろしい。「慣れ」とは楽なものでもありそのままにしておくのが心地いいし楽だから、それは衰退の一歩だと思っている。でもそれをやめる楔を打てる人はそうはいない。2つの取引先と非常にいい関係を築けている2人のリーダー、一見うまくいっているようでも、停滞感や後継者の問題に数年後はぶち当たる事は必須だろう。わかっていても行動に移せる人はほぼいない、だって今困ってないから。ここに荒木と井端のコンバート理由があった。

数年にわたって実績を残している レギュラークラスの選手からは、〝慣れによる停滞〟を取り除かなければいけない。 もちろん、こうした私の考えを二人には話し、「挑戦したい」という意思を確認した上でコンバートに踏み切った

落合によると、慣れの停滞を取り除くとともに、2~3年先の井端の後釜の遊撃手を育てておく必要があったから。それを判断して断交したのは落合自身であり、もしもうまくいかなかったらという現実に目を背けないという確固たる意思の結果であった。また、こんな事も書いてあった。

井端も荒木も、新しいことに取り組むのは簡単ではないと実感しただろう。それが次なる成長への糧になり、結果としてチームのプラスに作用してくれればいい。 慣れている安定感を前面に出すか、慣れによる停滞を取り除くか

聞けばそうだし、口で言うのもまぁ難しくはないが、断交するのにどれほどの勇気がいるのか、それは上に立つものなら誰にでも分かる事だろう。

そして組織の崩壊

 いつの時代も仕事もキーマンというものはいるもので、荒木と井端を二遊間のポジションから外そうなどと誰ができる事なのだろう。未来を見据えたらこのままではヤバいな、なんてことは誰でも思うことだろうが、今うまくいっている仕組みを壊すというのは本当に勇気のいる決断であり、できる人はそういない。でもそういっているうちに世代交代すらできずに静かに組織は崩壊していく、みんなが分かっていながらみんなで終わりを見るという最悪の事態になっていくわけだ。

チームリーダーは不要

 チームリーダーは組織には重要なものだと私は思っているが、落合は違うようだ。極論、チームリーダーは不要と考えている。

チームリーダーという存在によって、競争心や自立心が奪われていくことは、組織においてはリスク以外の何物でもない。 気づけば全員そのまま歳を取ってしまっていたでは、チームにも選手一人ひとりにとっても、取り返しがつかないことになる。 組織に必要なのはチームリーダーではなく、個々の自立心と競争心、そこから生まれる闘志ではないか。年齢、性別に関係なく、メンバーの一人ひとりが自立心を持ち、しっかりと行動できることが強固な組織力を築いていく。つまり、一人ひとりが自分なりのリーダーシップを備えていれば、チームリーダーなる存在は必要ない

まぁ極論ではあるが、要はリーダーのせいにして自身で考える事や実施する事を放棄するようなメンバーが育つ可能性がある、という事だ。正直、それは確かに言える。落合は、チャンスの場面で「あの人ならやってくれる」という思いすら、「勝負のかかった場面で人に依存している事自体が勝負に負けている」と厳しめだ。

選手の気持ち

 上にたって選手や社員を率いているとどうしてもその人たちの気持ちを考えてしまう。「しまう」と言ったが、考えないといけないのはもちろんだ。ただし、全員が納得いくようにはできない、という事は割り切りが必要で、嫌われるという事は嫌だけど受け入れないとどうしようもない。何しろ、こっちは人事権を握っているのだから、不遇な状況になる選手や社員も当然いる。その人たちにも嫌われないように配慮するとなれば、もう組織の体をなさなくなってしまう。だから、あの人はいい監督だ、とかあの人はいい上司だ、と言っている裏では一定数あの人の采配や指示・やり方は間違っている、という思いがある事はしょうがない。でもそういった状況を変えるのは、やっぱり自分だという事は教えなければならないといつも思っている。落合氏もこういうように書いていた。

この時代の若い選手に教えておかなければならないのは、「自分を大成させてくれるのは自分しかいない」 ということ

結局、そうとしか言えない。このチームや組織にいてよかったと思えるのは、重用されたメンバなのだから。そうなるように自身を持っていくしかなく、運やタイミングもあるだろうが、そこにこだわって自身が先に進めないようでは、人生を楽しめないのではないだろうか。

どんな世界でも円滑な人間関係を築くことは大切だ。しかし、「上司や先輩が自分のことをどう思っているか」を気にしすぎ、自分は期待されているという手応えがないと仕事に身が入らないのではどうしようもない。物質的な環境がよくないと感じたら、上司に相談したり、改善の提案をすることは必要だが、人間関係の上での環境に関しては「自分に合うか合わないか」などという物差しで考えず、「目の前にある仕事にしっかり取り組もう」と割り切るべき だと思う。 人間味あふれる人と評判の監督が率いるチームでも、「このチームにいてよかった」と心底感じているのはレギュラークラス、すなわち監督に重用されている選手だけだ。

選手は財産

 そう言いつつも、やはり選手で成り立っているプロ野球、社員で成り立つビジネス、である。人は財産なのは間違いない。ここも引用しておく。

球団の財産は選手だ。ならば、どんなことをしてでも選手を守らなければいけない。企業経営者と話をしても、 常に考えているのは「どうやって利益を上げようか」ではなく、「いかに社員とその家族の生活を守っていくか」である。 その目的を達成するためなら、自分は嫌われたって恨まれたって構わない。それが監督を引き受けた時の覚悟であり、チームを指揮している間、第一に考えていたことである。

すべて勝つためには疲労が伴う

 プロ野球ではシーズン130試合をすべて勝つというのは無理なもの、負け試合というのはあるわけである。それでも毎試合勝つために全力を尽くす、というのは非常に選手の疲労が伴ってしまう。勝てそうだから、と延長15回まで全戦力をつぎ込んで最後の最後にやっぱり負けてしまったとなると、次の日の選手の心も体力も相当に疲弊する事になる。そういった試合をどの時点で諦めて次につなげるか、それはトータルで勝つために必要な事なのだ。
 ビジネスで考えると、売上や利益が少ない案件や顧客に対して、無理にそれを上げにいこうとするか、それともそこは成長の場や次につなげるものとして考えて、敢えて落とすという考え方をすべきだろう。すべての案件、顧客に関して売上・利益を同様に求めても社員は疲弊するだけだ、というのは同じである。ただ、それが常態化するのは企業として良くないので、売上・利益が出ているときにはその分析も怠ってはならない、というのが落合氏の考え方だ。

いい結果が続いている時でもその理由を分析し、結果が出なくなってきた時の準備をしておきたい。 そして、 負けが続いた時もその理由を分析し、次の勝ちにつなげられるような負け方を模索すべき

選手や社員が何をしなければならないかを示す

 野球の世界では、監督として重要な事はチームを優勝させる事である。これは勝負の世界なのだからもちろん今年は2位でいい、なんていうオーナーはいないだろう。
これは企業組織でも同じである。そのためには、選手や社員がどうすればよいかという事を示しながら、組織を前に進めていかなければならない。ここは落合氏も同じようだ。

私の監督としての仕事はただひとつ。ドラゴンズを日本一にすることであった。 だが、チームを預かる立場になって強く感じてきたのは、勝った負けたという結果よりも、大切なのは 選手たちを迷子にしない ことなのだということ。私が「日本一になる」とだけ宣言し、その方法論を示してやらなければ、選手たちは何をすればいいのかわからなくなり、チームは迷走してしまう。

采配

 ここはもう落合氏の言葉をそのまま引用する。言うことはありません。

自分が身を置く世界に愛情や情熱を持ち、着実な変革を目指そうとするリーダーは誰なのか。 このことは、球団が監督を、企業のある部署が部長を決める時、つまり身近なリーダーを選ぶ時にも大切な要素なのではないだろうか
人生を穏やかに生きていくことには、名声も権力も必要ないと考えている。 要するに、 仕事で目立つ成果を上げようとすることと、人生を幸せに生きていこうとすることは、まったく別物と考えているのである。 やりがいのある仕事に巡り合えないと思っていても、だから不幸というわけではない。
大切なのは、何の仕事に就き、今どういう境遇にあろうとも、その物語を織り成しているのは自分だけだという自負を持って、ご自身の人生を前向きに采配していくことではないだろうか。
人や組織を動かすこと以上に、実は自分自身を動かすことが難しい。それは、「こうやったら人にどう思われるのか」と考えてしまうからである。だからこそ、「今の自分には何が必要なのか」を基本にして、勇気を持って行動に移すべきだろう。

愛情と情熱もって変革を成し遂げるリーダー、やりがいのある仕事であろうがなかろうが、物語を織りなす自分を前向きに采配する、そして最後は勇気をもって行動する、そういう事だ。

タンブラーの効能

夏になるとタンブラーが活躍する。そう、あのタンブラー。

サーモス 真空断熱タンブラー 600ml ステンレス JDA-600 S

サーモス 真空断熱タンブラー 600ml ステンレス JDA-600 S

これの一番いいところ、ぬるくならない、そりゃそうですが何といっても水滴がつかないこと。テーブルが濡れない、これが最大の価値だ。私にとっては。。。

結構夏はテーブルが濡れますよね、それが一度も拭かなくていい。

でも、ハイボールとか作るときにどこまで酒が入ったか見えないので入れすぎる、という欠点もなきにしもあらずw

SI'er から ビジネスデザイナーへ

こんな本があると釣りと思ってもつい読んでしまう。まぁよしとしてさらっと読めるし考えさせらることもあるのでSI'erの方には一見の価値はあるかも。
なぜこの本を手に取ったかはこの1点につきる。

  • 大きな見積に失敗するとその後数年苦しい道を歩むことになるというモデルへの疑問

ということで、内容を引用しつつそれらに対する解を考えてみたい。

SI'erというシゴト

 SI'erは顧客に価値を提供しているはずであるが、原点に戻ってそもそもSI'erとは何かから考えてみる。

システムインテグレーションとは、システムを構築する際に、ユーザーの業務を把握・分析し、ユーザーの課題を解決するようなシステムの企画、構築、運用サポートなどの業務をすべて請け負うことである。これらを行う業者がSIerである。(IT用語辞典より引用)

「システムを構築する際に、ユーザーの業務を把握・分析し、ユーザーの課題を解決するようなシステムの企画、構築、運用サポートなどの業務をすべて請け負う」とある通りなのだが、どうもインテグレートという言葉がしっくりこない。でも実際はRFPをもらい、経営効率化のためにこんなことをシステム化したいという要望をもってどんなシステムでどんな機能があるからといったことを積み上げて工数を算出し、その上でより詳しくどんな機能をどういう作りでといったところを検討・設計していくわけだ。

システムを提供するわけではないということへの理解

 SI'erの定義は上記の通りだが、いつからだろうか、文字通りシステムを売るのではなく価値を売るのだ、と言われ出すようになったのは。結構長いこと言われているように思うが、誤解を恐れずに言えばやっぱり大半の人は分かっていない。正確に言うと「頭では分かっている(つもり)だが・・・」という人が大半なのだ。あまりにも言われることだから見聞きしたことはもちろんあるので「価値を提供するんだ」と言われると「そうだよね」「その通りだ」とは思えるものの、いざ「価値を提供せよ」と言われても理解できていないからやっぱりシステムを提供しようとしてしまう、これが世の中の人の大半だ、と私は言い切ってもいい。

システムインテグレーションの本来の役割は、テクノロジーを使って、お客様のビジネスの価値を高めることです。ビジネスプロセスを革新することであり、お客様のビジネスにイノベーションをもたらすことが、本来の目的です。しかし、それがいつの間にか、手段であるはずの「情報システムを作ること」へと目的がすり替わってしまったようにも見えます。 この「顧客価値を高めて、その対価を得ることで、ビジネスを成り立たせる」という原点をあらためて見つめ直す必要があります。

SI'erの未来

 ではSI'erは終わりなのだろうか。その答えは御社の中にあるという実にズルい回答だが、ひとつだけ言えるのは今と同じやり方・考え方で10年はもたないだろう。「変わらなければ!!」もはや私には滑稽にさえ聞こえるこの言葉は耳にタコができるほど聞いているが、私も含め「誰かが変えてくれるわけではない」ことにもっと恐怖を感じなければならない。SI'erの未来は私が語るわけではないが、このあたりはヒントになるだろう。

手段であるテクノロジー要素のひとつひとつがどんなに優れていても、プロセスの断片が正しくても、全体として事業目標を達成させるためのデザインがないビジネスは、お客様に魅力を感じてもらえません。新規事業のプロジェクト責任者は「ビジネスデザイナー」でなければなりません。

システムのデザインだけでなく、顧客のビジネスデザインを創造する、そのデザインをシステムを使って実現し、それによって顧客が得られる価値こそがまさに提供するもの、というわけである。大それた考え方にうつるだろうか。例えばいきなり数百億円級の案件でこれをやろうとしても破綻しそうである。ならば小さい案件から少しずつというのが現実的な解であろう。劇的な変化ではなく身近なものから少しずつ、そういうことだ。

SI'erのゴールは何か

 ゴール、今までの話上もちろんシステムを作ることではないはずですが現実はどうか。SI'er側はまず見積だが、ここでは競争がベースとなっているため、ギリギリの利益ラインのせめぎ合いとなる。そんな見積上の少ない利益を少しでも増やすためギリギリまで原価を落としたいところだ。ここでビジネスのデザインがどうとか言っているとどうか。もうすでに貰える金額は決まっているので、作る予定の機能を粛々と作る以外の作業をしていると逆に原価が食われてしまう。ということで、SI'erは作るといった機能を予定通りにシステムとして作り上げていく、それに従事することになる。これはSI'erの利益の最大化という面では最も効率が良い方法になるのでとてもじゃないがSI'erを責めるわけにはいかない。一方、SI'er側の売上を支払った顧客はどうか、顧客はもちろん自分たちの利益を上げるため、経営上の課題解決のためのシステムを目指している。当然ながらそこには目指すべきものがあるわけだが、SI'erは最初に決めた通りにどんどん作っていく。それは使い勝手が悪かろうが、要らない機能だろうが関係ない。当然のことながら顧客は不満を漏らし始め、改修・変更を要求する。するとSi'erは改修費用がかかるので仕様変更として追加のお金をくれと言い出す。顧客としては要らない機能を提案して作ったのはSI'er側のビジネスの理解不足としてお互いの言い分が激突する。とはいえSi'erはシステムを収めてお金を貰わないと今までの工数がまるまる赤字となるので立場上は弱く悪い条件でも飲まなければならない事態にも陥る(実際はここは両社の関係次第で、後から別案件で回収とかもできる可能性がある)。結果としてどうなるか、本書ではこう書いてある。

情報システム部門は、工数積算で予算を確定でき、瑕疵担保で成果物の完成責任をSI事業者に負わせることができます。一方、SI事業者は、作業負担が増大するリスクを抱えながら、低利益を強いられます。問題が起きれば、情報システム部門は「SI事業者の要件定義が不十分であり、スキル不足なのが悪い」「自業自得だ」といい、SI事業者は「要件定義を適性に評価できなかった情報システム部門の問題だ」と頭を抱えます。このような、「ゴールの不一致」と「相互不信」といった「構造的不幸」を内在したままのSIビジネスが、双方にとって健全であるはずはありません。

なので重要なのはここのゴールを一致させることだ。それってどうするのか、そこが今後のSI'erの収益モデルの変更になるだろうし、「変わらなければ!!」の行く先でもあることだろう。

SI'erと顧客のゴールを同じにすれば解決する

 そう、もう答えは簡単だ。顧客とSI'erのゴールを同じにしさえすればよい(簡単に言うな、と)。正確には顧客とSI'erのゴールを同じにできる仕組み(モデル)の構築が答えのひとつだ。さて、どうすればよいか。その一つの恒例が成果報酬である。去年、こんな記事を新聞で目にした。

簡単に説明すると、NTTデータANAの貨物の予約や搬入、積載など一連の中核業務を支援する新基幹システムを無償で構築し、本番稼働後はANAが取り扱った貨物量(貨物の搭載重量)に応じて月額利用料金をANAから貰うと言うものだ。これの凄いところは単に継続的な収入を得られるということだけではない。先のゴールの不一致を解決するモデルなのだ。当然ながらシステム構築がまるまる初期投資なので採算の管理が丸ごと変わる上に、使えないシステムを作ってしまうと利益どころか初期投資回収すらできない状態に陥るのでNTTデータは単にシステムを作ればよいという訳にはいかない。真剣にANAの経営課題に向き合い、どういったシステムならANAの利益が最大化するかを考え抜いたことだろう。ANAとしてはもちろん使えるシステムを作りたいはずなので思惑は一致する。
 母体となる会社規模が大きくないとこんなことはできないと思うかもしれない。だからこそスモールスタートである。会社によってスモールの規模は異なるかもしれないが、まずはごく小さいシステムから試してみてはどうだろう。その中で今まで見えてこなかったことが見えるようになるとともに今まで直面しなかった課題にぶちあたるに違いない。それを乗り越えてこそ、新しいビジネスデザイナーへの道が開ける、そう私は思っている。また、本書では成果報酬の他に、レベニューシェアサブスクリプションが挙げられている。ぜひ読んでみて欲しいが、時間のない人は下記スライドでも。

つい忘れるviエディタの設定

サーバを初期化したのでfirewallの設定をしていたらどうにもviエディタで文字化けするなぁ、と。[編集]-[貼り付け]でもダメだな、と。

ふむ。文字コード設定を忘れておりました・・orz
結構個人的に何度もやるので忘れないように備忘。

[root@xxx ~]# vi .vimrc
 :set encoding=utf-8
 :set fileencodings=iso-2022-jp,euc-jp,sjis,utf-8

ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく

 さて、今年も残すところあと2日となった。今年は色々なことがあったが概ね静かな一年で新しい行動を起こせなかったことは反省すべき点である。理由としては管理職への昇格試験があってその準備に一時期追われ、その準備期間に本を読んだり自己啓発をしたりとすることが激減し、そのまま惰性で2ヶ月を過ごした、というのが現状だろうか。そんな今年の最後のブログはこんな本で締めくくろうと思う。

 言わずと知れた堀江さんの本である。結構、本屋にも平置きされていたりするので手にとったことがある人は多いのではないだろうか。この本は何気に読み始めたが今年一番の本だった。収監されて人は何を感じるのか、「反省」ということではなく、何もなくなったときに自分はどうするだろうか、ということを考えさせられる本である。あっという間に読めるので、特に来年どうしようか、と思っている人は一年の計を立てる前にこの本を読んでみるといいかもしれない。ではいつもどおりキーワードベースに。

新しいことをしようとする時は条件はみな同じ

 色んな人が新しい第一歩を踏み出すのは間違いないが、それは新人であっても管理職であっても変わらずに怖いものだ。誰かに反対されたらどうしよう、誰も賛同してくれなければどうしよう・・・そんな思いが一歩を阻害していることは間違いない。

人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ。

新しい一歩というのは周りから見るとそうでもなくても、本人にとっては一大事業なのだ。スタートラインにたとうと思ったことだけで尊敬に値すると私は思う。そして、実はスタートラインに立った人を見ている人も実はその人がどんな道を走り抜けるのかは分からない。だからもうここは精神論と考えた方がよい。えい!ってやってしまった方が良い、準備はそのあとで良いかな、と思う。

言葉だけでは人を捉えられない

 このブログでも何度も言っているように、私も含め多くの人は総論賛成各論反対の立場を取る傾向にある。特に日本人はそうかもしれない。下手をすれば言いだしっぺすら各論反対に回る可能性すらあるww 堀江氏はその善悪は関係なく行動の人であり強い口調で論ずることがしばしばあるが、それについてこんなことが書かれている。

、理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。そればかりか、ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、まず「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。言葉を尽くして丁寧に説明しなければならない。その認識が完全に抜け落ち、多くの誤解を招いてきた。これは最大の反省点である

言葉を尽くす、私にもっとも欠けている部分かと思う。確かに人は見ているということもあるが、目的のためにはきちんと丁寧に説明すべきなのだ。正しいからいつか分かってくれる、ということもないこともないかもしれないがこの忙しい時代にそんなに丁寧に人を見ている人はなかなか多くはない。特に上にいけば行くほど理解しておかなければならないことだろう。

もし、あなたが「変わりたい」と願っているのなら、僕のアドバイスはひとつだ。 ゼロの自分に、イチを足そう。 掛け算をめざさず、足し算からはじめよう。

そう、急に大きな存在にはなれないのだから自分の2歩目を踏み出せるための1歩目はどんなレベルなのか、それを見出すことが先決だ。仮に大きなことをやりたいと思うのなら、そのことに辿りつくまで具体的に何歩に刻んでいくのか、それが現実的な計画であり一番の早道と言えるだろう。それはこんな言葉で語られている。

そして経験とは、時間が与えてくれるものではない。 だらだらと無駄な時間を過ごしたところで、なんの経験も得られない。 なにかを待つのではなく、自らが小さな勇気を振り絞り、自らの意思で一歩前に踏み出すこと。経験とは、経過した時間ではなく、自らが足を踏み出した歩数によってカウントされていくのである。

「ノリのよさ」をポジティブに受け取る

 自分は自分、そう思っている人ほど変われないものだろう。私もそのひとりであるが、「ノリのいい人」というのは周りに一人や二人いるに違いない。自分はそういうノリの人間じゃない、そう思わずちょっとだけ、普段の自分なら選択しないことをやっていくと何か違う日常が待っていて何かが変わるきっかけになるかもしれない。そしてそれはチャンスにもつながる可能性を秘めている。とはいえ・・・と思うかもしれないが、そこにいつまでも考えていても何も始まらない。さすがにそこはチャレンジなのである。

小さな成功体験の前には、小さなチャレンジがある。 そして小さなチャレンジとは、「ノリのよさ」から生まれる。

「もらう」から「稼ぐ」へ

お金を「もらう」だけの仕事を、お金を「稼ぐ」仕事に変えていこう。

これは起業している、または起業したことのある人にとっては至極当たり前のことだと思うが、プロジェクトの歯車になっている間は実はなかなか感じられない。自分の何かが利益に直結するという数字を見たことがないからかもしれない。これはそういった数字を見る必要がない、見なくてもなんら支障が出ないからに違いない。数字を気にしながら日々を暮らすと辛くげんなりするような気がするが、どう売上を、利益をあげていこうかと考えることに少し違った興奮を感じる(嫌気がさすことの方が多いかもしれないが・・・w) ただ、「もらう」から「稼ぐ」に意識が変わると仕事の質は劇的に変わる可能性が高いので一度考えてみた方がよい。

クリエイティブな仕事!?

 クリエイティブな仕事がしたい、とはよく聞く言葉であるが、いざやろうとするとどれほどの人ができるだろうか。その真実、困ることになって、最終的にググることになったりはしないか・・w。そう、クリエイティブな考えや仕事は、やればできる類のものではない。そこには実は大きな勇気と覚悟が必要である。前例にないことをどう説明できるか、反対されても確固たる自身をもって推進できるか、それができる人は多くはないに違いない。結果、あまり説明しなくても楽な既存の方法に流れてしまう。とはいえ、10年以上もクリエイティブな仕事をしてこずにいきなりやれと言われても難しい。なので、本気の改善を繰り返して、少しずつそういった作業に慣れていくしかない。

マニュアル(前例)どおりにこなすのではなく、もっとうまくできる方法はないかと自分の頭で考える。仮説を立て、実践し、試行錯誤をくり返す。そんな能動的なプロセスの中で、与えられた仕事は「つくり出す仕事」に変わっていく

今の仕事が好きではない症候群

 今の仕事にやりがいが持てない、楽しくない、そうかもしれない。そう思う人はきっと多いのだろう。でもやってみたら楽しかったということは仕事に関わらず多いものだ。特にそんなのやりたくない、と思った遊びに没頭したような記憶はないだろうか。そう、何事も一生懸命やらなければ好きかどうかは実は分からないのではないだろうか。  

人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。 順番は逆で、「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。

そう簡単に夢中にはなれるのならば苦労はしない、ごもっともである。ならば没頭するにはどうしたらいいのか、阻害要因は何なにか、を突き詰めていくしかない。それができないのは、私も含めて結局逃げているということに他ならないとは頭では分かっていることではないだろうか。

「できっこない」をうちやぶる

 これはもう引用のみで事足りる。そのとおりだ。

それでも、これといったアクションを起こさないのは、なぜか? 理由はひとつしかない。 最初っから「できっこない」とあきらめているからだ。(中略)やってもいないうちから「できっこない」と決めつける。自分の可能性にフタをして、物事を悲観的に考える。自分の周りに「できっこない」の塀を築き、周囲の景色を見えなくさせる。 だからこそ、次第に「やりたいこと」まで浮かんでこなくなるのだ。欲望のサイズがどんどん小さくなっていくのである。

これからの時代を生き抜く信用を勝ち取る

これからの時代を生きるあなたには、「お金」ではなく、自らの「信用」に投資することが求められている。ほんとうに困ったとき、人生の崖っぷちに追い込まれたとき、失敗してゼロに戻ったとき、あなたを救ってくれるのはお金ではなく、信用なのだ。(中略)ほんとうに自信があれば、どんな仕事に対しても「自分ならできる」という自分基準の判断を下すことができる。 ハッタリをかますこと、背伸びをすることは、決して悪いことじゃない。他者からの信用を獲得していくために、絶対に乗り越えなければならないハードルなのだ。(中略)80の力しかないのに100の仕事を引き受け、それを全力で乗り越える。すると次には120の仕事を依頼してもらえるようになる。信用とは、そうやって築かれていくものなのだ。

 自分基準の判断を下す、これはもっとも勇気と覚悟が必要である。信用を得るためのリスクとはこういうことも必要で、(失敗の有無は別として)こうしたことをきちんと乗り越えた人が信頼を勝ち取ることになるということだ。

自分の地力を底上げする

 私の来年の目標はここである。敢えて少し地味な一年にして地道な作業をしようと思っている。その結果として何かをカタチにする、それが私の第一歩なのだ。

もし、あなたが仕事で成功して、人生の成功者になりたいと思っているのなら、仕事術の本を読む前にやるべきことがある。 掛け算を覚える前に、足し算を覚えよう。他者の力を利用する前に、自分の地力を底上げしよう。同じ3を掛けるでも、23よりも53のほうが大きいように、自分が2なのか5なのか10なのかによって、結果は何倍にも違ってくる。ゼロからイチへ、そしてできれば5や10へ、自分をもっと積み重ねていこう。

そしてこれは注意事項としてw

常に新しい分野に目を向け、新しい出会いをつくり、新しい情報を浴びて、思考と行動をくり返す。止まることなく、休むことなく、動き続ける。 思考停止が持つ力を甘く見てはいけない。人は少しでも油断すると思考停止に足を踏み入れ、「ここでいいや」と安住の地を求めてしまう。

課題が難しい理由を考えてみる

 30代も半ばになると「このままでは・・・」という思いの苛まされることが多いはずだ。人生が前に進んでいなくでも時間は進んでいく、実に焦るが、一番怖いのは「まぁそういうもんだ、周りも変わらないし」と思ってしまう一瞬が来ることだ。それは痛風のように朝おきたらそう思ってるかもしれないと思うと恐怖に感じるものだが、そう悩まないようにするには結局決断するしかないのである。

どれほど複雑に見える課題でも、元をたどればシンプルなのだ。 シンプルだったはずの課題を複雑にしているのは、あなたの心であり、揺れ動く感情である。そして自分の人生を前に進めていくためには、迷いを断ち切り、シンプルな決断を下していく必要がある。決断できなければ、いつまでもこの場に留まり、「このまま」の人生を送るしかない。(中略)シンプルだったはずの課題を複雑にしているのは、あなたの心であり、揺れ動く感情である。そして自分の人生を前に進めていくためには、迷いを断ち切り、シンプルな決断を下していく必要がある。決断できなければ、いつまでもこの場に留まり、「このまま」の人生を送るしかない。

決断とは捨てること

 ここもログとして引用しておくので十分。

決断とは「なにかを選び、ほかのなにかを捨てる」ことだ。 あなたはAを選んだつもりかもしれないが、それはBやCやDの選択肢を捨てたということでもある。たとえその選択が正しいものだったとしても、決断には大きな痛みが伴うこともあるだろう。

やっぱり努力

 成功する人は努力している、これはもう疑いようもない。ただ、周りから見える苦労は違ったものであるかもしれない。例えばであるが「迷ったらアミダで決断する」という自分の心の中で決めたとしてもそれは他人からは分からない。その決断が結果的に正しければ正しいほど他人からは当たり前のように見られるものである。アミダで決めるというのは大げさな一例ではあるが、絶対に決断するということに対する思いを形する努力としてのアミダと考えればよい。笑い話にように聞こえるかもしれないが、実際にはどっちもホントに決断できないような選択を迫られることがなくはない。十分に情報を集める時間もない場合は、もはや感と経験と度胸なのかもしれないが、理由が見つからないならアミダで決めるという度胸もまた決断と言えなくもない。

人が前に進もうとするとき、大きく3つのステップを踏むことになる。  挑戦……リスクを選び、最初の一歩を踏み出す勇気  努力……ゼロからイチへの地道な足し算  成功……足し算の完了。(中略)でも、挑戦と成功の間をつなぐ架け橋は、努力しかない。

責任とは自由である

 大きな責任とは怖いものだ。誰でも怖い。できなかったら、期待に応えられなかったらどうしよう。私もそう思うことがしばしばある。

大きな責任を引き受けたときにだけ、僕たちは自由になれる。いまあなたが怯えている責任の重みは、そのまま自由の重みなのだ。 失敗なんか怖れる必要はない。僕らにできる失敗なんて、たかがしれている。 たとえ最大級の失敗が襲ってきてもマイナスにはならず、ただゼロに戻るだけだ。それは怖いことでもなんでもない。

確かに責任とはイコール自由なのである。不自由な仕事には責任がなく楽かもしれないが人は自由になりたいと不満がたまる。どちらがいいのだろうか。自分で敢えてその責任をつかみにいくのが怖いなら、最低でも与えられる責任を避けずにすることから始めるしかない。それも嫌なら不満との付き合いを大事にしていくしかないが、そこは人次第である。

何よりも形にこだわる

 「思いをカタチに」、これは近年、私も常に感じているし、後輩にもそういった話をする。ひとつ前に立ち上げて頓挫した勉強会でもこいったコンセプトでキックオフをした。が、これはなかなか難しい。

インターネットの普及によって、アイデアの価値はどんどん均一化されてきている。 アイデアは頭の中からひねり出す時代から、インターネットで検索し、組み合わせる時代になっているのだ。 そこで勝負を分けるのが、スピードと実行力である。 手持ちのアイデアを、いかに具体的な行動に落とし込めるか。そのために一歩踏み出す勇気を持ち合わせているか。 口先のアイデアを披瀝しても、なんら評価の対象にはならない。アイデアを実行に移し、誰よりも早くかたちにできた人だけが評価されるのだ。 飽きっぽい人の持つ「惚れる力」は、その突破口になる。 無節操だと批判されても、行き当たりばったりだと笑われても、勝手に言わせておけばいい。誰よりも早く動き出し、かたちにしてしまおう。

どんなに素晴らしい100のアイデアを持った人よりも、たった一つでも素人のようなコードであっても形にした人の方が、何百倍も信頼できる。それは他人から見た自分でも同じことだ。だから形にこだわっていくことは重要である。

何からはじめるか

 さぁ、2014年、何からはじめてみようか。こんな言葉を引用しておく。

どうやって最初の一歩を踏み出すのだろうか。ヒッチハイクからはじめてみるか、飲み会の幹事からはじめてみるか、さっそく起業に動きはじめるか、進む方向やスピードはどうでもいい。とにかく「ゼロのままの自分」に見切りをつけ、一歩を踏み出すことだ。

最後に

 書いてみると実に引用の多いブログになったが、それほど思ったことが書き綴られていたと言っていい。こういう本を堀江氏が書くということは、やはり迷って決断できなかったり、勇気が持てなかったりする人は山ほどいるわけだ。だから自分だけが。。。と悲観することは何もない。しかし、その状態が10年も続いているなら、きっとここに書いた内容は鼻で笑ってしまうのではないだろうか。でもそれは「もう今更・・・」という自分を取り繕うためではないかと思う。誰もが人から信頼を勝ち取りたいし、何かを成し遂げたいと思っているはずである。そのオモイに忠実に、実現するためには2014年、どんな一歩を踏み出すか、人それぞれ差はあるに違いないが、踏み出すか踏み出さないか、それは未来に大きな違いを生みだす。未来の自分に「こんなはずじゃなかった」と言わせないために。

管理職になった

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The 管理職

 さて、長らくブログを書いていなかったが、色々と論文やら何やらとバタついた結果、10月1日付けで管理職になった。念願・・・というほどではないけど、自分が目指す道の通過点の一つではあるので喜ばしいことだ。きっと社内では「あいつが?」とか色々な声があるに違いないが、こういうことを言ってはいけないのかもしれないけど「地位が人を作る」という言葉の通り、これから何とかなるんじゃないかと思っている。ダメだったら降格されるだけ、というほど無責任に思っているわけではないけれど、これから色々とこれまでの失敗とかを活かしながら、未来を見つつ、上司と、後輩と、一緒に素敵なことが実現できるよう尽力しようと思っている。

入社10年を振り返る

 今年で入社10年、もうすぐ10年勤続表彰も受けることになる。そんな10年を振り返ってみると、若気のいたりで上司に噛み付いたことも多くあるが、概ね良好な関係を築いてきたと思っているし、社内勉強会を何度も開催して頓挫したり、社内パネルディスカッションを小規模でやってみたり、と少しだけ業務以外のことにも力を入れてきたつもりだ。実は私は多くの年月を技術系ではあるが間接部門で過ごしてきたので、入社以来現場でバリバリやってきた人には負けることが多数ある(・・・とか言っていてはいけないんだろうけどそこはこれから挽回しようw)。ただ、それを理解した上で推薦してくれた上司や審査員たる役員の方々に昇格認定をもらったことは、もちろんベースとなる売上や利益への貢献は当たり前として、もっと違ったところでの活躍も期待されていると勝手に思っている。

陥り易い「理解あり過ぎる」ということの罠

 さて、少し話を入社時に戻してみたい。入社から3年くらいするとだいたい色んなことが見えてきて、少なくともまだやる気がある人は、「べき論」と「ある姿」とのギャップに噛み付き始めたりする。私もそのひとりだった。まぁだいたい一様に噛み付いたところで、「分かるけど難しいんだよ」とか、上手いというかずるい人は「そうだね、なんでそうしないんだろうね?」とか他人事のように返してきたり、ヒトによっては「じゃぁお前はどうなんだ?」くらいで怒られたりすることもあったわけだが(こんなことを思ったこともあったな、と⇒:言いだしっぺが言い負かされる主な理由と対策 - When I feel like it.)、そんなこんなを繰り返して地位も上がっていくと、上がこれまで言っていることが分かってきたりするわけです、良くも悪くも。それが何をもたらすか、というところがとても重要で、一番ヤバい症状は「あぁしょうがないことなんだ」とか納得してしまうことだ。それって何を表すかというと、自分が同じ立場になってそれを改善するのは大変なので諦めるのが一番楽、という立ち位置なのかと思う。少なくとも私はそうだ。つまり、これから自分の中のこの偽物の「理解ある人材」との闘いが始まるというわけだ。
 

昔思ったことと今の自分にできること

 昔上司や会社に不満を持ったことは今でも覚えていることもあるし、こうしたブログや社内のレポートに書いて残っていることも私の場合は多い(Wikiに悪態を書いていた痛い過去もあるw)。昔はそこまで考えていなかったが、そういうことを振り返れるということはとても最近役に立っている。というのは、地位があがると当たり前になったことでも下には理解できないことがそこに綴られているからだ。そういうことを一つ一つ今の立場で解決できることはやっていくのが使命、とかも勝手に思ったりしている。

実はみんな同じことを思っていることも多い

 これまで理由はないけどこういう習慣になっていて誰も変えようとしないのは「自分は困らない」からという理由が多いのかな、と思う。改革とまではいかないまでも「あれ?」と思うことはそこかしこにある問題だったりする。そういったことを変えるのはとても大変と若い人は思っているかもしれないが、実はそうでないこともたくさんあることに気づいて欲しい。ちょっと極端に言うと、みんな「誰かが言うのを待っている」こともたくさんある。だから勇気を出して言ってみると、意外とすんなり変わることも少なくない。

背中を押す労力は上に行くほど少なくなる

 散々言っといてなんだが、経験上まったく何もせずにいうだけで何かが変わるようなことはやはり少ない。でも、偉そうに言うとちょっと後ろから背中を押してあげることで変わることはたくさんある。その「ちょっと背中を押す」のが意外と大変で、いろんなところに了解をとらなければならなかったりするので少々面倒だ。実はそれを「権力」が助けてくれる。上にいけば行くほど、上が少なくなるし、自分の責任で頼むことができる人も多くなる。依頼された方も下から言われると上に了解を得なければならなかったりするので面倒だが、上から言われるのなら調整さえつけばやれる。

入社5年目あたりの転換期

 私の場合、色々上の話を聞いていて、入社5〜6年目くらいのときにこれは言っても変わらないなと思った瞬間というか時期があった。だってみんな言ってることはまともなので、それぞれの立場でそれぞれの事情があって、やむを得ない理由があるので、それをとやかく言っても始まらない。なら自分で権力を持とうと思った時期である。

権力には責任がつきもの

 いわずもがな権力には責任がついてくる。権力だけを行使することはできないことは誰もが理解している。ここが上にいくことが敬遠される理由、かもしれない(ホワイトカラーの残業問題もあるとは思うけど。)とはいえ売上と利益をあげる責任はやはり大前提なのでそこはまず第一に注力するしかない。その過程で入社3年目とかに私も色々言われるかもしれないが、そこをないがしろにするとやれることもやれなくなってしまうのでご理解頂きたいw。とはいえ、夢を語ることを忘れてはいけないだろう、とは思う。まぁこれからも利益にはもっと貪欲に、そして今まで溜め込んできた思いは会社ぐるみで上手くいくように動いていこうと思う。今ある日々が自分にも会社にも未来への投資であることを忘れずに。

こぼれ話

 最近、出向先で毎週まとめる資料が上手くまとまらず夜22時までかかってしまい、メールで上司に確認依頼をしたところ、指摘とは別に「作成ありがとう。それにしてもこんなに纏めるのは大変だったでしょう」という一言がまず最初に添えられていた。これには35になる私も感動を覚えたことを覚えている。こういう一言の積み重ねが部下との信頼関係を作っていくんだな、と深く心に刻んだ瞬間だった。