迫ってきたような気がする核心
日曜日、中央線が強風にあおられて電線に巻き付いた吹き流し大のビニール様のものに2時間ほど足止めを喰らった日、まさに僕は僕の乗る車両の目の前で行われる撤去作業を眺めながらボーッと過ごしていた。
というわけでその日は一時開始予定のカウンセリングは五時に延期された。
二時過ぎに名古屋に着き、そこから実はまだ実物を見ていなかったCellレグザを見にビックカメラに立ち寄り、ちょっとどころかだいぶガッカリしてみたり*1、久々に大須関連の巡回スポットを廻ったりしてみたが、二時間近く歩くと引きこもっていた古傷持ちにはきつい状況になり、五時少し前に先客が帰ったことを確認して早目に始めてもらった。
そういう事情で疲れていたこともあってか、カウンセラー氏は僕の状態を余程酷く見積もったらしく、通常の一時間はほぼ雑談に費やされ、僕が少々苛立ってきた頃から本筋が始まった。
さて、この日はかなり核心に迫った話があった。しきりに出たキーワードは「本当の自分を見つめましょう」。何を今更という話ではある。
ただ、これまでは比較的その時々のテンポラリィな話題に対処しつつ、本質的な問題はどこにあるのか探っていたような気がする。
で、そう言った流れの中の一つの総括として、カウンセラー氏は僕が自分の理想像に固執し、完璧主義的なマインドを持っているが故に常に幸せではない状態をキープしてしまっているという見立てを出したようだ。
恐らく、片付けが出来なかったり、思考に論理性を欠いたり、と言った自分の欠点を直そうとするのではなく、ありのままに認めて、その中で自分の生活を立て直してはということだとは思う。
だが、これはいわば禅宗の究極目標のようなもので、簡単なようでいてとても到達できるとは思えない境地のように思える。
それは具体的にどうするのですかという問いを発したような気もするし、何らかの明確ではないが答えは返ってきたような気もする。が、結局方法論として座禅を組めとか瞑想しろとか催眠療法を受けるといった具体的な何かは示されず、ただ僕の状況をその都度総括されただけだったような気がする。
過去を振り返って変えようのないことに原因を見いだして諦める、と言うわけでもないらしい。
ただ自分が心地よく暮らすと言うことだけイメージすれば、何とか金を貯めて仕事を辞めて本当の引き籠もりになれという話では多分無いのだろう。
強いて言えばお酒を飲んで自我を解放した自分を常態とする、と言うことが近いのかもしれない。だが、それすら結果としてみてのんでいるときは気分良く自分を出せていても後から思い出すことは後悔することばかりではなかったか。
あることについて、これも駄目、アレも駄目、もっと高いところがあるはずと手を伸ばし続けることが実は体感的なQoLを下げているということは自分の実例を持って理解しうる範囲に入ってきたような気がするが、では人間とは何か、少なくとも自分のような日常生活もままならないような欠陥品がちょっと高いところにある「当たり前」を目指すことは普通のことなのではないかという思いもなお残っている。
おそらく、だとすれば何か僕のカウンセラー氏の言葉に対する理解が欠けているのではないか、という漠とした不安もある。
結局この日、恐らく三時間以上をかけて話した内容は些末な部分ばかり再生されて、肝心な部分は語られたのかどうかさえ曖昧なまま、ただ本質に迫る一生かけても答えの出なさそうな宿題の表題だけが思い返されていて、僕はひたすら困惑している。そう言う状況。