夢を記録する

地震のあとは、夢をみなかった。
そもそもろくに寝られなかった。

地震の2週間後、久しぶりに夢をみた。
亡くなった母が、旅館みたいな部屋の中、浴衣すがたで
わたしの知らないふたりのおばさんと寛いでいた。
わたしが、「こんなとき何してるの?」というと
「こっちもいろいろあってさ」と何か意味ありげな表情で
言った。そこで夢は終わって、目が覚めたとき、
不思議と幸福感があった。

でもそれは一瞬で終わって、またすぐに現実を思い出して苦しく
なったけど、地震以来はじめて、少しだけ暖かい気持ちになった。
あたし、大丈夫かもしれない、と思った。

おとといの朝みた夢では、アソウさんという実在の、でも
何年も会ってない友人に、飛行機のチケットを頼んでいたのに、
キャンセルしてしまって、その後をしきりに気にするというもの。
今朝の夢は、いろいろな種類と大きさの魚を、ちょうどいい
大きさの箱に詰めたいのに、ふさわしい箱がなくて四苦八苦していた。

そろそろ描きたくなってきた

先月末から、大学絡みの飲み会やイベント続きだった。
28日のN先生の懇親会は六本木で。開始時間までちょっと時間があったので
芋洗い坂付近をぶらついた。大昔このあたりの会社にお勤めしていたのだよ。
その会社は今もあるけど、所在は変わったらしくて、ほぼそのあたりと
思われるビルには、キャバーンクラブがあってびっくりした。だってそこは
その後に入った会社の同僚たちのお気に入りだったから。よく誘われたけど
なんとなく行かないでいた。よく知った場所に存在していたんだな〜。
懇親会のあとはカラオケまでも。先生すごい元気だよ〜。あとMさんも80歳以上
だろうに。好きなことして生きてると元気長生きなのだね、きっと。
Mさんはグループ展も主催していて、次回には参加することにした。

次は9月最初の土日。大学の公募展に入選したので、その最終日に見物したり
ここでもまた懇親会があって、同窓生が大勢集まった。
初めて夫も同行したので、大学内を案内して回った。

東京も酷暑だけど、京都も猛烈だった。頭がクラクラした。
会の前にN先生のスペシャトークがあり、今回が初めての公募展で1等2等を
決めて賞金を出すということに大反対だったという趣旨の発言があった。
確かに、入場者の投票であれば、大勢の友人知人を動員すれば、賞は取れてしまう
かもね。次回はどうなるんだろう。
通信の懇親会の後は近所の小さなお店にぎゅうぎゅう満員の二次会。
今回出品したわたしの作品は、卒業生仲間には好評で、「卒制よりよかった」と
言われてとても満足だった。

翌日は搬出があるので、カラオケに流れそうなところを、仲間たちと
タクシーで逃走。ヤレヤレ。
翌日は搬出のあと、いつもの同世代の仲間たちと近代美術館に行った。
時間の早い「のぞみ」を予約していたので、早々にみんなと別れ京都駅に
向かった。大原方面にサイクリングに行った夫と新幹線ホームで待ち合わせ、
東京に戻った。
次はいつ京都に行くのかな。

そういえば最近、京都に行くという友人にお勧めの場所を聞かれたけど、
スクーリングとかばかりで、観光はあんまりしていないので、
答えに窮してしまった。
お寺もいいけど、サブカル系雑貨店やカフェとか骨董屋さん、パン屋さんも好き。
永観堂の水琴窟は、お勧めしたいです。

11日は「二科展」で、またもやN先生のギャラリートーク。3週連続N先生。
15日は「新制作展」。I先生とランチ。平日のためか、集まったのは女子ばかり。
公募展は刺激ある。知ってる人も出してるし、毎年連続して見ていると、記憶に
残っている作品(作者)もあって興味深い。
そろそろ描きたくなってきた。

4月の雪

搬入、卒展、卒業式、謝恩会で大忙しの3月もあっという間に終わった。
晴れがましさと楽しさ、やりとげた充実感、それと同じくらいの寂しい気持ちがないまぜ。
学生証は31日に西洋美術館で使って、その役割を終了。

大学院に行きたい気持ちは少しはあったけれど、いかんせん高額で。
聞くところによれば、今回の卒業生の中から、5人が大学院に進んだそうだ。

大学関係の書類など片付けていたら、3−1と3−2で、合わせて7回のダメだしの添削文が
出てきて、しばし読み耽ってしまった。
謝恩会のとき、N先生から、「本当に7回も?」と苦い表情で言われたけど、本当だよ〜。
でも、わたしは、全然納得してるから、とN先生に力説。
I先生とM先生には、感謝以外の気持ちは一切ないから。

お花見をかねて卒制で知り合ったNさん(この人は9年在籍、先輩だ)と会ったとき
これからの活動の話の中で、個展を勧められて、びっくりした。
次のチャレンジとしては最高だと思う気持ちと、まだまだと思う気持ちと、半々。

今年はなかなか春らんまんにならない。
3日前には、雪が降った。
それで、中学のとき、4月に雪が降ったことを思い出した。
それは新聞などにも出て、記憶は確かだったようでホッとしたけど
それにしても、なんと41年前、1969年。万博前年。

ところで、このところの仕事休みに日に絵筆をとらずに見たレンタルビデオの記録を。

「マンマ・ミーア」
「プール」
南極料理人
「オリンダのリストランテ

最後のスクーリング

最後のスクーリングも、あっという間に終わってしまった。
特に3日目は写真撮影から額縁張り、梱包まで、怒濤の体力勝負だった。
そうだ、ここって、毎度毎度そうだったよな〜と過去を思い起こした。
高原キャンバス時代には、キャンバスや絵の道具を詰め込んだ段ボール箱
抱えて、ヨロヨロと階段を上り下りしたし、絵の具が足りなくなって本校舎
のお店に行ったらお休みで、さらに遠くの画材屋まで走ったことも。
デジカメが必要だったのにうっかりして走り回ったことも。
塑像作りでは、粘土の固さや縄や針金などと格闘、肌寒かったのに、汗だく
になったのを思い出す。

梱包のあと、50数人全員が集まって、最後の先生たちの言葉があった。
ひたむきにただ描き続けてほしい、という一番若いY先生の言葉に好感を持った。
頑張ったことにエールが送られると、あちこちからすすり泣きが聞こえた。

最後の最後は拍手と笑顔で、みんなと挨拶。ここでできた縁を大切にしたいと
心から思った。

次は来月、卒業制作展の搬入だ。

卒業制作のこと

2010年も早2月に。卒業制作のことを書いておきたくなった。
今月中旬の3日間のスクーリングで、実質終わる。卒制展まで、そのまま
作品を大学に置いて帰ってくるのだ。

11月のスクーリングでは迷いが生じ、12月は6人の先生の、6通りの意見に
翻弄された。担当のN先生は、何かとビリジャン系のグレーを使わせたがって、
それをご自分で筆にとって試してしまうので、それはないよと顔で笑って
心で泣いた。

家での制作では、先生の意向とは別の方向に行きたくなり、わたしの
絵なんだからそれでいい!と思ったり、今は学生なんだから、ここは
先生の意見に従ったほうがいいのかといった俗な迷いで描いては消し、
消しては描いて・・・。一歩進んで二歩下がる、そんな実感の1月だった。

先日の休みの日に画面に向かっていたら、なんとなく、気が済んできつつ
あるのに気づいた。結果的に2枚描いたのもよかった。2枚目でやっと自由に
羽を伸ばせたような気がする。副論で目指した内容と異なるので卒制展には
出せないと思うけど、いつかきっと発表したいと思う。

その影響なのか、この間まであった焦りみたいなものが薄くなっている。
卒制は、単なる通過地点に過ぎないのだ。この大学生活の
集大成とか気負うから肩に力が入ったんだって、やっとわかった。
卒業式に何着ようかが今一番の関心事♪