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こころなきみにも

2009-11-02

アレクセイなんて偉大じゃない?

| 20:57

 以下は亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を点検するさいの作業手順。

 1)作業はドストエフスキーが区切った一段落ごとに行う(テキストはナウカ版ドストエフスキー全集)。

 2)亀山訳を読み、ロシア語原文との違いを点検する。

 3)必要があれば、原文を見ながら当該段落のロシア語朗読(ユーリー・ザボロフスキーによる朗読)を繰り返し聞く。

 4)必要があれば、当該段落を自分で音読。

 5)私見を記述。

 6)試訳を作成。

 7)私はこの世で永遠に生きる時間を与えられているわけではないので、時間節約のため、基本的には、次の文献を参照するにとどめる。すなわち、原卓也江川卓、小沼文彦、三氏の訳業。NN氏、木下豊房氏、森井友人(仮名)氏、横板に雨垂れ氏(もちろん仮名)の亀山訳批判、大島一矩氏『「カラマーゾフの兄弟」の翻訳をめぐって』(光陽出版社、2008)。さらに必要な場合、他の方の訳業や外国語訳も参照する。もちろん、私がうっかり参照していないケースも出てくるだろう。そういうときはご指摘願いたい。しかし、この批判を「完全を期して」という風にはやりたくない。もちろん、亀山訳みたいにデタラメなのは困るが、少しぐらいはミスがある方がいいだろう。人間だもの。お前は相田みつをか。

 8)私見と試訳を当ブログに公開。

 9)ブログの読者からの批判に同意できるなら、私見および試訳にそれを生かす。

 すでに行った『カラマーゾフの兄弟』エピグラフの点検もこの作業手順に従った。その結果、エピグラフの訳は日本聖書協会の1955年改訳版をそのまま採用することにした。なお、森井友人氏のご指摘で、亀山がエピグラフを訳すさい、新共同訳聖書をそのまま引き写していると知った。しかし、このエピグラフ冒頭部の翻訳に関するかぎり、新共同訳聖書はロシア語原文とあまりにもかけ離れているので、亀山訳を不適訳と見なすことにした。

 なお、私が「誤訳」というのは次の二つのケース。

1)原文の解釈が明らかに間違っている場合。

2)原文の解釈は正しいが、翻訳文が日本語として明らかに間違っている場合。

 また 「不適訳」というのは次のケース。

 明らかな誤訳とは言い切れないが、適訳とも言い切れないとき。たとえば、原文と翻訳文の対応関係がしっくりこない場合とか(先のエピグラフのような例)、亀山訳には頻出するケースだが、翻訳文が日本語として間違っているとは言えないが、正しいとも言えないような、松田優作風に言えば「なんじゃ、こりゃあ」と悶えるような場合。

 さて、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』の最初の段落。

【亀山訳1】

 著者より

 私の主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフを私の主人公と呼んでいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身よくわかっているので、たとえば、こんなたぐいの質問が必ず出てくると予想できるからである。

 あなたがこの小説の主人公に選んだアレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか?どんな偉業をなしとげたというのか?どういった人たちにどんなことで知られているのか?一読者である自分が、なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくていはならないのか?

 すでに「段落問題」のところで述べたことだが、ここは作者の意図を尊重して一つの段落に戻すべき。作者の意図に逆らってまで新しく段落を区切るためには、それ相応の必然性がなければいけない。しかし、お前の言うことなんか信用するものか、という権威主義者がいるかもしれない。いや、いるだろう。そこで余計なことではあるが、そういう権威主義者を説得するため、翻訳の「権威」の言葉を引用しておこう。

 改行が少なく、ひとつの段落が長い、というのは翻訳小説の特徴のひとつで、場合によっては、改行なしに2ページぐらい黒々とひとつの段落が続くこともあり、本を開いただけで、日本の小説とはだいぶ印象が違う。数十年前の翻訳は、そういうところをわりあい融通無碍に処理していたようで、訳者が好きなところで段落を分け、原文では1段落の箇所を、3つか4つに分割しているのをよく見かけた。最近では、そういうやり方はあまり流行らないようである。どこで段落を分けるか、どこに改行を入れるかは、原著者の意思を尊重して、原文のとおりにするのが原則になっている。おおげさにいえば、文筆家の中には改行の入れ方に命を賭けている人もいるので、こういう部分はやはり厳密に処理した方がいいのである。ところが、またひとつの段落を勝手に二分割三分割している翻訳小説が現れはじめている。訳者本人は「このほうが読みやすいのだ」と思っているらしいが、張りつめた原文が、たいがい間延びした日本語になっているのは、勝手に段落の切り方をいじった副作用である(と断言しよう)。これから翻訳を学ぼうとする人は、とりあえず、原文の段落を勝手に分けない、ということを念頭において修行にはげんでいただきたい。(宮脇孝雄、『翻訳の基本』、研究社、2000、p.57)

 私もかりにこの宮脇氏の権威を笠に着た権威主義者のようにふるまうことにしよう。われわれが亀山訳を一読して、それが緊張感のないずんべらぼうの訳文であると感じるのは、亀山の訳文そのものに原因があることはもちろんだが、宮脇氏が言うように、もうひとつの原因がその乱暴な段落分けにあることは明らかだ。亀山は、「ええ、読みやすけりゃいいんでしょ、みなさん、読みやすけりゃ」という風に、まあ、やけくそにぽんぽこ段落を切り分けている(ように思える)。このような行為は誤訳と同じくらい、あるいは、切り方次第では、誤訳以上に罪深い行為となる。この罪については、個々の段落について述べるときふれる。

 さて、段落内の誤訳について述べてゆこう。( )内は亀山と同じように誤訳あるいは不適訳を犯している訳者。

 【誤訳】「なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくていはならないのか?」の「暇をつぶす」(小沼)。

 【理由】「暇をつぶす」という言葉は、やることがなくて暇をつぶすという場合に使う。『カラマーゾフの兄弟』を読む人は『カラマーゾフの兄弟』を読むというやるべきことがあるので、「暇をつぶす」のではない。原文では「暇をつぶす」のではなく「時間を浪費する」となっている。

 【不適訳】「一代記」(жизнеописание)という訳語(江川、小沼)。

 【理由】「何とか一代記」というのがありますね。功成り名を遂げた人の「何とか一代記」。たとえば、「裸の大将一代記」とか「細腕一代記」とか「亀山先生誤訳一代記」とか(まだ生きているか)、まあ、何かちょっとこっけいな感じもあり、「がんばったよー」というような奮闘努力の人生だったという感じもあり、まあ、いろいろあってひと言では説明できない日本語なのですが、この言葉はアレクセイには似合わない。『カラマーゾフの兄弟』の愛読者ならそう思うはずだ。「親鸞聖人一代記」とか「空海上人一代記」とは言わない。こう言うと、親鸞さんや空海さんを俗界に引きずり下ろすような感じになる。だから、やはりアレクセイという、高貴なお坊さんに近い人物の一生について述べるとき、それを「一代記」というのは間違い。「伝記」とか「生涯」ぐらいにとどめておくべき。

 【誤訳】アレクセイが「偉大な人物ではない」という訳(原、小沼)。

 【理由】ここの箇所はあとでふれる江川も含めて全員が誤訳している。昔から私はこの箇所を読むたび「変だな」と思ってきた。というのも、アレクセイを「偉大な人物ではない」と言うことはできないからだ。なぜなら、彼が立派な人物であることは明らかであるからだ。まあ、初めて『カラマーゾフの兄弟』を読む人は、アレクセイを「偉大な人物ではない」と言うのに何の疑問も持たないだろうが、何回か読んでいると、ここは誤訳ではないかという思いがだんだんつのってくる。「え?何のこと?」という人がいるかもしれない。説明してみよう。

 たぶん多くの人に同意して頂けると思うが、現代日本語で「偉大」というのは有名、無名とは関係ない。無名であっても、偉大な人はたくさんいるし、逆に、偉大ではないのに、虚名をはせ、有名になる人もいる。要するに、現代日本語で「偉大」というのは、「大きくて(価値・能力が有って)立派だ」(『新明解国語辞典』、三省堂)、「並外れて立派で非常に価値がある」(『類語国語辞典』、角川書店)という意味だ。日本語にはこの意味しかない。これは人間に対して使われる場合も、人間以外に使われる場合も同じだ。たとえば、漱石は次のように「偉大」という言葉を使っている(『学研国語大辞典』による)。

 三度(みたび)教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに博士よりも偉大な手柄(てがら)を立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかしたかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位(じゅごい)をちょうだいするのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高いからである。正しき人は神の造れるすべてのうちにて最も尊きものなりとは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは神よりも貴(たっと)しとは道也が追わるるごとに心のうちで繰り返す文句である。ただし妻君はかつてこの文句を道也の口から聞いた事がない。聞いても分かるまい。(夏目漱石、「野分」)

 心にしみる言葉だ(ここで泣いてどうする)。

 さて、日本語で「彼は偉大だ」と言っても、彼はべつに有名である必要はない。「うちの婆ちゃんは偉大だった」と孫が言っても、べつに変ではない。たとえ、その婆さんが毎年美味い梅干しをつけていただけであっても。

 ところが、たとえば、ウシャコフ四巻本辞典を見ると、ロシア語の"великий"(偉大な)という形容詞は、人間について言う場合、「ずばぬけて天賦の才があり天才的な、巨大な文化的歴史的意義をもつ」という意味をもつ。たとえば、「偉大なゲーテ」「偉大な人物」という風に使われる。要するに、歴史に名を残すような有名な卓越した人物に対して用いられる。この無名・有名という点において、日本語の「偉大」とロシア語の"великий"はニュアンスを異にする。もっとも、ロシア語の"великий"も日本語と同じように、有名・無名とはべつに、「並外れて立派で非常に価値がある」という意味で用いられる場合もある。しかし、『カラマーゾフの兄弟』のこの箇所の"великий"はそのような意味では用いられていない。なぜなら、作者がアレクセイを「偉大な人物ではない」と言った直後、作者に対して読者一同がいっせいにぶうぶう不満やら嫌みを言いはじめるからだ。

 要するに、 この『カラマーゾフの兄弟』の冒頭で作者は、読者に先回りし先手を打つつもりで、「あんまり歴史上有名でもない、パッとしない男を主人公にしてしまいましたが、許しておくんなはれ」と謝っているだけなのである。すると、この先回りして謝ったのがかえってあだになり、その言葉を聞いた読者の中に根性のひねくれたのが何人かいて(よくある話で)、「何や、それ、何でそんなしょうもないやつを主人公にしたんや、どあほ」、「おっちゃん、そのお兄ちゃんに何か取り柄でもあるのん?」、「なに?金返してもらおか、時間返してもらおか、人生返してもらおか?え?はげのおっさん」と、一斉にわめき出す、という場面なのである。要するに、ドストエフスキーさんお得意の自作自演、いや、ポリフォニックな作者と読者たちとの対話の場面。この読者連中が架空の人物であることはもちろん、作者も架空の人物だ。小説の冒頭から議論伯仲のポリフォニー小説のはじまり、はじまり、というところなのだ。

 ところが、ここの"великий"を「偉大な」と訳してしまうと、せっかくの面白い場面が面白くも何ともない場面になってしまう。つまり、アレクセイを「偉大な人物ではない」と訳してしまうと、読者は「あれ、アレクセイは偉大(ずばぬけて立派)な人物じゃないの?」とキョトンとしてしまう。それだけではなく、その直後、読者一同が作者に、どうしてそんな無名人を主人公にするのかと文句を言いはじめる理由が分からなくなる。従って、ここは思い切って"великий"を「偉大な」などと訳さず、「ずばぬけて天賦の才があり天才的な、巨大な文化的歴史的意義をもつ」という意味で訳すべきだろう。

 え?そんなことできないよ、と言われるだろう。もちろん、そんなアホな訳は誰もしない。誰がアレクセイのことを「ずばぬけて天賦の才があり天才的な、巨大な文化的歴史的意義をもつ人物ではない」などと訳すだろう。役人の紋切り型答弁じゃあるまいし。従って、ここは思い切って、彼のことを「無名の人物である」というぐらいに訳しておこう。そうすれば、あとの文章とすんなり意味がつながる。

 ちなみに、江川卓は、この箇所を他の三人のようには訳してはいない。アレクセイは「大人物などと言えた柄ではない」という訳をつけている。どこをどう叩けばこんな訳が出てくるのか。これではアレクセイが「太っ腹の建設会社の社長とか、右翼の黒幕みたいな人物ではない」というような意味になる。アレクセイが「よっしゃ、わてにまかせときなはれ、ぽん(お腹をたたく音)」と言うような社長みたいな人物でないのは当たり前。江川投手、大暴投。

【試訳1】

 作者の言葉

 これから、わが主人公、アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの伝記を記すにあたり、私はいささか困惑している。というのは他でもない。アレクセイ・フョードロヴィッチをわが小説の主人公にしたものの、私自身、彼が無名の人であることを承知しているからだ。これゆえ、諸君が次のような疑問を私に投げつけてくるのは覚悟の上だ。きみのそのアレクセイ・フョードロヴィッチとやらには、どのような注目すべき点があるのか。きみはなぜそのような人物を小説の主人公に選んだのか。彼は何か特別なことでもしたのか。誰に、そしてどんなことで知られているのか。なぜ読者である私がそのような名もなき人物の伝記を研究するのに時を費やさなければならないのか。

【亀山訳1】

 著者より

 私の主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフを私の主人公と呼んでいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身よくわかっているので、たとえば、こんなたぐいの質問が必ず出てくると予想できるからである。

 あなたがこの小説の主人公に選んだアレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか?どんな偉業をなしとげたというのか?どういった人たちにどんなことで知られているのか?一読者である自分が、なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくていはならないのか?

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 森井友人氏からいくつかご指摘を頂き、批判文および試訳を訂正した。特に、森井氏の提言によって、"жизнеописание"(=биография:[英]biography:伝記)の訳を「生涯」から「伝記」に改めた点が重要だ。そう改めたのは、作者がここで話をしている時点で、アレクセイがまだ生きていることが明らかであるからだ(「作者の言葉」の後続の文を見よ)。生きている人間に対して「生涯」という言葉を使うのは変だ。「伝記」なら生きている人間にも使えるのでかまわない。これが森井氏のご意見であった。その通りだ。深謝し、訂正する。(2009/11/7)。

加藤加藤 2012/06/21 23:53 ドストエフスキーが第二部を構想していたことを考慮するべきではないでしょうか。この作品が未完である以上、冒頭部分を正確に解釈することは不可能だと考えています。例えばアリョーシャが無名な人物であったかどうかは第一部からだけではわかりません。

yumetiyoyumetiyo 2012/06/22 10:32 加藤様に:
 コメント有り難うございました。
 現在読める『カラマーゾフの兄弟』全体から見れば、ここのところ、アリョーシャを「偉大ではない人物=無名の人物」という風に解するのが適切だと私は思います。アリョーシャは偉大とか有名というのとは無縁の人物です。というより、アリョーシャが偉大な人物になったり有名になったりすると、それはもはやアリョーシャではなくなってしまう、というのが私の読み方です。ここで作者はそのような意味をこめて、「偉大ではない」と述べているのだと思います。ただ、すでに述べましたように、それをそのまま訳すと、原文と日本語訳とのあいだに若干齟齬が生じるので「無名」と訳しました。

 それから、これはお願いですが、コメントを付けられるときは、あらかじめ、このブログの私のプロフィール欄をクリックしてお読みいただき、加藤様の情報をメールでお知らせ下さい。なぜ私がこんな面倒なことを要求するのかという理由については、本ブログの「匿名について」
http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20100522/1274489821
を、お読み下されば有り難いと思います。
 インターネット上でもそうですが、私は人との付き合いで自分の素性を相手に明かすということはとても大事なことだと思っています。私たちは自分の素性を相手に明かすことによって初めて対話を始めることができるのです。自分は覆面をして覆面をしていない相手と話をすることはできません。それは礼儀にもとることです。これはべつに加藤様を非難して言っているのではありません。加藤様は気軽にコメントを付けられたのだと解しています。どうかご立腹されないよう願います。

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