石原慎太郎

 豊洲問題で石原慎太郎に対する怒りがテレビを始めとするメディアで炸裂しているようだが、これは石原が自分でまいた種(タネ)だから、しかたがない。種というのは豊洲問題のことではなく、それ以前の石原の暴言だ。
 わたしなどいちばん記憶に残っているのは、石原が戸塚ヨットスクールを擁護したことだ。この生徒に死者まで出した愚かなスパルタ教育の学校を擁護するなどバカか、と、当時、不登校や引きこもりの子供を守る会をやっていたわたしなどは呆れた。
 また、その頃だったか、石原は、生理のおわったババアなど生きていてもしようがない、というようなことを言って、これはたしか怒り狂った女性たちから訴えられて裁判にもなったはずだ。
 あるいは、韓国・朝鮮人や中国人を差別する「三国人」発言とか。
 その他、その他、石原の暴言は数限りない。
 わたしのかみさんなど、「石原」という文字を見るだけで、新聞を破り捨てそうになる。テレビで石原の顔を見るのなど、鍋の底を見ているほうがましだ、というくらいなのである。
 テレビを見るのはその大半が家庭にいる主婦だろうから、視聴者を恐れるテレビの出演者がいっせいに、豊洲移転をめぐって石原を罵倒するのは当然なのである。これは読者を恐れるテレビ以外のメディアも同様だ。「これぞ「老醜をさらす」のお手本」と、ここぞとばかりに罵倒する長岡昇のような人が出てきても不思議ではない。
 というわけで、石原が豊洲問題でぼろくそに言われるのは因果応報なので、一般的にはざまあみろ、ということなのだろう。しかし、ここでぼろくそに言われるのを承知で言うが、わたしは豊洲問題で石原を罵倒する気はないし、ざまあみろと言う気もない。
 これは若い頃からわたしが石原の小説を愛読してきたためだ。「すべてが許されている」と腹の中で思っている、わたしのような愚かな若者にとって、江藤淳のいう「無意識過剰」の石原慎太郎の書く小説ほど面白いものはなかった。また、近年の石原の短編小説集『わが人生の時の時』も、その無意識過剰が芸術的な域にまで達し、これは何度も読むに耐える作品になっている。
 石原は野卑で愚かな人間の、無意識のなかに押し殺している感情を表に吐き出して見せてくれる。そういう貴重と言えば貴重な、偽善がないのだけが取り柄と言えば言える作家なのである。しかし、この偽善に満ちあふれた世の中で、石原のような愚かな作家がひとりぐらいいてもいいではないか、とも思うのである。