自重して何かいいことあったの?

以下酔っ払いの戯言。何書いてんだろ。

いつの頃からだろうか、物心ついたときには既にそうなっていた気がする。
常に人の顔色を伺って生きてきた。人の目を見て自分の主張を貫くことができない。
「こういうことを言えば叱られない。」「この人(特に親、先生)はこういうことを望んでいるんだな。」今考えれば自由意志なんてなかった。自分の欲望は全て殻に閉じ込めて、人が望むように生きてきた。

子どもにとって親の存在は限りなく大きい。逆らうことなんて想像だにできないほど絶対的な権力を持っている。それは悪いことではない。親は、未熟な子どもに代わって、複雑怪奇な現実社会の道を切り開いていく役割がある。
しかし、何事にも中庸というものがある。子どもが壁にぶつかる前に全ての壁を親が取っ払ってしまうと、子どもは成長しない。

壁にぶつかったことの無い子どもは失敗を極度に恐れる。失敗する可能性が少しでもあると、行動しない。行動する前に考えて考えて、ネガティブになってネガティブになって、結果、行動しない。「行動しなかったことによる損失」という概念が薄く、現状維持に満足する。

失敗したことを隠すために小さな嘘をつく。その小さな嘘を隠すためにちょっと大きな嘘をつく。その嘘を隠すために・・・。結局隠し切れずに大問題となる。

隠す必要がないと分かっているのに、取り繕ってしまう。自分はこうあるべきだ、という理想像に縛られ、本来の自分を厚い殻の中に閉じ込める。

小さい頃から殻に閉じこもっていたため、どれが自分のホントの姿かが既に自分にも分からない。
自重していることを自覚してはいるが、自重していない自分の姿が想像できない。

「いい人」は「『どうでも』いい人」。人畜無害。殻に閉じこもっている人からは攻撃される心配が無い。だから興味をもたれない。

「自分の」人生を楽しむためには、自分の足で歩かなければいけない。
殻に閉じこもっている限りは安全。怖いものなんてない。
でも、それは自分の人生じゃない。
自分の足で歩くには責任と重圧が常につきまとう。
失敗に正面から向き合わなければならない。
誰も助けてくれない。
険しい道である。

自重してても何も始まらない。