なぜ宮﨑駿は「生命にたいする侮辱」と言ったか


NHK スペシャル』の「終わらない人 宮﨑駿」において、ドワンゴ川上量生氏による人工知能によって動く CG についてのプレゼンテイションの後で、宮﨑駿氏がきわめてなにか、生命にたいする侮辱を感じますと述べていた*1のが印象的だった。これについて、Twitter 上である人が 「お前は巨神兵とか腐れ神タタリ神作っとったやないかw」というツッコミ待ちなんだから、きちんとツッコんであげないと、ボケとして成立しないのではないだろうか?ゾンビ CG に「生命に対する冒涜だ!!」とか、無理やり腐り落ちて火を吐きながら崩れ落ちる巨神兵、ドロドロにウジにたかられてのたうち回るタタリガミ、汚泥に覆われてくたばりぞこなっている腐ママ神を描いた宮﨑駿が言うの、「巨匠はわがままで老害で自分のやってることを棚に上げる』というのの見本w と揶揄しているのを見かけたが、これは的を射ていないと思った。なぜなら宮﨑氏が、「生命にたいする侮辱」という言葉を使っているのは、「痛みの無さ」ということについてだからである。


巨神兵やタタリ神、腐れ神は、作中において「痛みの無い」ものとして扱われてはいないはずだ。そして、そいつらが作中で痛みをもつ(もちうる)者として扱われ描かれているならば、たとえそいつらが物語の中で生命の尊厳を侵されているとしても、そいつらは(すくなくともここでの宮﨑氏の文脈における)生命の尊厳をもつべき者として描かれていると考えるのが適当である。だから、宮﨑氏が巨神兵やタタリ神、腐れ神といった、いわば冒涜的な者たちを自らの作中に描いているということと、かれが川上氏による「ゾンビ CG」のプレゼンテイションにたいして「生命にたいする侮辱」という非難を述べたこととは、矛盾しておらず、むしろ一貫しているからこそそのように述べたのだとすら云える。

自分勝手で独善的で自分勝手で他人にだけ厳しいところが、宮﨑駿の最大の魅力であり、ただの「倫理観の高い巨匠!!」というのは NHK が作った、虚像である という批判も、(一面においては正しいが)この表現では片手落ちである。上記の場面で怒りを見せた宮﨑氏は、紛れもなく「倫理的」なのであり、そうであるにもかかわらず、と云うか、部分的にはそうであるからこそ、自分勝手で独善的で自分勝手で他人にだけ厳しい という「二面性」があってはじめて、かれの人物なり作品なりは魅力的なものとなりえているのである。


「倫理的」で「独善的」な宮﨑氏に非難された川上氏は、不運だったと思えなくもない。番組を見た人の感想を眺めていると、ちょっと叩かれすぎていて、かわいそうにもなってくる*2。もっとも、あそこであのようなプレゼンテイションをあのようなかたちで宮﨑氏にたいして行ってしまったのは、ある種の想像力の欠如ないし不足があったからだとは云える。そして、かれがみずから主体的に映像表現に関わろうとしているのならば、それは重大な欠如ないし不足を意味するのかもしれない。あの CG をたんなる技術として面白がって紹介していただけで、その技術を宮﨑氏に紹介することによって、その CG の技術やそこで表現されているものがどのような文脈に置かれることになるのか、ということをあまり考えていなかったのだとすれば、川上氏は良くも悪くも技術屋でしかなく、映像表現というものにはコミットしきれていなかった、ということになるのではないか。その点について十分に想像力が及んでいたならば、自らの紹介する技術と映像表現とをうまく結びつけることができていたならば、別の結果がありえたのではないだろうか。


件のやり取りを見てぼくがまず考えたことは、あの CG 技術は、宮﨑氏が云うような「生命にたいする侮辱」を孕んでいるからこそ、逆説的に「生命の尊厳」を表現するために(たとえば、「生命への冒涜」の結果生み出されたものを描くといったかたちで)利用しうるのではないか、ということだ。しかしおそらく、この考えも宮﨑氏の批判を免れえない。そもそも宮﨑氏が「生命への侮辱」と呼んだものはなにだったのか。あの CG は生命から乖離しているのであり、そんなものを作り出して面白がっていることは「生命にたいする侮辱」である、ということだろうか。いや、そうではないだろう。かれはあの CG を生命から乖離したものと感じたから怒りを表したのではなく、あの CG にすらも生命を連想したからこそ、「生命にたいする侮辱」という言葉を使って怒りを表したのだろう。

だとすれば、たとえば 宮﨑駿のアレ、決してエコロジー左翼の浅薄なヒューマニズムなんかじゃなくて、長い歴史を経て偶然与えられた生命の形態へのごくごく素朴な驚嘆から来ていると思うし、それに比べたらアルゴリズムの偶然性を面白く思わないのも当然だよな という意見も、十分に的を射ているとは云えないことになってくる。宮﨑氏は、あの CG が生命という驚嘆すべきものの似姿であると考えたからこそ、それをたんに技術として面白がることを「生命にたいする侮辱」と呼んだのではないか、ということである。

驚嘆すべき生命の似姿を作るということは、まさにその語源からして、アニメの根本にある。けれども似姿はあくまでも似姿でしかなく、そこには乗り越えがたい差異が横たわっている。アニメという映像表現にコミットするということは、その差異にいかに向き合うということにかかっていると云えよう。宮﨑氏はだから、映像表現における「痛み」ということを重視するのであり*3、それが蔑ろにされていることに怒りを顕にしたのだろう。もちろんかれの怒りには、「ヒューマニスティック」なものも含まれているだろう。しかしぼくは、それよりもまず、映像作家としての怒りをそこに読み取ることから始めたほうが、意義をもつと思うのだ。そこから始めなければ、宮﨑氏の表現を「倫理的」で「ヒューマニスティック」なものとして読み解くことも、十分にできないはずだからだ。

※この文章は、11 月 13 日〜 14 日の Twitter への投稿をもとに 12 月 13 日に再構成したものです。

水面下の「愛」、サディスティックな「愛」

水面下*1まで降りてきて、おれと一緒に悩め、そしてその先のなにかに至るということ。それを、結局のところおれは求めているんじゃないだろうか。おれは、とことんまで、おれである。おれは〈他者〉に対するときすら、それがいわば〈信仰〉というかたちをとるがゆえにかえって、どこまでも「おれ」なのである。おれは、相手にとってなにがよいのかというような話もしないではないが、それ以上に、相手に水面下に降りてきて欲しいのだ。「日常」を生きるということ、それがうまくいくかどうか。そのことを軽んじるつもりはないが、場合によっては、それは悩むということ(もちろんそこでは、その先のなにか、その果てのなにかが目指されてはいるのだが)の糧として、二の次にしてしまうのだ。そしてしばしば、他人についても同じ方向へと導こうとしてしまっている。

というか、そのように生きているがゆえに、あるいはそのように生きていくために、「日常を生きていく」ということへの、とくにその連続する未来への嗅覚を鈍らせてしまっているのだ。しかしおれは、「日常を生きる」ということも諦めておらず、むしろそこにすくなからぬ拘りをもってもいる。だから話はややこしくなるのだ。

おれの愛が成就するなどということは、はたしてありうるのだろうか。おれはどうしようもなくおれであるがゆえに、「愛」よりも〈信仰〉を優先してしまう。「愛」それは、「あなた」が幸いであるべく為すという、それ自体ほとんど不可能なほど困難な行いを導くものである。それは幸いにも、成就しうるものであり、それも、それなりにありふれて成就するものである。しかし、そのようなものとしての「愛」ははたして、おれがおれであるということと、そして、おれの〈信仰〉と、両立しうるものであるのか。それが問である。

もし両立しうるとしたら、それはある種のサディズム、それもマゾヒズムと分かちがたく結びついたサディズムにおいてでしかないのではないか。「あなた」がおれととともに悩むこと。おれは〈汝〉を〈信仰〉するがゆえに、「あなた」を悩ましめる。おれは、おれの「愛」において、別に「あなた」を悩ませること自体を求めているのではない。おれが求めているのは、「あなた」が(ここではそれはおれによってなのだが)悩むこと、そしてその果てにあるものを目指すということにおいて、「あなた」が幸いたることを求めているのだ*2。おれはこのことが成就するほどに幸いであろうか。この問が最後に残される。

(あるいはおれは、おれの〈信仰〉を、あるいはおれの「愛」を、誤ったものとして捨て去るべきなのだろうか。)

*1:永井均、『〈子ども〉のための哲学』、〈講談社現代新書〉, 1995年を参照。

*2:Twitter に以前、次のように書いた。サディズムの本質は、私が汝を苦しめるということにではなく、汝が私に苦しめられるということにある。そこで汝と私とが同一化されるのであるが、同時に私はその苦しみの無限の彼方へと至るである。暴力的で越権的な同一化、それは、そう呼んでしまうことをわたしは躊躇いもするのだが、しかしもはや、絶対的な〈愛〉と呼ばざるをえないものなのである。そして、それが〈愛〉であるならば、この「同一化」は、〈同〉と〈他〉の間の境界を、取り払ってしまうことは不可能であるとしても、それを揺るがすような契機、悪しき「緊張」を無化してしまうような優れた意味での〈緊張〉、としての〈同一化〉であるのではないだろうか。

汝=あなたを歓待する詩

私は汝=あなたをわが家へと招き入れる
そうして私はこのうたを詠み始める
女の躰を持ちながら同時に神の顔をもつ者として
 私の隣に横たわる汝=あなたのために

あるいは私のほうが汝=あなたに招き入れられたのである
私は汝の元にふたたび帰り着き
私はあなたをふたたび取り戻した
わが家の中央で天に向けて灯された焔が
ふたたび燃え上がっている
以前よりもずっと高く
以前よりもずっと静かに

この焔の元で
汝=あなたのために歌うことは私のために歌うことでもあり
私のために歌うことは汝=あなたのために歌うことでもある

そのようにして私は
汝に祝福されわが家に居留する詩人となり
あなたをあの大樹へと導く旅の詩人となる
この焔はわが家を隈なく照らし
この焔により私はけっして迷うことがない

汝=あなたはもうすぐ起き上がるだろう
そして汝=あなたの声によりこのうたは遮られ
しかしこの焔の中で
永遠となるのだ

霞の世界*1

1969 年の歪んだギターを爆音で聴きながら
わたしは夢から戻る途中に
現実とよく似た世界へと迷いこんでしまった
わたしは鈍い不安に侵されているのだが
ここではその不安にすらhazeがかかっている

やつらの亡霊に満ちたこの世界には
わたしだけしかいないから
わたしはわたしが分からくなって
hazeの中に消えていってしまいそうだ

歪んだギターの音は
hazepurpleへと染め上げていく
わたしはそれを大きく吸い込もうとして
だけどいま溜まっているものをうまく吐き出せないでいる

わたしはこの身体からだ紫の霞purple hazeを同化させることすらできないのだ
きっと現実のわたしの身体からだからは
こちらでわたしが吸い込んだ紫の霞purple hazeが吐出されているだろう
わたしは願う
きみがそのhazeを吸わずに済むことを
そうすればきみはこちらの世界にやってくるのかもしれないけれど……

酸欠の人魚あるいは大樹の巫女

かの女は酸欠の人魚であるが
それゆえかの女は海溝に聳える大樹の巫女となる
大樹は核を貫き再び天へと向かう
私はマントルにすら達することはできず
熱圏に達するまえに墜落してしまう

私はかの女を大樹へと導くべく命じられたが
かの女は幻へと揺らぎ
私は一度ひとたびかの女を見失ってしまう

私は声をかの女が水泡へと込めた声を聞いた
しかしそのことにより私とかの女とは
海と地へと引き裂かれてしまう
(屈折と反射により歪められたかの女の姿)

海と交わることはそのとき背徳となった
地と交わることは実際には禁じられていないのだが
私はそれを認められずにいる
そうして私はただ天に向かって虚しく勃起しているのだ
永遠の果ての絶頂アクメを渇望しながら

覚めつつある呼吸器

酒の覚めつつあるぼくの咽が咳払いをして
少しだけ憂鬱になってくる
ぼくはあまり鼾をかかないが
そのことに特別な理由を求めるのは
きっと間違っている
だから
ぼくと並んで寝ている人たちの
そのうちいくつかは鼾であるようやな寝息の
いずれがだれのものなのか
わざわざ布団から出て確かめる必要はない
そう言い訳をしてぼくは
かれらの寝息から意識をはずし
自らの呼吸に意識が向かうことも避け
覚めつつある咽から逃れるべくして
入眠を試みる

双子「明日が来るならなにも要らない」*2

ここに双子の少女がいる
一人は世界を愛する
一人は世界を憎む
人は二人を見分けることができない
二人は同じように発する
二人は同じように振舞う
一人は世界への愛がゆえに
一人は世界への憎しみがゆえに
二人は同時に発する
明日が来るならなにも要らない
一人は世界への愛がゆえに
一人は世界への憎しみがゆえに
人はしかし
二人を見分けることができない
ある人は二人が世界を愛していると解する
ある人は二人が世界を憎んでいると解する
もう一つの可能性に気づく奇特な人は
しかし
いずれが世界を愛しているか
いずれが世界を憎んでいるか
答えを出すことができない
(さらなる可能性に気づく人に幸あらんことを)

そしてこの詩は
わたしの創作でしかありえない