日本書紀の「梅豆羅」について

 いわゆる二十八宿に似たものは、かなり広範囲の文化圏で知られる。その点に関し、たとえば次のように説明される(http://www.1978.jp/001/0.html)。


   日本でも、キトラ古墳高松塚古墳の星宿図が話題になっていますが、
   この二十八宿と非常に類似するものは世界中に現存しています。それは、
   インドでは「ナクシャトラ」と呼ばれ、アラビアでは「マンジル」と呼ばれ、
   アッシリアでは「マッサルトゥ」、バビロニアでは「マッザルトゥ」、
   そして中国と日本では「二十八宿」と呼ばれました。


 即ちアラビアでは「マンジル」と呼ばれるわけだが、そのアラビアの月宿(lunar mansions)の各々の具体的名称は、アラビアの天文学者アル・ビルーニーの著作などで知られる(一覧表が此処にある)。
 では、同じセム系の言語のシリア語(あるいは広くアラム語)に、「マンジル」に当たる言葉が有るかと言えば、有るには有る。【MZLA】という語がそれだ。さしあたり、Payne Smithの辞書に「astron. a station」と出ている。


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 ところが、Jastrawの辞書を見ると、「planet, constellation」に続いて「luck」(運ないし幸運)という意味も載っている。また、さらに「fortune, possession」の意味も載っている。幸運にも何かを得た場合、その得たもの(財産と言ってよい)は、幸運の象徴でもある。


   ・【MZLA】……(1)planet, constellation; luck.
             (2)fortune, possession.


 このように「luck」や「fortune」の意味が重層する在り方は、「占い」(その代表が星占い)を「fortune telling」と言うことからも理解できる。つまり、吉凶や運命を占うことに関連して、「MZLA」という語は在る。そう捉えて大過ない。
 

   ・【MΘLA】……imposed destiny, burden of prophecy.


 また、「占い」と「運命」が“縁語”だとするならば、Jastrawの辞書に「imposed destiny」(定められし運命)とか「burden of prophecy」(予言の重荷)の意味が載る「MΘLA」という語は、この「MZLA」の“縁語”ということにもなろう。


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 そこで俄然注目されるのが、日本書紀巻九の以下の記事。神功皇后が細鱗魚(年魚)を獲る話である。これは、「松浦」(マツラ)という地名の起源説話であり、もともとは【梅豆羅】(メヅラ)と命名されたものであることを主張する。


   夏四月壬寅朔甲辰、北到火前国松浦縣、而進食於玉嶋里小河之側。
   於是、皇后勾針為鈎、取粒為餌、抽取裳縷為緡、登河中石上、
   而投鈎祈之曰、「朕西欲求財国。若有成事者、河魚飲鈎」。
   因以挙竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰、「希見物也」。《希見、
   此云梅豆邏志》。故時人号其処、曰梅豆羅国。今謂松浦訛也。
   (※神功皇后摂政前紀・仲哀九年四月条より)


 ここで《希見、此云梅豆邏志》という訓注が出てくる。「めづらし」は倭語として理解でき、この訓注に従って、「希見物」は「めづらしきもの」と訓まれる。萬葉集にも同様の訓みは見られる。だが、この倭語が日本書紀成立時点を遠く遡って我が列島で使われていた保証は実のところ無い。
 その場合、或る種の占術的行為において、「細鱗魚」が獲られる、という形で、神功皇后が「財国」を獲ることが予言的に成就した(と書紀が描く)、この事柄を踏まえるならば、【梅豆羅】と音仮名表記される語は、上述の【MZLA】あるいは【MΘLA】の音写という可能性も十分あるだろう。
 少なくとも上記引用説話の内実から言えば、【梅豆羅】という音形で示された語は、単に「希に見る物」という意味の語と考えるよりも、「予言的成就」の意味合いも重層的に持っていると考えるほうがよいのではないか。細鱗魚(年魚)が珍しいことに説話の力点があるわけではない。


《補足》(2010年11月24日)
 実は「夏四月壬寅朔甲辰」は「4月3日」、月宿傍通暦を見れば、【畢】(アルデバラン)の月日である。和名は「あめふり星」(但し、この名称がどこまで遡れるものかは不明)。ところが、「雨」を意味するシリア語(Syriac)は【MΘRA】。そうしてみると、【梅豆羅】は文脈上で【MZLA】や【MΘLA】の語を表しつつ、同時に【MΘRA】の語をも表している(掛詞)。そう考えるのが筋だろう。


  http://d.hatena.ne.jp/ywrqa/20090821/1250811501(月宿傍通暦)



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古事記の「刑部」のテクスト上の機能について

 前項では、「刑部」を「オサカベ」と訓むのは、シリア語(Syriac)からの借用語「OΣQ」(罪を与える意)に拠ることを述べた。しかしながら、古事記において、「大后」(忍坂之大中津比売)の名前の由来は、あくまでも「OSQ」(態度が堅い意)である。古事記の「刑部」は、いわゆる借訓表記であり、依然として「OSQ」の意味を保持している。そう見るべきである。


  ・「大后」(忍坂之大中津比売)の御名代……「刑部」★
  ・「大后之弟、田井中比売」の御名代……「河部」★  (※田井之中比売)


 そういう「大后」の弟であることを明示しつつ、「田井中比売」(田井之中比売)の御名代の記事は在る。したがって、「河部」についても、借訓表記である可能性を考えてよかろう。即ち、「河」という漢字の字義から離れて、この問題を考えてもよい。その場合、「オサカ」(忍坂)という言葉と、「タヰ」(田井)という言葉の関連を考えてみることが一つの鍵になるだろう。


  ・「OSQ」……「grievous」(辛い)とか「to be unhappy」(惨め)とか
  ・「十WA」……「to be sorry」(悔しい) ※分詞「M十WY」に「sad」の意あり
  ・「KWB」……「to feel sorrow」(悲しい) ※「KWBA」は「荊」の意


 まず第一に、「大后」の態度が堅いことに由来する「オサカ」(OSQ)という語が、「刑」の文字で表記された時点において、「オサカ」(OSQ)のもう一つの意味(辛いとか惨めとか)が表面化する。その「オサカ」(OSQ)と「タヰ」(十WA)は意味が近しい。このことから、「田井之中比売」の「田井」(タヰ)は「十WA」(sadの意)と考えることができるのではないか。


  ・「ウリ」は「苽」にも「瓜」にも表記し得る。(※記に「八苽之白日子」の例あり)
  ・「ウバラ」は「荊」にも「刑」にも表記し得る。(※「刑部」は「荊部」にも見える)


 ところが、「KWB」には「to feel sorrow」(悲しみを感じる)の意味があり、その縁語である「KWBA」には「thorn」(棘とか荊とか)の意味がある。したがって、「十WA」(田井、sadの意)の御名代が「KWB」(河、sadの意)に作られた時点で、その姉の御名代である「刑」は、結果的に「荊」のニュアンスを帯びる。こう考えると、全体を整合的に理解できるだろう。


【補足1】
 「KWB」に「部」を附すと、そのままでは濁音が連続する音形になる。こういう場合は、倭音化する際に、いずれかが清音化する。仮に、「部」が「べ」のままであれば、「kaba」は「kafa」になる。それ故、借訓表記として「河」を使用したか。
 また、このように考えなくても、「XWBA」が「布波」に写されているなど、シリア語で「B」に綴られる頭子音が日本側で清音仮名に写される例は幾つか見られる。後ろに「部」が着かなくとも、「KWB」は「河」に写された可能性がある。


【補足2】
 「忍坂部」に作らず、「刑部」に作ることにより、「OSQ」に別の意味合い(辛い・惨め・悲しい)が付加されるだけでなく、「荊」(KWBA)が想起される。その延長線に「KWB」(sadの意)の語や「十WA」(sadの意)の語があるという話。

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二つの「オサカ」について──【ܥܣܩ】と【ܥܫܩ】──

 古事記の中に、聊か奇妙な御名代の記事がある。「蝮之水歯別命」の御名代が「蝮部」であるのは理解できる。「葛城之曽都毘古之女、石之日売命」の御名代が「葛城部」であるのも理解できる。だが、「大江之伊邪本和気命」の御名代が「壬生部」であるのは意味不明と言うしかない。「田井之中比売」の御名代が「河部」であるのも意味不明と言うしかない。


  【仁徳記】
  ・「大后石之日売命」の御名代……「葛城部」   ※「葛城之曽都毘古之女」
  ・「太子伊邪本和気命」の御名代……「壬生部」★
  ・「水歯別命」の御名代……「蝮部」         ※「蝮之水歯別命」
  ・「大日下王」の御名代……「大日下部」
  ・「若日下部王」の御名代……「若日下部」
  ・「八田若郎女」の御名代……「八田部」
  【允恭記】
  ・「木梨之軽太子」の御名代……「軽部」
  ・「大后」の御名代……「刑部」★
  ・「大后之弟、田井中比売」の御名代……「河部」★
  【清寧記】
  ・「白髪太子」の御名代……「白髪部」


 さらに、「河部」だけでなく、「刑部」もよく分からない。允恭記の「大后」は「忍坂之大中津比売命」を指す。本来は、「忍坂部」に作ってもよかったところを、たまたま「刑部」に作った。この説明で分かったような気がするのは、「刑部」の訓みが「オサカベ」であることを既に我々が知っているからである。未だ知らない人にとっては、まったく意味不明のはずだ。


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 本項では、さしあたり、「刑部」について考察する。「オサカ」という言葉が何を意味するのか、その点が問題である。古事記旧辞部分を見ると、まず天皇が「我は一つの長き病有り。日継知らしめすこと得じ。」と天皇になることを辞するところから話が始まる。しかし、「大后」を始め、諸々の卿たちが堅く奏しあげたことに因り、即、(天皇が)天下を治めることとなった。


   天皇初為将所知天津日継之時、天皇辞而詔之、
   「我者有一長病。不得所知日継。」
   然、大后始而諸卿等、因堅奏而、乃治天下。 (※允恭記より)


 これが、「大后」(忍坂之大中津比売)に纏わる唯一の逸話である。この話の中に「オサカ」という言葉が存在するか?──存在する。シリア語の「OSQ」という動詞には、「to be obstinate」(態度が堅い)の意味があり、また、「to be ill」(病気である)の意味もある。つまり、「有病」の天皇に対し、大后が「堅奏」する。この「堅」なる態度が「OSQ」なのだ。


   元年冬十有二月、妃忍坂大中姫命、苦群臣之憂吟、
   而親執洗手水、進于皇子前。仍啓之曰、「(…中略…)
   願大王従群望、強即帝位」。然皇子不欲聴、而背居不言。
   於是、大中姫命惶之、不知退而侍之、経四五剋。
   當于此時、季冬之節、風亦烈寒。大中姫所捧鋺水、
   溢而腕凝。不堪寒以将死。(…以下略…)  (※允恭紀より)


 日本書紀を見ると、この「堅」なる態度が、美談と言えるまでに詳しく描かれている。この「堅」なる態度こそが、「オサカ」(OSQ)という名の由来であろう。「忍坂」という表記は、いわゆる借訓表記(字義を捨象し、訓だけを借りた表記)に過ぎない。日本書紀の場合も、この「堅」なる態度に根負けして(あるいは心を打たれて)、天皇は即位することとなるのである。


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 だが、「刑部」が定められたのは、この出来事があった元年ではない。翌2年の2月14日、「忍坂大中姫」は皇后になり、そして、「刑部」が定められた。その由来譚は、古事記には見当たらないが、日本書紀には明確に描かれている。「皇后、(中略)昔日の罪を数めて殺さむとす」という部分がそれだ。「刑部」は「死刑」に関わると見てよかろう(半ば通説化)。


   ・「OSQ」……to be obstinate(態度が堅い):古事記も書紀も説話あり
   ・「OΣQ」……to bring an accusation(罪を与える):書紀のみ説話あり


 ところが、偶然にも「to bring an accusation」(罪を与える)という意味のシリア語に「OΣQ」がある。こちらも、倭音化して受け止められた音形は、「オサカ」と考えられる。有り体に言うと、「刑部」が「オサカベ」と訓まれるのは、「OΣQ」に「刑」(罪を与える)の意味があるからである。即ち、この訓み(倭訓)は、シリア語(Syriac)から借用された倭語で訓んでいるのである。


【追記】
 ここで特に重要なのは、古事記の「忍坂之大中津比売」は、「OΣQ」という語に纏わる逸話を伴わないという点である。この場合は、少なくとも古事記の「刑部」に関して言う限り、「オサカ」(OSQ)という語形に対し「刑」の訓みの一つである「オサカ」(OΣQ)を充て、「刑部」に作った。そう理解すべきだろう。古事記というテクスト上において、「刑部」という表記は、いわゆる借訓表記として機能しており、それ故、依然として「OSQ」の意味を保持しているのである。

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角界の源流を探る(2)──「阿多隼人」考──

 古事記中、「阿多」の文字列は、いわゆる音仮名表記として、本文や歌謡の中にも出てくる。以下に、固有名詞を除く「阿多」の文字列を網羅する。この中で最も多いのは、「惜しい」という意味の「あたら」(形状言)、および「あたらし」(形容詞)である。


   ・「阿多良斯登許曽」(本文)……「あたらし」(惜し)
   ・「訓八尺云八阿多」(訓注)……「あた」(咫)
   ・「美刀阿多波志都」(本文)……「あたふ」(与ふ)
   ・「阿多々弖都岐」(歌謡)………「あた」(他)  ※但し異同あり
   ・「和芸弊能阿多理」(歌謡)……「あたり」(辺り)
   ・「阿多良須賀波良」(歌謡)……「あたら」(惜)
   ・「阿多良須賀志売」(歌謡)……「あたら」(惜)


 そして、「あた」という二音節の語は、「他」(other)の意味の「あた」と、「八尺鏡」(八咫鏡)の「あた」(咫)の二語である。但し、「阿多々弖都岐」の箇所には異同があって、「阿多」と表記されていたか疑問が持たれている。つまり、確例は「あた」(咫)のみである。


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 それはそれとして、残りは固有名詞だが、まず「大山津見神之女、名神阿多都比売、亦名謂木花之佐久夜毘売」と出てきて、次に「火照命、此者隼人阿多君之祖」と出てきて、最後に「阿多之小椅君之妹、名阿比良比売」と出てくる。以上の三者である。


   ・「神阿多都比売」……別名を「木花之佐久夜毘売」と言う
   ・「隼人阿多君」……その祖は「火照命」(海佐知毘古のこと)
   ・「阿多之小椅君」……妹の「阿比良比売」の子は「當藝志美美」


 まず第一に、同じ君姓氏族という意味でも、「阿多之小椅君」は「隼人阿多君」(日本書紀は「阿多隼人」に作る)に重なる。つまり、「阿多之小椅君」は、「阿多隼人」と見てよい。その「阿多之小椅君」の妹は「阿比良比売」、その子に「當藝志美美」がいる。


   ・「阿多隼人」は「墨江」に対応……「曽婆加理」(曽富騰)……「當摩蹶速」
   ・「大隅隼人」は「大江」に対応


 然るに、2010-07-24の稿で述べた通り、「阿多隼人」は「墨江」に対応し、それ故に、「近習墨江中王之隼人、名曽婆加理」(山田之曽富騰)に重なる。加えて日本書紀の「當摩蹶速」に重なる。ならば、「當藝志美美」は、「當摩」の「蹶速」(久延毘古)と同系統と言える。

   
   ・「當摩」(當は二合仮名)は、「當藝摩」(當藝は連合仮名)にも作る。
   ・「當藝志美美」は、「當摩」の「蹶速」(久延毘古)と同系統。
   ・「吾足不得歩、成當藝當藝斯玖」という表現がある。
   ・「足雖不行」云々と言われるのは「久延毘古」(山田之曽富騰)。


 古事記に「吾足不得歩、成當藝當藝斯玖」という表現があるが、「足不得歩」は「足不行」に略同。したがって、「當藝當藝斯」という言葉は「久延毘古」に対しても言える言葉である。その一方、「當摩蹶速」も「當藝志美美」も名前が「當藝當藝」しい(これらの言葉は何の為に用意されたのか?)。


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 結局のところ──中国史書における「突蹶」を、古事記は「當藝志」(Turgish)に作っているのである。それだからこそ、「蹶速」に重なるところの「久延毘古」(山田之曽富騰、隼人曽婆加理、隼人阿多君、阿多之小椅君)の系統に「當藝志美美」が位置づけられるのである。
 2010-07-24の稿で述べた「音仮名の【久延】は【蹶】の倭訓と見るのがよい」という事柄が、まさしく、集約的に物語っている。日本書紀垂仁天皇七年)の7月7日の「捔力」(相撲)の記事の一方の主役である「當摩蹴速」は、「突蹶」を表象するものとして在る。そう言えよう。

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「大隅隼人」の「大隅」について

 日本書紀天武天皇十一年)において、「阿多隼人」と「大隅隼人」は、相撲をとる。負けの立場は「阿多隼人」、勝ちの立場は「大隅隼人」。したがって、同日の前項で述べたように、「隼人・曽婆加理」(山田之曽富騰)は、「阿多隼人」に相当する。
 ところが、古事記をよく見ると、「近習墨江中王之隼人、名曽婆加理」とある。即ち、「隼人・曽婆加理」は「墨江中王」に近く仕える存在として描かれている。そうすると、「阿多隼人/大隅隼人」の対(pair)は「墨江/大江」の対(pair)に重なる。


   ・「阿多隼人」……「墨江」……「SWMQA」
   ・「大隅隼人」……「大江」……「AWKMA」


 7月22日の稿(http://d.hatena.ne.jp/ywrqa/20100722/1279732182)で、既に指摘した通り、「墨江/大江」の対(pair)は、「SWMQA/AWKMA」の対(pair)と見てよい。「大隅隼人」の「大隅」が「AWKMA」と読めることは、単なる偶然ではないだろう。
 その「大隈」を古事記は「久須毘」(黒子)に作る。「大隈」が「AWKMA」(黒色)だからこそ、「久須毘」(黒子)に置換し得るのである。外来語(主にアラム語のグループ)の存在を前提としなければ、この置換の説明はつかない(未解明のまま終わる)。

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角界の源流を探る(1)──「久延毘古」考──

 日本書紀垂仁天皇七年「秋七月己巳朔乙亥」(7月7日)の箇所に、今日の相撲のルーツに当たる事柄が載るが、ここで「相撲」が「捔力」に作られるのは、いわゆる月宿傍通暦(http://d.hatena.ne.jp/ywrqa/20090821/1250811501)において、「7月7日」が【角】に当たることと無関係ではないだろう(今日も相撲界のことを角界と言う)。


   四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。
   何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、頓に争力せむ。 (日本書紀


   誰ぞ、我が国に来て、忍ぶ忍ぶ如此物言ふ。
   然らば、力競べせむ。故、我先ず其の御手を取らむ。      (古事記


 ところで、その日本書紀の「捔力」(つまり相撲)は、「當摩蹶速」の「頓得争力焉」(漢文体)という発言がきっかけである。これに似た発言が、実は古事記にも出てくる。「建御名方」の「然欲為力競」(倭文体)という発言である。その意味において、「建御名方」と「建御雷」の力競べは、「當摩蹶速」と「野見宿禰」の争力に重なるものである。


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 さて、古事記の「建御名方」は「葦」に譬えられ、また、「除此地者、不行他処」と発言する。「此地」とは「州羽」(スハ)のことだが、シリア語(Syriac)で「葦」を「SWP」(sūfa)と言う。つまり、「州羽」(借訓表記)は「SWP」に充てられたものと見てよいが、他にも見落とせないことがある。結論を先に言うと、古事記の「建御名方」は「久延毘古」に重ねて描かれている。


   ・「建御名方」(力競べで負ける)……「葦が不行」
   ・「久延毘古」(山田之曽富騰)……「足が不行」


 古事記中、「不行」の文字列は、2箇所である。うち1箇所は、「除此地者、不行他処」という「建御名方」の台詞。もう1箇所は、「久延毘古」(山田之曽富騰)に対し、「此神者、足雖不行、尽知天下之事神也」と説明される部分である。「葦」は「建御名方」を指し、「足」は「久延毘古」の足を指すから、「葦が不行」という事柄は、「足が不行」という事柄に重なる(古事記の掛詞的手法)。


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 ところが、上に述べた通り、古事記の「建御名方」は日本書紀の「當摩蹶速」に重なる(相撲において負ける役回り)。したがって、古事記の「久延毘古」(ここに在るのは「久延」という言葉)も日本書紀の「蹶速」(さしあたり「當摩」は地名)に重なる。この場合、音仮名の「久延」は「蹶」の倭訓と見るのがよい。
 2010-07-20の稿(http://d.hatena.ne.jp/ywrqa/20100720/1279568826)では、「山田之曽富騰」が「隼人・曽婆加理」に重なることを述べた。「阿多隼人」(負けの立場)と「大隅隼人」(勝ちの立場)も相撲をとる(天武紀)。然らば、「山田之曽富騰」が相撲をとる存在であってもよい(阿多隼人に相当する)。

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