ヤンコフスキーのつづき。

(承前)http://d.hatena.ne.jp/yyzz2/20141231/p1

 年明け,仕事始めに出勤すると年末にAmazonしていた本が届いていた。遠藤公男『ヤンコウフスキー家の人々』,講談社,2007。

ヤンコフスキー家の人々

ヤンコフスキー家の人々

ヤンコウフスキーについて日本語で読める数少ない本である。著者は岩手の小学校の先生である。どちらかと言えば鳥屋。
 
 ヤンコフスキー家三代の伝記本。時代は帝政ロシアからソビエト革命を経て,ソ連の崩壊にまで渡る。大変である。腰巻きには

虎狩りを愛した,
親日の白系ロシア三代
を襲う悲劇───

と。申し訳ないけれども,わたしには初代ミハエルにしか関心がない。
 
 さらに言えば,もっとも期待していたのは地図である。
 
 かつて極東に分布する蛾の原記載論文を調べていると,ヤンコフスキーの採集地に「Askold」「Sidemi」の地名が出てきた。学校で使う地図帳なんぞには全然載っていない。調べついでに場所捜しをしたものである。
 アスコルドは何とかなる。ウラジオストックとナホトカの中間の海上の島。「アスコド島」で検索すると記事が出てくる。かつては金採掘がなされていた島らしい。
 ところがシデミは何ともならない。ウラジオストックの西の対岸界隈にあるらしいことまで分かった。現在は「ヤンコフスキー半島」とよばれていることも分かった。ググっても場所の情報がない。
 というわけで,ほったらかしになっていたのだ。
 
 ヤンコフスキー半島について,本書では次のように触れられる。

ディチャエンコ氏[引用者註:ウラジオストック郷土史家]によると,ヤンコフスキーの初代はアムール湾の一角に鹿の飼育場を開いたという。地図を開いてそこをヤンコフスキー半島と呼ぶと教えてくれた。初耳だった。

 1994年のことである。20年たった今でも場所の認知度は上がっていないようだ。要するに地元の人しか関心を持たない小さな半島なのである。地方の地図にしか載らないのだろう。北緯42.95°東経131.45。(サイト「地球探検の旅」に,「42.95,131.45」をコピペしよう!)
 
 ヤンコウフスキーが活動していた当時はシベリアトラが身近に出没するほどの自然環境であったようだ。寒冷地だから「昆虫の宝庫」とまで言えなくとも,豊かな環境なのは間違いがなかろう。送られてくる昆虫標本にイギリスの学者たちが狂喜したのが目に浮かぶ。
 
 以下は遠藤『ヤンコウフスキー家の人々』と前回のWikiをもとに,ミハイル・ヤンコフスキーの年譜。

 1842  ポーランドの貴族の子として生まれる。
 1863  21才。ワルシャワ農業大学在籍(遺伝学専攻)中,ロシアからの独立運動(一月蜂起)に参加。政治犯としてシベリアでの重労働8年を宣告される。
 1868  26才。恩赦により釈放されるがシベリアからの帰国は認められず。
 1872  ワルシャワ農業大学のディボフスキー博士の助手として,アムール川流域の調査にあたる。(1874年まで)。
1874  アスコルド島の金鉱管理の職につく。
       以後,野鳥や昆虫の採集を熱心に行い,ヨーロッパの博物館に標本を送る。
 1879  37才。金鉱をやめ,馬牧場経営のためシデミへ移住する。 
 1872  袋角の採集のため,ウスリー鹿を牧場で繁殖させるようになる。
       以後,鹿からの収入をもとに,牧場を多角化していく。
 1890  軍への馬の供給が認められ,復権する。
 1893  中央アジアからアラブ系の馬を導入する。
 1911  70才。ソチでの神経痛の暖地療養中,急性肺炎で死ぬ。