zames_makiのブログ

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検察リークに関する上杉隆×池田信夫議論の結末

小沢一郎の事件で検察はリークをしているのか?について2010年1月22日主に上杉隆氏のtwitterhttp://twitter.com/uesugitakashi)で実名で議論があったようだ。ネットと異なりtwitterはある程度実名性があるのがよいし、新しいメディアのためか真面目に使われているようだ。
 さて小沢事件に関しては、新聞テレビなど大手メディアの検察リーク情報垂れ流しに対しネットなどではジャーナリストを中心に批判がおきている。そのためか朝日新聞2010年1月22日紙面「検察・報道批判 危うい民主」で反論をしている。その反論が有効なのかを推測するためにもこの議論は興味深い。結果として議論は池田信夫の完敗に終わったように見えるが、果たしてこれがテレビで行われたらどうだろうか?
 私の推測は悲観的だ、テレビでは
・情報はともかく政治家の汚職をなくすために必要だ
・リークであるという証拠を出せ
・厳しい事を言ったら取材活動できず情報がとれなくなりメディアは機能しない
こうした流れで議論の焦点は捜査検察官の守秘義務から記者の報道の自由の話にずらされ、結局リークではないという話になってしまうのではないだろうか?そう私は危惧する。

登場人物

上杉隆(ジャーナリスト) http://twitter.com/uesugitakashi
池田信夫(経済評論家) http://twitter.com/ikedanob
常岡浩介(報道記者) http://twitter.com/shamilsh
おくあき まさお(ブロガー、元記者) http://twitter.com/tuigeki
佐々木俊尚(ジャーナリスト) http://twitter.com/sasakitoshinao
池田ブログ読者

議論の経緯(twitter上の発言はそのまま、他は要旨)

  • 発端=上杉隆氏のHP(ダイアモンドオンライン)での検察批判記事「小沢問題で検察リークに踊らされるメディアへの危惧(http://diamond.jp/series/uesugi/10110/)。小沢事件では不健全な報道が続いている、一方検察は会見さえしない。「政治資金収支報告書の記載漏れでいきなり身柄を取るのはあまりに乱暴すぎるように思う。少なくとも逮捕の翌日から、小沢一郎代表(当時)はフルオープンの記者会見で説明を果たそうとしているのだから、同じ権力である検察庁も国民に向けて逮捕用件を説明すべきだ。とくに記者クラブにリークを繰り返している樋渡検事総長と佐久間特捜部長は堂々と記者会見で名前を出して話したらどうか」
  • 池田信夫:私は、この話は上杉氏がおかしいと思いますよ。検事総長と特捜部長を名指しするなら、その根拠を明らかにすべきです。それもなしに、テレビで国家公務員法違反だというのは、名誉毀損に問われてもしょうがない。
  • 常岡浩介:そういう池田さん、報道記者やったことありましたっけ?
  • 上杉隆:「テレビで国家公務員法違反だというのは…」と言ってもいない事で議論を吹っかけれれてみる愉快な「決戦の金曜日」(古)(筆者注:川柳風に書いたらしい)
  • 池田信夫:上杉氏は、夜回りの実態を知らない。丸ごと教えてもらうことなんかないし、ネタをもっていない記者は相手にされない。朝日のM記者などは特捜部長より情報をもっているといわれるが、非常に慎重でほとんど原稿を書かない(笑)。
  • 上杉隆:「丸ごとおしえてもらうことなんかないし…」と再び言ってもいないことで議論される不思議な「決戦の金曜日」を実感してみる(笑)。
  • おくあき:フォローもしないで批判だけしている池田氏がおかしい。あの人は知ったかぶりするのが目的のよう
  • 常岡浩介:極めてピンぼけな記事です。担当検察官からリークを取り、それを検察上層部に「当てる」のがリークの裏取りです。記者がそれをやっても違法性はないが、検察は守秘義務違反をやってますね。だから、個人名を出されるのを恐れるのです。
  • 佐々木俊尚:当局幹部は「当てて表情を見る」だけど、刺さっている記者は幹部ではない下の方に必ずネタ元があり、丸ごと教えてもらってますよ。ウラ取りとネタ取りはまったく別。
  • koojih(池田ブログのコメント欄):池田さんのエントリーにしては珍しく論旨が明確では無い
  • 池田信夫(池田ブログのコメント欄):検察は「捜査情報の漏洩」なんかしません
  • aizu945(池田ブログのコメント欄):どうも池田さんの論理がわからない。(1)「検察は「捜査情報の漏洩」なんかしませんよ。」(2)「もちろん検察は、今回のように相手が強大な権力である場合には、野党やメディアを味方につけないと闘えないので、情報操作はするでしょう。」(3)「メディアが当局の裏もとらないで容疑者についての推測をバンバン書いてもいいのか。」(1) であれば(3)における「メディアは当局の裏をとれない」。(2) であれば検察は(1) の前提でどのように情報操作をするのか?頭の悪い池田さんブログの読者にわかるように説明してください。
  • 池田信夫(池田ブログのコメント欄):どうも「記者クラブ批判」とごちゃごちゃになっている。現場を知らない人には感覚的にわからない。

検察・メディア批判への朝日新聞の反論を批判する

朝日新聞は2010年1月22日「検察・報道批判 危うい民主」と題して、ジャーナリストや民主党からおきている検察のリークへの批判、それを垂れ流すメディアへの批判に対して反論している。

 これは紙面2/3程度使った記事で3部分からなり(1)見出し=『「漏洩は違法」党に調査チームも・元検事「リークはない」』では民主党からの検察・報道への批判の声と、それに対する元特捜幹部の声を伝えている。(2)見出し=『「公共の電波で「関係者」は不適」・TV局「情報源守るため」』で、原口総務大臣クロスオーナーシップの違法化を目指す会見での言葉を問題視し、前田正義教授などを使用して原口大臣を批判した。(3)見出し=『多角的に取材し吟味』では朝日新聞社会部エディター梅田正行氏が寄稿し、リークなんかじゃないと抗弁している。


 記者経験もなく検事でもない一般庶民の私は、この記事をどう評価したらいいのだろう?答えとしてなんの知識もない一読者である私の視点は(A)論者の信憑性と、(B)論旨の確からしさ、しかないように思える。以下その原則に従いこの記事を批判する。

(1)見出し=『「漏洩は違法」党に調査チームも・元検事「リークはない」』

 民主党側は山岡賢次国対委員長や石井一党選対委員長の言葉で検察からリークがあるのではないか、検察がそれによってマスコミと国民を煽っているのではないか、との言葉が示されている。実際私の感覚でも、逮捕された石川議員の取調べ中の密室での発言が記事になっており、それが秘書でさえ小沢の有罪を認めているという文脈で報じられているのは、よく耳にする所に思う。これに対する朝日新聞の反論は元特捜幹部の「世の中が思い描くようなリークはない、表情の変化で感触を与えるくらいはするがそれはリークではない」という言葉と、服部孝章教授(メディア法)の「今回のは公共性が高いからいいのだ」しかない。

 民主党側の検察批判者は実名で数も複数だ、また読者である私は多くのリーク臭い記事を目にしている(例えば銀行通帳に小沢先生の金の印として「先生」と書いたなど)。それに対し反論する検察側はまず記事の分量で反論側の方が少なく、肝心の反論者が匿名で、しかも「リークは感触の形なら与える」となっている。これはどうみても朝日新聞側が弱い。またそれ以外の反論は小難しい社会論しかなく読んでも理解できない。
 知識のない私は一方では、テレビの政治報道番組を見ており、そこでは元東京地検の人が実名で顔を出して登場し「私の知っている範囲ではリークはない」と述べているのを複数人見ている。この朝日新聞のリークに関する反論は本当に期待外れでまったく説得力のないものだった。

(2)見出し=『「公共の電波で「関係者」は不適」・TV局「情報源守るため」』

 民主党側は原口大臣の発言のみ、しかし情報源を記すのに関係者ではなく、少なくとも検察関係者か被疑者関係者かは明示しろというのは面白い意見に感じる。これなら情報源は隠されるが情報の意味は判りやすくなるように感じるからだ。これに対して朝日の反論は、総務大臣が発言すると報道規制になるという文章と、前田正義教授(憲法学)の「関係者という表現は仕方のない時もある」しかない。反論の途中には民放連会長やNHK方針を引いて、なるべく関係者は使わないようにしているとの記事が挟まっている。
 この反論は結局、やはり確かに関係者は使うべきではない、だがそれは「報道を統括する立場の原口大臣は口にすべきではない」という論旨しかない。これでは原口大臣ではない読者は思うだろう、やはり関係者は使うべきではないのだな、と。これでは朝日新聞の反論はまったく説得力に欠ける。

(3)見出し=『多角的に取材し吟味』

 この部分は全部朝日新聞社会部の梅田氏による反論だ。その内容は「民主党はリークを情報操作の意味に使っている」「記者は不断の努力をしておりそれは情報操作ではない」「長年やってきて容疑者側にも聞く事が多くなった」などと反論している。
 私はどう記者が努力し新聞社がどうやって事実をつかむのかが述べられていると期待したがそうした具体性はまったくなかった。具体性を持った説明とそれを今回の取材にも敷衍するだけの説明があると期待したのだ。これだけ連日小沢疑わしいという記事が出ればそれで国民が方向付けられるのは誰でも実感する。記者がそう思わなくても情報操作になっているのは確かだ。また容疑者側の記事は読んだことがほとんどない、大抵こんな悪い事をしているという記事だった。感想としてはこの反論は変に感傷的でしかも内容がない。記事に分量があっても具体性がないのがまったく説得力に欠ける。
 

結論:全体として朝日新聞の反論にはまったく納得できない。反論に具体性がなく政府は報道に介入すべきではないとの主張しかないからだ。現在の検察幹部による公式の説明や、取材の仕組みの要点を示した具体的な説明がなく、結局記事からは「記者は検察捜査官の顔色をうかがって(顔色を読んで)記事を書いている」としか思えない。そんないい加減な方法では、その元ネタが間違っていても判らないし、そもそもその元ネタが何かのリークであってもわからないじゃないか!
 そして欠点なのはやはり検察の公式見解がないことではないか。反論者は検察OBの匿名者だったり、原則論を述べる学者だったりで説得力に欠けている。もし反論したいのなら朝日新聞は検察幹部に公式に取材して見解を持ってくるべきだ。


最後の感想として結局朝日新聞の反論は小沢一郎の説明と同じに思える。詳しいことは言えないが私はちゃんとやっている、こういう説明の仕方では朝日も小沢も同じだ。朝日新聞小沢一郎には説明責任を求めるが、自身の検察のリーク垂れ流し問題では説明責任をまったく果たしていない。

参考記事:メディア批判に対する新聞社の反論

産経新聞(2010年1月21日「社会部発 リークの根拠とは」)

……現在、民主党小沢幹事長資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反事件が、まさに佳境となっている。各報道機関の記者たちは、大量の土地登記簿や政治資金収支報告書などを収集し分析、関係者たちからの証言を積み重ねている。断片情報をモザイク画のように構成し、事件の全体像をうっすらと浮かび上がらせているのだ。地をはうような取材を文字通り、命を削って日々行っている。
 事件の内容や逮捕日などを「さあどうぞ」と教えてくれる人などは誰もいない。事件の記事が分かりにくいというご指摘を読者からも受けるが、恥ずかしながら入手できる情報が限られていることもある。捜査畑で辣腕(らつわん)をふるったある検察幹部は、何かを問い掛けると、「足で稼いでこい」と言うだけだった。別の検察幹部は、同僚記者が雨中に官舎前で待っていると、ずぶぬれの足元を見て靴下を手渡し、何もしゃべらずに、玄関の中ににまた消えたという。
 「検察のリーク」「検察からの情報による報道の世論誘導」…。こうした指摘の根拠を知りたい。(近藤豊和)

読売新聞(2010年1月23日夕刊「とれんど 『関係者』報道」)

……取材源が不利益を被ったり、その身辺に危険が及んだりしないよう、秘匿するのは記者の鉄則だ。読売新聞では一昨年春から社内の新指針に基づき、事件・事故の取材と報道にあたっている。事実をどういう立場から見るかで、捉(とら)え方が違うことがある。それを出来る限り読者にわかるようにしよう――。そうしたことも掲げた。だが、取材源を明示し、読者に知らせるべき情報を得られなくなれば、本末転倒だ。読者の利益が大きい方を選択するしかない。記者は、多数の「関係者」の話を積み重ね、集めた膨大な資料とも突き合わせて、「間違いない」と確信できる内容を報じる。「関係者」の中でも、検察官の壁は特に厚い。無言か、「知らない」。寒風吹く中、質問内容を忘れるほど震えつつ5時間待った結果が、わずか数十秒のこうしたやり取りだ。その繰り返しである。
 政治家も、記者と同じ取材を1週間やってみればよい。その上で「検察リークを確認した」と言うなら、その言葉に耳を傾けよう。(論説委員藤田和之

東京新聞(2010年1月31日『リーク批判』に答えて 社会部長・佐藤敦

 小沢一郎民主党幹事長の秘書らが逮捕された政治資金規正法違反事件をめぐり、これまでにないほどの報道への批判や疑問の声が続いています。「検察からのリークによって、小沢氏に不利な、一方的な報道がなされているのではないか」というものです。「検察リーク」の批判は、自民党政権時代の疑獄事件の際にも、同党側から上がっていました。今回の特徴は、かつて「政治とカネ」について厳しい論陣を張ってきた識者、ジャーナリストたちからも同様の批判が聞かれることです。

 情報漏えいを意味する「リーク」という言葉の使われ方はややあいまいで、論者によって少しずつ異なっているようにも思えます。ここでは「政治的な意図を持った情報操作のための秘密漏えい」という意味で使い、批判に答えたいと思います。「国民が選挙で選んだ新政権を検察がつぶそうとし、報道がその片棒を担いでいる」と考えている方が、少なからずいるためです。誤解を恐れずに言えば、検察や警察の捜査情報に限らず、官公庁を取材する新聞記者の仕事は、公務員法の「守秘義務」との闘いです。関係者への夜回り朝回りによって、公の発表文にはないニュースを追います。役所にとって都合のいい情報ではなく、隠そうとされた情報や事実にこそ、国民が知るべきものがあるからです。こうした取材を、最高裁は「手段や方法が適切である限り、メディアの正当な業務行為」と認めています。「知る権利」の保障こそ民主主義の根幹だからです。

 しかし、そうして集めた情報の中にすら、ある意図を持って流されたものがあることを、私たちは経験的に知っています。インターネットの時代になってもなお、新聞やテレビは世論形成に大きな影響力を持つメディアであることに変わりはありません。時には相手の懐に飛び込むような取材が必要になる場合もあります。その意味で私たちメディアは、常に「情報操作」に利用される危険と隣り合わせにいると言ってもいいと思います。そして、そのわなに陥らないためには、多角的な取材を重ねるほかなく、記者たちは毎日、その努力を続けています。強制力を持って犯罪捜査にかかわる検察庁が、私たちの重要な取材先であることは間違いありません。しかし、捜査の密行性を何よりも重視する検察は、メディアにとって最も取材が困難な官庁の一つです。検察にとって、法と証拠に基づいて犯罪が立証できるかどうかがすべてであり、捜査情報の漏えいは証拠隠滅などにつながる「百害あって一利もない」ものだからです。


 私たちは、検察捜査に誤りがないとは思っていません。足利事件菅家利和さんの冤罪(えんざい)では、捜査情報に依拠して菅家さんを犯人と決め付けてきた報道を率直に反省し、その繰り返しはしまいと肝に銘じています。しかし、小沢氏の資金管理団体陸山会」の土地購入をめぐる疑惑は、日本の最高実力者となった人物の周辺で起きたことです。断片的な捜査情報を積み重ね、多くの関係者に当たり、資料を収集し、そこから導き出される事実を正確に速く伝えることは、報道機関としての使命にほかなりません。一本の原稿は、こうした調査報道の手法を用いた取材と、捜査情報を重ね合わせながら作られます。そのために各地に派遣した記者たちが、この現在も取材を続けています。

 政治資金収支報告書は、政治家が一年間の政治資金の出入りを国民の前に明らかにする約束状です。意図的な虚偽記入があったとするなら、決して「形式犯」として看過できるものではありません。そこに闇のゼネコンマネーが含まれている疑いがあるなら、なおさらです。虚偽記入への小沢氏本人の関与の有無を調べる特捜部の捜査は続いています。ロッキード事件リクルート事件、ゼネコン汚職自民党政権時代、政界疑獄が起きるたびに、私たちはその取材に全力を注いできました。政権が代わっても、私たちの取材は変わりません。

参考記事:メディア批判への新聞社反論への批判

捜査の途中情報を出すことそのもの、の意味を考えるべきだ

「リーク批判」に対する新聞の「言い分」(高田昌幸ブログ:ニュースの現場で考えること)北海道新聞記者
http://newsnews.exblog.jp/13562517/

 問題は「立ち位置」である。どういう観点からどう取材し、どう報道するか、というスタンスが問われているのだ。(略)「苦労して得たから情報だから」といって、それを無批判に信じて報道するのであれば、それは単なる垂れ流しでしかない。


 捜査の途中情報をじゃんじゃん紙面等で流した結果、(略)仮に「供述」が事実であったとしても、その供述は取調官からの威圧や誘導などを受けた結果ではないかどうかを考えなければならない。(略)捜査の途中経過情報を記事にして、結局、それが起訴状にも冒頭陳述にも証拠採用された調書にも登場しなかった事例は、山のようにあるはずだ
 (略)日本の報道機関は、とくに警察・司法当局とは二人三脚で歩みたがる。どうして、もっと距離を置けないのか、と思う。あらゆる取材対象の中で、捜査・司法当局に対する従順度はトップクラスではないか。

リークの危うさを自戒する東京新聞

『小沢疑惑報道』の読み方(東京新聞 2010年1月18日)【私説・論説室から】

 小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体陸山会」の土地購入をめぐる疑惑事件が元秘書らへの強制捜査に発展した。私は取材現場の事情は知らない。ただ、読者として多くの記事を読む限り、正直言って「これはいったい、なんだ」という感じも抱いてきた。なぜなら、当事者本人か捜査当局しか知り得ないような情報がしばしば盛り込まれているからだ。ときには当事者が捜査当局に供述したとされる内容が報じられたりしている。ということは、当事者が取材記者に話したか、あるいは当局が記者にリークしたのではないか。疑惑があるなら解明されねばならないのは当然である。現場で取材する記者の苦労は理解できるし、多としたい。
 だが、結果的に当局の情報操作に手を貸す結果になっているとしたら、それもまた見逃せないのだ。検察が公判請求し裁判になってからも、判決が報道された内容どころか起訴状の記載事実とさえ異なる場合はある。読み手としては、情報の出所にも注意を払わざるを得ない。民主党鳩山内閣は一連の報道でダメージを受けた。その結果、支持率も落ちるだろう。この疑惑は間違いなく、本日から始まる通常国会で焦点になる。

 記事を書く側の一人として「本当に起きていることはなにか」という点に細心の注意を払って、今後の展開をウオッチしていきたい。(長谷川幸洋

リークを否定する毎日新聞の地方版

検察リークは「ありえない」(小野博宣/とちぎ発信箱)(毎日新聞 2010年2月5日 地方版)
http://mainichi.jp/area/tochigi/hako/news/20100205ddlk09070136000c.html

 栃木県とは直接かかわりのないことだが、見過ごせないことであり、興味をお持ちの方も大勢おられると思うので記させていただく。いわゆる「検察リーク(意図的な情報漏えい)」のことだ。民主党幹部の疑惑報道に絡み、「新聞は検察からのリークを垂れ流している」という意見を聞くようになった。民主党もリークがあることを前提にした調査をしているようだ。

 では、検察から記者へのリークは本当にあるのか。答えは明瞭(めいりょう)だ。「ありえない」と断言できる。なぜなら、私はかつて東京地検特捜部を担当していたことがあるからだ。検察官と新聞記者が接触することは極めて難しい。会うことができても名刺交換も会話もない。会釈すらしてくれない。新聞記者はまったく無視される。検察をはじめとする捜査当局の口は堅い。なぜなら、事件は捜査だけで終わらない。起訴をして公判にこぎつけ、最後に有罪を勝ち取らなければならない。リークなどをして、証拠隠滅や容疑者の逃亡、自殺などに結びついたら捜査は終了してしまう。捜査当局は自らの首を絞めるほど愚かではない。

 読者の皆さんは「ではなぜ記事が書けるのか」と思われるかもしれない。例えばとお断りするが、建設会社の資料を検察が押収したとする。その資料の中身を知っているのは、果たして検察官だけだろうか。資料の作成にかかわった人、資料をコピーしたことのある人……資料の内容を知りうる人は少なくない。
 新聞記者は、事件や疑惑にかかわるすべての人の氏名や素性、動向を把握して精力的に取材をし、集まった情報を分析する。それを基に一本の記事に仕立て上げる。リークなどというものに頼った安易な記事はひとつもない。記事は地をはうような取材の結晶なのだ。断っておくが、検察は取材源のひとつに過ぎない。

 政治家とカネの問題について、新聞記者が取材し報道するのは当然のことだ。私はそれを「番犬が不審者をほえるのと同じ」と言っている。この番犬はしつこくしたたかだ。政治家は与党になると、番犬を追い払うか、黙らせたくなる。リーク騒動の本質はここにある。「犬がまたほえている」といなせる政治家は、なかなかいない。(宇都宮支局長)