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2016-09-18

ワタクシ、自分勝手なクソガキです故

会社でもプライベートでもいろいろあり、自分がものすごく自分勝手で思いやりがない人間だと周りの人たち、といっても極めて近しい人たち、親や上司から言われるわけですが、まあなんとなくそういうことは前から感じてました。

思いやりがないというか、情がない、気にならない、そういう内容でございます。

一つのことを経験しても、他の人が10受け取ることが出来るとしたら、ぼくは4しか受け取れない、そういうところもあります。

しかしながら、世間様には申し訳なさそうな顔をしていますが、ぼくはこのこと、本音を言えば全く申し訳ないともすまないとも思っていないんですね。

というか、すまないとか申し訳ないとか本気で謝るということがよくわからない。

本気で悲しみに暮れるなら、そのままご飯食べられなくなって死ぬしかないんですが、今まで身近な人を何人か亡くしてきましたけど、それは確かに悲しいけれど、お葬式が終わればおなかも少しすいてお寿司を食べてしまうし、2週間もしたらしっかりご飯を食べられるんですよね。

正直よくわからんです。

本気でやるのなら命を懸けるしかないが、命を懸けたら全員ウサイン・ボルトを超えるスピードで100m走れるのかといえばそんなわけないのは自明であって、じゃあ死ぬしかないわけですなあ。

だからぼくは向き合わない。何を聞かれてもしらを切りとおす。

子供だから。

2015-11-08 書評

「持たない幸福論」 無欲に生きる

phaさんみたいに「毎朝決まった時間に起きて仕事に行くのが怠くて〜」というのもあって、phaさんの「持たない幸福論」を買って読んでみましたよっと。

ぼくが学生時代からぼんやりと思ってたことが文字になっていて、いろいろとふむーと思うところが多かったです。

ぼくは学生の時から手帳は真っ白な方がいい(予定が入っていないほうがいい)ってずっと思ってて、でも世の中的には「真っ白な手帳は何か不安で、埋めてしまいたい」って言う意見も根強くて、気持ち悪いなあなんて思ってたんですが、それも個人の感覚というか、まあそういう人もいるんだなあというくらいには最近は割りきれてきたのですが、それでもやっぱり今でも気持ち悪いものは気持ち悪いです。。。

結局アトピーとか爪噛み癖とかそういうストレス系のいろいろも、治まったのは大学4年の後半の、単位も取り終わってある程度お金もある中で自由気ままに暮らしてた時だったりして、結局社会人になってから再発したりして、なんだかなあと思う日々です。


あかんね、やるべきことを心に残したままだとブログの文章も支離滅裂なままで書けやしないっすわ。

おやすみ。

2015-11-03 人生

働くって辛いですね

大変大変ご無沙汰してました。生きてますよ。ええ。

一応、新卒で入社した会社でそのまま働いているわけなんですが、8月に転勤になり、仕事内容もガラッと変わり、上司からもガミガミやられるしで、毎日つらい思いをしています。

もともと、知らないことに対する恐怖心が凄く強かったり、2つ以上のことを同時にすると混乱してうまくいかなかったり、この情報を誰に入れておかないといけないとかそういうコミュニケーションが取れない子だったので、そういう社会人1年目からずっと伸ばせなかった能力不足に直面してヒイヒイ言っています。

正直、このヒイヒイ感で残りの社会人生活を続けていける気がしません…。今までは求められる能力がそんなに高くなかったからあれでしたけど(新入社員に毛が生えた程度だからって目溢しを受けていたような感じですけど)だんだん中堅社員とか言われるようになってきてしまって、うげえという感じです。

なんていえばいいんでしょう、この先例えば10年後に中間管理職になるとして、そういう仕事を出来る気がしないんですよね。。。

どうやったら生きていけるか、死なずに済むか、そういうことを考えています。

あと、今の職場に転勤してきてからなんですが、細かい内容も含めて、仕事時間内に処理をしなければならないことの数が圧倒的に増え、それも心を塞いでる一つになっています。

みんな経験するであろうこととは言え、努力でなんとか出来るのかどうかも謎で。

中学校の時に入ったソフトテニス部で、ぼく含め3人だけがなかなか上手くならず、その時のテニス部の顧問がふたりきりになった時に「みんなと同じように練習していると思うんだけど君らだけなんでうまくならないんだろう…」と言っていたのを今頃になって唐突に思い出しました。

多分、成長するための思考とか、何かが欠けてるんだと思います。


今はかなり仕事で一杯一杯で疲れています。もともと時間があれば自分の部屋で毛布にくるまって、本を呼んだりネットを見ながら過ごしているのが一番落ち着くし、髪を切るとか車のタイヤを変えないととか、そういう日常のタスクすら辛い辛いと言っている人間的には、今の会社に勤めてこの5年間は、その時々は頑張って仕事もしたつもりだし、向いてもないのに神経すり減らして飲み会も出て飲めないお酒も飲んで、そう思うと随分と頑張ったなあという気すらします。


そういえば、親は最近家を建てました。終の棲家にするみたいです。

実家に帰れば家賃と光熱水費はかなり抑えられるよなあ、今の貯金でもしばらくは生きられるからその間に仕事探すのも手かなあとか思いだしたりしてしまいました。

次の仕事は、コミュニケーション力が乏しくてもなんとかやっていける仕事とか、なんとか探したいな。

塾講師とかなりたいです。

2013-05-03 書評

日本においてグローバル化は成功するのか?(書評中国化する日本」)

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

さてさて2013年もGWがやって来ました。ちょっと寒いですが皆さまお元気ですか。まあそれはさておき、今年も読書のGWということで前に買ってそのまま積ん読状態になっていた本を消化したので書評としてご報告しようかなと思います。

一部では新進気鋭の論説者と話題になっていた與那覇潤氏の「中国化する日本」ですが、その「あれ、これひょっとしてちょっと右寄りのアレな内容の本なのか??」と一部の人達を勘違いさせかねないタイトルとは裏腹に、中国社会のあり方を的確に捉えながら、その特徴を踏まえて日本社会のあり方を大真面目に考えた本で、大変楽しかったです。内容も別に高校で習うような基本的な日本と中国の歴史についての知識があれば十分に理解が出来るような内容です。でありながら、高校では一切教えてくれなかった日中両文明のあり方について考察を加えてくれる、読んでいてワクワクしました。

本書は、タイトルにもある「中国化する日本」つまり「現代の日本の社会のあり方が中国的なあり方に近づいていっているのではないか?」という大胆な仮説を立ててみた上で、その仮説の前提となる中国的な社会のあり方と日本的な社会のあり方の特色を比較検討し、その対照的な2つの文明の相克という観点から紀元1000年頃以降の日本の歴史を見ていき、これからの日本社会の行く末を考えてみようじゃないのという形で進められていきます。

そこで前提としてまず中国社会のあり方を歴史的に考えるのですが、中国文明の特色は「宋」(960〜1279)の時代に規定された社会のあり方がその後も現代までずっと中国文明を規定し続けていると考えます。

宋が作り上げた社会制度とは具体的にはこうです。

①貴族制度の全廃と皇帝独裁の確立

科挙に殿試を導入、皇帝の手足となる官僚を郡県制により全国へ拡散・転勤を行い地盤作りを阻止

経済や社会の自由化を進める一方で、政治は皇帝の一元的な支配を進める

→青苗法等を通じて年貢の貨幣による納入を進める、運河建設などにより全国的な市場が形成される

③自由化された社会のセーフティーネットとして血族が機能する

→いわゆる「宗族」の考え方の発生。「遠くの親戚より近くの他人」の反対。

これらを更にまとめると次のようになります。

①権威と権力の一致(貴族を解体し、権力者となった皇帝は名実ともに絶対的な権力者となります)

②政治と道徳の一体化(儒教的な「徳」を体現する存在としての皇帝の地位が完全に確立されていった結果、政治的正当性=儒教的正当性となるわけです)

③地位の一貫性(②により、政治的にも儒教的にも「優れた」人間が力を持つので、「アホ」だけど社会的地位が低いというような逆転現象は起こらない)

④市場ベースの秩序の流動化(貨幣の更なる流通促進により従来の農村のあり方であった自給自足的な共同生活のための共同体としての農村は解体に向かい、商人らが地縁に関係なくネットワークを形成する流動的な労働環境が形成される)

人間関係のネットワーク化(④により近隣の狭く深い付き合いよりも、遠くの人達との浅くて緩い繋がりが優勢となる)

あれ、これって別に中国に限ったことでも無いし…これに人権思想とか法の支配とか議会制民主主義とか付け足したら、これまさしく西欧化って呼ばれるような現象なんじゃないのって言う感じがしますが、そう感じた人は鋭いですね。中国化、って書いてますが、これ冷戦後の世界の潮流とそっくりそのままなんですよね。というより、グローバル化した社会は1000年前の東アジアに既に現出していたのであり、今グローバル化とかなんとか言われている現象は既に起きた現象の拡大版の焼き直しでしかないわけですよね。だから日本がアジアで唯一「西欧化」を成し遂げた(中国は(民主主義法の支配等を除いて)既に「西欧化」していたのであり、今更できないから)といえるのです。

これに対し、作者は日本文明のあり方はまさしくこの中国文明の特徴を裏返しにしたような文明なのではないか?と考えます。具体的には日本文明の特徴として挙げられている以下の内容の通りです。

①権威と権力の分離(権威としての天皇と権力者としての武士という構造が歴史的に長らく続いてきており、また一般の会社でも実態としてはお飾りの社長のもとで複数の有力者により組織運営が行われているというケースが多々ある)

②政治と道徳の峻別(①を根拠に政治は「飯を食わせる、暮らしぶりをよくする」ことだと認識され、高邁な理想が掲げられることはめったにない)

③地位の一貫性の低下(「有能」な人間が社会的な地位も高いというわけではなく、むしろ低いことも多い)

④農村モデルの固定化(ムラの構造が江戸時代末期に至るまでがっちりと固定化され、近代化後もムラが会社に代わるだけで、人を特定のムラや会社に縛り付けて移動の自由を奪う代わりに、内部では比較的自由が保障される)

人間関係コミュニティ化(所属するムラや会社としての一人だとの意識が、他よりも優先される。例えば、自分が自動車の販売員だったとした時に、他社の販売員との繋がりよりも「ト○タ」「ホ○ダ」の販売員としての意識が優先される)

基本的に日本文明はこのような特徴を持つ社会として上手くやってきたのですが、歴史的に見ると平家政権と明治維新の2回、この性質をひっくりかえして中国的な社会を作っちゃおうぜという流れが起こっているのですが、不思議なことに日本人はこの日本文明の特色が大好きなようで、この試みはいづれも失敗してきました。

ところが、ここにきて新自由主義と相まって、「グローバル化」という名前で「中国化」が進んでいると作者は言います。確かにユニクロの施策*1とか見ると、そんな感じがしますよね。

つまりこの本を端的にまとめると「近年日本社会が直面している「グローバル化」というもののの本質は1000年も前に実はお隣の国の中国で発生していた現象であり、日本文明はこの「中国化」の摂取を意図的に避けてきた歴史的な経緯があるのにも関わらず、日本文明は平氏政権・明治維新に続く3回目の「中国化(グローバル化)」を迎えている。果たして本当に日本文明は今度こそ中国化してしまうのだろうか?はたまた1000年前、200年前に繰り返されたように、自発的な試みはやはり失敗するのだろうか?(そしてこれまでと違い失敗した時には当然これからの日本文明のあり方には必ず国際機関が介入してくるはずであり、そうなった時にはやはり日本文明は中国化してしまうのだろうか?)」というお話なのです。どうですか、簡単でしょ。

さて、これからの日本社会、一体全体どうなるんでしょう。

ぼくはこういう意味でのグローバル化は成功しないと踏んでますが、皆さまはいかがお考えですか。*2

*1:ファストリ、世界統一賃金 海外強化へ人材確保狙い 表示できません - Yahoo!ニュース

*2:世の中面倒くさいことばっかりなのでとりあえず金ためてさっさと別の社会に移りたいですハイ

2013-03-31 日常生活

芦部信喜がかけた魔法が解ける日

安倍晋三首相国会で「芦部信喜?誰それ?」と言ったとかなんとかがニュースになってて、なんかネットでヒステリック的に芦部先生信者が吠えまくっているのでチョロっと書いてみることにしましたよ。

■芦部センセイって誰やねん

そもそも憲法勉強したことがない人が「芦部信喜」って誰やねん、ワイは知らんぞってなるのはごもっともです。参考までにWikipedia先生によると…(詳細はググレ)


芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年9月17日 - 1999年6月12日)は、日本の法学者。専門は憲法学。学位は法学博士(東京大学・1962年)。1990年日本学士院会員、1993年文化功労者。1986年から1992年まで日本公法学会理事長。全国憲法研究会代表、国際人権法学会理事長等も歴任。著書『憲法』(岩波書店)は代表的な著作であり、ロングセラーとなっている。称号は名誉教授。軍在籍時の階級は陸軍少尉。長野県駒ヶ根市出身。

「自由の基礎法」として近代憲法を位置付け、日本国憲法における統治機構の原理及び人権保障のありかたを理論的に考察した。


とのこと。超偉い。超社会的ヒエラルキー高い。そうなのです、芦部先生と言えば法学部に入学した人間が右も左も分からないうちに取らされる憲法の授業で買わされる本に必ず名前の出てくる、超有名なセンセイなのです。おそらく憲法の授業を取らされて一応教科書を読んだ人なら(覚えているかどうかは別にしても)一度は目にした事がある、そういう先生なのです。

他の学問をやってらした方の中には「別に学説や論文の中身を覚えておけばいいわけで、提唱した教授の名前まで知らなくてもいいじゃんかー」って思われる方もいるかもしれません。

ただ、法律学の場合、そうとも言ってられないんですよね。法学ってちょっと他の学問と違ってるところがあって、答えが一通りに決まらないんですね。特に憲法は条文が100ちょっとしか無い上に、抽象的な文言が多いが故に文章をいかに具体的な国家機構の形として動き出すような形で解釈していくかということが大きな課題になり、様々な解釈が試みられることになるんですよ。しかも、法律学って体系的にできているので、あたかもエロゲーの分岐のように、ある条文のある論点でAという学説を取ると、それが他の条文の解釈の幅を決定してしまうという傾向があったりするんです。だから、逐条解釈が必要+その解釈を前後矛盾の無いように組み合わせて体系的に整えるという性質が法律学には出てくるんです。

そして芦部先生レベルの超有名かつ優秀な先生だと、憲法という大きな法律全体を全て自分の学説で再構築するという完全に人間離れした技を成し遂げちゃったりします。こうなってくると、同じ「憲法」というタイトルがついてても、A先生の主張している憲法論とB先生の主張している憲法論は別の学問なんじゃないのといっていいほどの別物になってしまって、「○○(先生の名前)憲法」と呼ばれる状態になってしまうんですね。こういう有様なので、ある先生が提唱した学説にその先生の名前がそのまま出てくるという法学の因習と相まって、憲法を勉強しているといたるところで「芦部説」に出くわすことになってしまうのです。法学クラスタは何も芦部信喜の名前を覚えようとしているわけではありません。憲法を勉強していると、勝手に芦部信喜の名前が刷り込まれてしまうのです。*1こればっかりはしょうがありません。現行憲法に与えた影響が大きすぎるのでですから。まあ要するに日本史で言うと、徳川家康って名前を覚えようとしなくてもその後で何度も徳川徳川って出てきて結局覚えてしまうのに似ています(え。

そういうことで、芦部先生は日本国憲法そのものと言っちゃっても過言ではないのです。こういう現状で、「芦部先生って誰?」って言っちゃうのは、相当にヤバイという感じが法学クラスタの意識の中にはあるのです。ここんところの意識はなかなか共有しにくいところではありますが。(学んできた学問によっては、学問の解釈が学者の人となりに委ねられるなんてありえない!法学は本当に科学なの?!って思われる方もいらっしゃるとは思いますが、世の中そんなもんです。そういうものなんですってことで納得したふりをして次に進んでいただければと思います。)

■芦部先生が凄いのはわかった。でもなんで名前を知らないといけないの?

そう、そこです。芦部先生を知らないのはモグリなのはわかったけど、名前を知らないだけでそこまで叩かれる必要があるの?ってことですよね。

結論から言いましょう。大アリです。なぜかって?それはひとえに芦部先生は憲法改正を行う権力をどう考えるか」という事を追求していたからです。憲法改正を目標の一つにしているらしい政治家センセイがこのことを知らないというのはちょっと頂けません。

憲法改正の権力とは?

我々は普段憲法の存在を意識していません。ましてや改正なんて意識したこともありません。現行法上の手続きだけキチンと踏んでたら(なんか中学校の公民の授業でやたらネチネチやるアレです)国民が賛成したことだし、別に中身は何でもいいんじゃないの?って思ってる人が殆どでしょう。

ところが、芦部先生は違います。先生はこう考えました。

日本国憲法草案は確かにGHQ初め日本国民ジャナイ人たちが作っちゃったものかもしれない。でも日本国民の代表たる国会はそれを確かに審議して、法律として成立させた。だから日本国民がそもそも持っている、「憲法を制定する権力」が発現したと見るべきだろう。そういう憲法の中に、国家を通じて間接的に国民の権力も制限する考えが憲法改正の条項にも含まれている。つまり、国民は憲法を制定する力を持っているのだが、それは日本国憲法においてはそれすらも制限を受ける、と。具体的には日本国憲法で確認された根本的な原理*2(基本的な人権の尊重とか公共の福祉の考え方とか)を覆すような憲法は、現行の憲法改正の枠内では出来ないと。それを超えるようならそれは単なる革命ですよ、とね。

なかなかロックですよね。芦部先生によれば、「憲法の根本の部分」を変えるような内容の法律はもはや憲法改正ではないそうです。でも某与党憲法改正案は憲法改正の枠を超えてしまいそうです。こうなると革命ですね。まさか目の黒いうちに革命なんか起こりそうだなんて思っても見ませんでしたよ、私ゃ。

要は、今回みんなが寄って集って叩いてたのは、憲法改正しようぜ!」と10年以上言い続けている某政治家が実は単に革命綱領をよく知らなくって、自分が政治家じゃなくて革命家だってことに気づいていなかったのが超絶お馬鹿っぽく見えるということに尽きます。だってアホな革命家って格好悪くってシラケちゃいますからね。

魔法使いだった芦部先生

まあ冗談はさて置きって感じですが、本当はもっと別の問題にあるような気がします。要するに芦部先生は「国民主権と言っても何でもかんでも国民ができるわけじゃないよ。歴史的に国民の生命や自由を守るために実現されてきた諸価値、これは現行憲法下では改正できないよ。なぜって、これらの価値は歴史的に重要性が確認されているし、たとえこれらが重要じゃないように思われたとしても人間の理性なんかいくらでも誤認するもので信用できたものじゃないから、これらの価値を捨てて新しい価値を生み出せるようにはとても思えない(し、そうしようとしてこれまでいろんな国民が失敗してきた)からさ。だから国家権力そのものを憲法の規定でガチガチに縛り上げるのよろしく、国民の憲法制定権力そのものにも制限をかけないとダメなのさ。そうしないと僕たちはきっとまた愚かな過ちをすることになる。でも社会を規定するソースコードである法律上でしかそう拘束することは出来ない。まあぼくは法律家だしね。社会の仕組みそのものをぶっ壊してしまうような革命が起こったら、それは仕方ないんだろうね。」って言ってるわけです。

格好いいねえ、芦部センセイ。感動するよ。芦部先生は革命やるなら俺のかけたトリックを全部攻略してから行けと、とそう言ってるんですよね。それだけの根性を入れて革命してこい、と。ぶっちゃけそのことだけに命をかけていったと言っても言い過ぎじゃないくらいに、全力を尽くしていったんだと思います。

かくして芦部先生はこういう方法で日本社会に様々な諸価値が根付くように魔法をかけていったわけですが、この魔法が時の権力者の一声でぶち壊されるわけです。

芦部信喜?誰それ?」

(ざんぼっとさんの心の声:え、そんななし崩し的に革命しちゃっていいんですか?w(ドン引き))

ここにきて僕たちは芦部信喜っていう超天才が、歴史から人類が獲得してきた諸価値を尊重しつづける社会をつくるためにこしらえてきた様々な魔法が、実に脆いものだったんだということに気づいてしまったのです。確かに自然法的ナニモノカとか根本規範という考え方はものすごくよく出来た作り話ですし、学者や学生を魅了するだけの十分な力があったのですが、「そんなの関係ねえ!」とばかりにワイワイガヤガヤやりだした政治家の方々を、もう止める力なんて無かったってことをこの1件は白日の元に暴きだした、そうとも言えるのです。あの人達はそのことにビビってるんですよ。だから僕達は寄って集ってそのことを気づかせるモノを今日も叩くのです。

じゃあ、僕たちは芦部先生がかけていったのと同じ方法でもう一度魔法をかけ直すのか、違う方法で魔法をかけるのか、あるいはこのままなし崩し的に革命しちゃうのか。いろいろ選択肢はありますが、それを書くには時間と紙面に余裕がありませんのでまた今度にしたいと思います。

どうでもいいですが、ちなみにぼくは芦部先生が主張してる自然法的なナニモノかを文章にして定めるだけでそこまで絶対視できるわけないでしょ、っていうか所詮それも人間が考えたものの一つとして相対的な価値しか無いわけだし、にもかかわらずそういうレトリックを使うって相当に困難だよねって相当冷めた感じだということは一応報告しておきます。

*1:これに加えて、特に憲法みたいに条文が少なくて解釈命みたいな法律は、解釈の背景にその人の価値観だとか哲学が大きく影響してくることも少なくありません。こうなってくると芦部信喜の人となりを知るということも立派な憲法の勉強になってきます。他にも憲法で有名な先生で佐藤幸治という先生がいますが、この人の考え方と芦部先生の考え方は混ぜるな危険です。最悪爆発します。頭が。

*2:そもそもどこまでが根本原理だって言えるのかってのが難しいんですけどね。歴史の集積が待たれるわけですが。