非社会的なもの

「負け組」は「社会の解体」の凝縮的表現である。この階級ないし人間群は、社会生活の枠の外へ追放されているから、社会のメンバーの資格を剥奪されている。
「負け組」は、一種の産業廃棄物のごとき存在なのである。くずやぼろといった廃棄物のなかに、生産過程と本来の生産物の負の側面が表現されているように、「負け組」のなかには「市民社会」の負の側面が凝縮的に表現されている。これをマルクスは「社会の解体」のしるしと見た。市民社会は、自分の内部から「もはや社会でないもの」を分泌する。同時に、社会はこの「非社会的なもの」に依存して存続する。
「負け組」は現存の社会構造から排除された存在者であり、社会の内部から見れば、社会構造の内部にはその場所がない非存在である。「負け組」は、社会的非存在であることによって、その現存在(ダーザイン)においてすでに社会的世界の解体であり、社会の変革ないし揚棄アウフヘーベン)である。しかし事実において社会の解体であり世界の崩壊であるとはいえ、その事実にとどまるだけでは本当の世界の変更にはならないし、なりえない。「負け組」的存在が自己を社会構造から排除された社会的非存在として自覚することが、単なる世界解釈としての哲学を越えて、世界を変えるなかで「哲学を実現する」のである。
今村仁司ヘーゲルマルクス」(『ヘーゲル講談社2004、100頁 ※ただし「プロレタリアート」の語を「負け組」に置き換えてあります。)

ヘーゲル
ヘーゲル
posted with 簡単リンクくん at 2007. 4. 6
今村 仁司編 / 座小田 豊編
講談社 (2004.3)
通常2-3日以内に発送します。

管理(追記あり)

 警察官の前で大学の職員と見られる若い男性が、警察官の質問に無言を貫いている学生に対し、「学生として真摯な態度を見せなさいよ」とか、「法学部の学生らしく、男だったらちゃんと言えよ」とか、「目がおかしい。(警察に)警告されましたよ。わかった? ハイは? わかんない?」としきりに挑発している姿は、これが教育に携わる人の態度だろうかと疑問を感じないではいられませんでした。外山さんが来て、学生が解放されたとき、ビデオを見ていた人たちから拍手が起こりました。

http://www.janjan.jp/culture/0704/0704033056/1.php

話題になっているこの事件そのものについての話ではない。私もこの職員はこれはひどいと思うが*1、「これが教育に携わる人の態度だろうか」というのはどうだろうか。外山さんにではなく、この職員に対してこそ、「これこそが教育に携わる人の態度だ」と拍手する人も多い。たとえば、大学から、「学生の私語の防止に関するお願い」が大学教員あてに通知されることがある。そこには、「学生からの要望が強いから」というのが理由として必ずあげられている。例えばこのような。

どうして私語を注意してくれないのか
うるさくて授業に集中できない
私語する学生にも、それを注意しない教員にも憤慨を感じ、やる気が失せる
授業の教室を管理できない教員・大学に授業料を払っているのかと思うと、嫌気がさす

こうした要望は本当に多い。ここからもわかるように、学内でビラをまくというような「教育を妨害する行為」をする学生に対して厳しい態度をとることこそ、「教育に携わる人間として」当然の行動なのである。
そして、「教育に携わる人間たち」(上のような要望をする「正しく」教育された学生たち含めて)、また、この集会に集まっているクサレ左翼運動家たち、というのは、外山さんが長年熾烈な戦いを繰り広げてきた敵なのである。そいつらが、「外山さんが学生を救った」と拍手喝さい、とは、悪い冗談というか、おまえらどんだけおめでたいんだ。














……とid:toledさんが言ってました。*2


参考:外山さんの初期文集
どれでもいいけど例えばこれとかこれとか

*1:ただし、問題のビデオを見ていないので上の記事だけでは状況が今ひとつわかりずらい

*2:すいません、厳密には、「言ってそうです」でした。ちがってたらごめんなちゃい。