サルトルと坂本龍一の関係について

竹内芳郎サルトル哲学序説』という本があります。

サルトル哲学序説 (1972年) (筑摩叢書)

サルトル哲学序説 (1972年) (筑摩叢書)

この本は、1956年に河出書房から出版され、河出倒産にともなって絶版になったものが、1966年に盛田書店から再刊、その盛田書店も倒産になって、最終的に、1972年に筑摩叢書から再刊されました。ところが、その筑摩も倒産してしまったわけで……なんとも。
これは、日本人によるサルトル本の中で永野潤の『図解雑学サルトル』の次にすばらしい本です。
サルトルはかつてブームだったと言われますが、哲学者による本格的なサルトル論というのは、かつては(すくなくとも入手しやすいものは)ほとんどこの本ぐらいしかなかったと思います。私も卒論・修論を書くときにはずいぶんと一生懸命読ませていただきました。
著者の竹内氏は当時31歳(1924年生まれ)。この本が執筆された1955年といえば、戦後たった10年。いわゆる55年体制がはじまった年であり、六全協の年。松浪信三郎の『存在と無』の翻訳の第一巻の出版(1956年)よりも、『弁証法的理性批判』の原著の出版(1960年)よりも、60年安保よりも前です。
さて、この本は、『図解雑学サルトル』の次に「熱い」本です。その「熱さ」は、特にあとがきから伺えます。1955年12月31日の日付があるあとがきは、いきなりこのようにはじまります。

ぼくはこの書物を、朝となく夜となく鳴りひびくヘドの出るようなラジオの躁音に埋まりながら、それへの抵抗のなかで書きつづけて来たものだ。ぼくにとってこのラジオの躁音とは、そのまま日本的現実の愚劣さの象徴であり、したがってぼくは、つねに日本的現実を意識しつつ筆を運ばせていたわけだ。(367ページ。強調引用者。以下同様)

アツいです。ちょっと中略して、この辺もアツいです。

ぼくら戦後派にとっては、坐りながらにして外国思想を料理していられるような静かな書斎など、はじめから与えられてはいなかったのだ。ぼくらは戦後のドサクサの中で、日本における学者とは要するに明治絶対政府によってデッチ上げられた国家機関の小役人にすぎぬことを、はっきり知ってしまった。しかもその点においては、進歩派も反動も大したちがいがあるとは、ぼくらの目には映らなかったのだ。(368ページ)

「国家機関の小役人にすぎぬ」というのは、現在の日本の学者を見てもまったくそのとおりにしか見えません。続きです。

だからぼくらにとっての唯一の関心事は、哲学の理論内容の改変などではなく、哲学する仕方そのもの・哲学者の存在仕方そのものの変革にほかならなかった。実存主義がとくに関心を惹いたというのも、まったくそのゆえであって、他のどのような理由からでもなかった。ところが日本では、実存主義の内実をなすこうした人間の存在仕方の問題がそのまま皮肉にも一つの哲学内容として説かれ、あれほどブルジョア的「教養」に反撥した実存哲学がそれ自身一個のブルジョア的「教養」と化し去られてゆく傾向が、あまりにも目立っているように思われ、そのことがぼくのような戦後派に、はなはだしく奇異の念をおこさせた。(……)いわゆるアプレと称される若い世代の人たちは、敗戦の事実などには目もくれず、ひたすらアメリカナイズされた植民地的教育のおかげで、なんでも手取り早くこなして「教養袋」のなかに放り込むことの方を好むものらしい。相も変らぬ日本的愚劣さのくり返しで、そんなことを考えると何もかも空しく思われてもくるが、でもやっぱりぼくらとしては、若い人たちと手をつないで闘ってゆくよりほかに何の方途ものこされてはにない。(368-9ページ)

というわけで、サルトルが、『現代思想冒険者たち』なんていうブルジョア的教養叢書に入れられるなんてのは、むしろ不名誉なことなわけです。また、国家機関の小役人の内田樹さんが、サルトルに「リーダブルなものはきわめて少ない」と思うのも当然なわけです。ていうか、リードしなくて別にいいですから(笑)。

実際、ぼくたち日本のインテリがサルトルの思想をうけとめる唯一の真正な場は、この日本的現実のなかにあってその愚劣さと闘うための武器としてそれを生きる以外にはないと、ぼくには思われる。(……)サルトルが「反=価値」の名をもって特徴づけた世界(……)にあまりにもピッタリとしたこの日本的風土のなかにあって、その朦朧たる思想、朦朧たる道徳、朦朧たる人間関係、朦朧たる生活態度を、根底から粉砕すること──この点において、サルトルの思想ほど強力に作用するものは他にあるまい。(370ページ)

アツいです。

日本には「──界」というものがやたらと多く、政界では自称政治家たちがさかんに「腹芸」とやらをやっているし、文壇ではそこだけでしか通用せぬ手製の小説作法や文芸批評の製造に熱中しているし、言論界では「進歩的文化人」なるものがさかんに「進歩的」言説を吐いている。そしてそれらはちょうどラジオの番組みたいなもので、それらが仲よく一つに集まって、日本全土を言いようもない躁音で埋めつくしているのだ。左翼的労働組合すらもがブルジョア社会内での一つの配役を演ずるにすぎないし、はなはだしい場合には立身出世の一つの足場でしかなくなっている。言論の自由がそのまま言論の空しさを意味するのも当然のはなしで、それというのも、いわゆる進歩的文化人が進歩的であり文化的であり得るのは、ただ自称「自由国家」であり「文化国家」であるこの国が編成した一つの番組としてそうであるにすぎないからだ。彼らの存在仕方そのものがあらかじめ敵にとって無害なものとなっており、したがって空しいものとなっているからなのだ。ぼくらはもっと、既成の社会によって割り当てられるポストにおさまりかえることなく自由に自分の存在仕方を創造してゆかねばならぬということを、少なくともぼくはサルトルから学んだような気がする。(371ページ)

というわけで、久しぶりにこの本を見て、あとがきを読み直したのでこうして引用したわけですが、かつては気がつきませんでしたが次のような部分がありました。

最後に紙上を借りて、河出書房編集部の坂本一亀氏にたいして、あつく御礼申し上げておきたい。翻訳書の出版いらいのことではあるが、とくにこの大部な処女著作の出版は氏の御尽力なくしてはとうてい不可能だったからである。(374ページ)

といっても、坂本一亀という人は、坂本龍一氏の父親で、有名な編集者である、ということぐらいしか知らないのですが。

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

空気清浄機

深夜ショッピング番組流しっぱなしにしていたら、空気清浄機の紹介をしていました。音が静かってのが売りらしいのですが、こんな風に言ってました。

「この空気清浄機の騒音レベルは44デシベル。これがいかに小さいかというと、静かな図書館の騒音レベルが45デシベルだといえばお分かりでしょうか」
「え?静かな図書館より静かってことですね?すごーい」

どーでもいいことながら、なんか、納得がいかないのですが。
たとえば、図書館に空気清浄機を置いたらどうでしょう。騒音レベルが倍になる?(単純に足し算じゃないかもしれませんが)やっぱうるさいんじゃないでしょうか。
設置されている場所に影響を与える側である騒音源と、騒音現によって影響を与えられる側である図書館のような「空間」を、「騒音レベル」という同じ数値で比較することになんか意味があるのだろうか。ていうかごまかしのような気がしてしまうのですが。