「正義」の鉄槌

 まあ何度も何度も言っていることなんですけれども。
 自分が「悪」と判断したものに対して「見た目がヤバイ」、「なんて下劣な表情」、「品の無さが隠しきれない」、「典型的な悪人面」だとか、その悪と断じた何かしらの事実についての批判じゃ無くて、単に主観的な部分、特に見た目などの本人がどう頑張ってもどうしようも無いかも知れない部分について執拗な攻撃をする人が、本気で自分を正義だと信じているなら相当にタチが悪い。自分が何かまずいことを言っているという自覚のもとに、匿名掲示板にこっそり書き込むような人々の何倍もタチが悪いと思っています。
 しかも往々にして、その悪と判断するのに至った「事実」とされていることが十分に確認されていなかたっりしますよね。もしその物事が「事実」だとしたらそれは良く無い、という批判であれば理解できるのだけれど、本来関係無い主観的な事を責めた人は、その「事実」が誤りだった時にはどうするつもりなんでしょうかね? いろいろ見てきた限り、どうもしていないようですけれども。
 この人なんか悪そうな顔しているな、怪しい雰囲気だな、という主観は当然僕にもあるし、日常生活や仕事の上で、自分の下す判断に影響を及ぼしていることは否定しません。でも、それはあくまで主観であることを忘れないようにしていますし、そんな主観を理由に人を責めていいことにはなりません。ある人の何かしらの「悪事」が明らかになったとして、責められるべきは悪事自体で、主観の部分じゃ無い、と僕は常々思っているのですが、「悪」と断じられた時点で、その人にまつわる全てのことを責めるのは正義だと信じて疑わない人が多いんでしょうか。
 差別反対とか叫ぶ人が、自分の信じる正義を達成するのに邪魔で嫌いな相手に対し、悪人面だ品が無い死ね、とか言ってるのが大いなる矛盾なのになぜ気付けないのだろうか、と思っています。僕は理解できるかどうかは別として、反対意見というのは尊重はしますが、こうした暴力的で差別的な、本質以外の部分を攻撃材料にするような主張は全く尊重できない、というか聞く価値が無いと思っています。その発言の中に一理あるとか、そういうこと以前のお話。
 僕は自分と目的が同じ人が全て単純に仲間だとは思っていません。差別的、暴力的手段を用いる人と、目的が同じだからといって同一視されては迷惑極まりないことです。そういう意味では、間違った手段で自分と同じ目的に向かう人は、目的を達成する上で一番の敵だと言えます。現状、何かセンシティブな主張をすると、僕なりにとても気を使って丁寧にその理由とともに主張をしたとしても、主張の内容は同じだけどその手段が褒められたものでは無いような方々と一括りにされ、いわれなきバッシングを受けたりもします(しばしば、そのバッシングの仕方が、まさにバッシングしてくる側がその理由としている暴力的だったり・差別的だったりする手段を用いたやり方だったりするのに閉口します)。話せば分かる、というのは対話のルールを守る相手との間にしか通用しないので、そもそも話す価値も無いような相手とはやりとりしたく無いんですよね、というお話。
 ただ何かに反対するということそのものが目的になっているのではない限り、主張の本筋以外の部分で無駄に喧嘩するのは下の下のやり方で、とにかく丁寧に主張すべきだ、というのは何度も何度も呟いてきたことです…。