歌う

夜明け前の畑での朝練が日課になりました。
ずいぶん年月がかかったようだけど、そのときが来たようです。
今年は歌をきいてもらえる機会をつくっていくつもりです。

あのときはただ一途なつもりだったことも、振り返れば思い上がった傲慢野郎でした。
振り返るのはもうやめにして、今日の歌をうたっていこうと思います。

人類は素粒子で銀河

がまんするんじゃなくてさ
ましてやせがまんでもなく
しぜんにそうなる
それしかかいけつほうはないよ


じんるいは
すうせんねんか
それいじょう
ころしあってる


やめようとおもえばよけいにやりたくなる
やりたいとおもったかこはまぼろしになる
やらなきゃなんておもったらじんましんでる
そのしゅんかんはただしぜんにやっている


じんるいは
そりゅうしだ
そりゅうしは
ぎんがだよ

末世にて

今年もいろいろありましたが。
末世でしょうか?
そうかもわからん。
親鸞聖人の生きた時代に想いを馳せる。
天災はいつの世にもあるし
人災はずいぶん凶悪化しているような気もするが
人間の本質、人間の愚かさは何も変わっていないのかもわからん。
テレビや携帯電話を棄てても、ツイッターには手を出さなくても
自分の愚かさがマシになるわけではないようだ。


いろいろあるってことは
いろいろ気づかせられるってことでもある。
そういう時代ではあるような気がする。
自分の存在を肯定してくれるような誰かがいてくれるってことは
とてもありがたいことだと思う。
肯定してくれるような人や、肯定してくれないような人との関係性の中にしか「自分」なんてものは存在しないのだろう。
関係性に溺れてしまったり、関係性を断ち切ることでしかドーパミンが放出されない、そういう癖を練り上げた器の中で生きてきた気がする。


器がぱっかり割れたとき
中には何があったでしょう?


何もない。
何も


まずは息をしよう
目の前のことだけに集中しよう
溺れようが、ぶち壊そうが、後から気づくのではなく、その瞬間に味わおう。
ああ、生かされているなあ、と実感している。
生かされてるなら、それを生きよう。
器なしで
いや、仮にも器はあるけれど。
その器で

何の矛盾もない

たとえば、道徳や法律に反することだとしても
たとえば、人様から褒められることだとしても
けちな価値判断をしなければ
何の矛盾もない


たとえば、鮫に食われて死ぬるとしても
たとえば、路傍で人知れず死ぬるとしても
生きてきた時間を人為で並べたりしなければ
何の矛盾もない


たとえば、きれいな言葉を吐いても
たとえば、誰かをがっかりさせるるような振る舞いをしても
あなたがあなたでしかないなら
何の矛盾もない


  ありのままで、そのままでよいなんて勘違いしないで
  あるがままに、誰でもそのままでよいなんてね


  ありのままってことを星星に訊いてみたら
  赤ん坊ではあるまいし不自然なことでもしないと
  自然にはならないよ、と応えた


いま、ここにいることに
何の矛盾もない、ので、
ここにいる、いま


明日?
わからんさ

言葉

大丈夫。
もしもわたしが死んでも、大丈夫。
大丈夫。
たとえ世界が滅びても、大丈夫。


大丈夫じゃないってことが、
歴史上あっただろうか?


世界っていうのは、
どこからどこまで、世界なの?


わたしっていうのは…
爪先から頭のてっぺんまで凝視しても、
丹田のあたりや頭上の虚空に耳を澄ましてみても、
どこからどこまで、わたしなのか。
わかりゃあしない。


大丈夫さー。
天国にも地獄にも、極楽浄土へも行ったことはない。
だから、
大丈夫だって。


大丈夫さー。
言葉では言い尽くせないけど、
大丈夫。
だけど言葉で伝えよう。


言葉は使い方をまちがえないように。
大丈夫といえば大丈夫になる力もあれば、
大丈夫じゃないよと、泣いても、
そんな夜もあってもいいけど、
言葉で自分の首を絞めたりはしないで。
最後の最後は、意味のない音を叫ぶしかないときもあるんだから。

よろこび三昧

原因があって結果がある
そこに理由をこじつける必要はないんだよ


執着しないことさ
求めるこころはどこにあるのかじっと見つめればいい
あえて否定もせず
正当化もせず


よろこびは
どこにあるのか
混乱の元は
どこにあるのか
ただじっと見つめればいい
説明もせず
言い訳もせず


誤解をおそれないことさ
細心の注意をはらうとしても
誰かを傷つけることをこわがるなんて
裏をかえせばなんて臆病で傲慢なんだろう


この
よろこびは
何なのか
定義しないで
この
よろこびは
きっと
ひたすら
よろこび
なのだから


ただそれが出てくる場所をじっと見つめて
それがある場所をたしかに感じて
ひたすら
よろこべ