Hatena::ブログ(Diary)

(*o*) このページをアンテナに追加 RSSフィード

 

2016年1月7日(木)

今年は毎日日記を書く。

2015年8月26日(水)

誤解

これ(A)を言うといつも(B)だと誤解される、という現象がある場合微妙な状況(A)を言っているのではなく、結局単純な(B)を言っているだけ、ということなのではないか。自分が(A)を言っていると思っているのは自分だけだから」という考え方をCとします。

2015年4月12日(日)

怒りが必要場合

つながれた犬が定期的に電気ショックを与えられる、ことに似た状況が人間に起こると、そうした不当な状況を当然のこととして受け入れる、ということが起きる。

理不尽なことはいろいろ起こる。

何が不当なことで何が当然のことなのか、はっきりと判断できるだろうか。

それはできる。

不当な状況を理解することと怒らないことは異なる。

怒っても何も解決しない。理解は解決に繋がる。

怒りは自己肯定だが、怒りを伴わない自己肯定も当然ある。

ただ、必要自己肯定感を持てない時、怒りがその助けになることは、あるかもしれない。

2015年4月11日(土)

この絵の良さを説明する

2015年4月10日(金)

自分以外の人やものへの依存

判断をあずける

・たずねておいて従わない問題

・とはい自分独自判断不可能

好きという気持ちが好きでいてあげたのに、に変わるとき

好きという気持ちに相手への応答が全く含まれないことは可能か。

まったく好意を見せない相手を好きになることは可能か。

(まったく悪意を見せない相手を嫌うことが可能か。)

応答が少しはあるからこそそれに感染するのであり、そこに、やってあげた、という気持ちが入ってしまうのではないか。

アイドルを好きになる場合は、それがお金ということになる、のかというとまた違う感じもある。

アイドルはかわいさとか歌とかダンスなどその活動すべてが、好きになってください、ということを本質としている、のか?

景色気候を好きになるように、人を好きになる場合、も同じか。

2015年4月9日(木)

撤回できる批判、受け入れられる批判

批判も賛成も本当にはできない、もしくは、批判対象も賛成対象批判や賛成を受け付けない独自のものがある。

とはいえ、批判や賛成自体もまた、独自存在理由がある。

批判は何のためにするのか、賛成は何のためにするのか、を考えると、どう批判や賛成すればいいかわかる。

批判も賛成も、絶対に、またはできるだけ、感情を混ぜないようにすべきだ。

批判された側が、「あっそうかなるほどな、じゃやめるわ」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような批判であること、それが大事

むしろそれだけが批判を、批判する意味のある批判とする。

(もちろんそうではない批判もあるだろうとは思いますが。)

批判側も「あっまちがってたわ。やっぱこの批判やめる」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような批判であることが大事

言ってしまったからもう後には引けない、そんな批判はしないほうがいい。

批判対象道徳的な悪に固定し徹底的におとしめる、そんな批判しか見ない。

そんな批判は怒りや憎しみしか生まない。怒りや憎しみを増やすことが目的なんだからそれでいいよ、という人はあまりいないのでは?

これは、批判だけでなく、賛成の場合も言えることです。

賛成された側が、「そうかもしれないけど考え変わったからやっぱやめるわ」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような賛成であること、それが大事

賛成側も「あっまちがってたわ。やっぱこの賛成やめる」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような賛成であることが大事

賛成対象道徳的な善に固定し徹底的に人格的にほめあげる、そんな賛成が多い。多くはないかな。

そんな賛成は喜びや連帯感しか生まない。喜びや連帯感を増やすことが目的なんだからそれでいいよ、という人はあまりいないのでは?

2015年4月8日(水)

合理的(と思われること)が主張される時

1+1はなんで2なの。1+1は1かもしれないじゃないですか

というようなことがたまに主張されるが、それを認めたらどうなるのか。

それを主張する人は主張したことによってどんな利益を得るのか。

それを認めたことによって私たちはどうなるのか。

 

効かない薬、効かない療法を勧める人は、効かないのになぜ勧めるのか。

効かない薬、効かない療法を勧める人は、効くと思っている、効くと信じている、効くことを実証的に証明した、から勧める。

効かないし、効くと信じてもいないし、効くと言ったら誰かからお金をもらえる、わけでもないのに、ただ効くと主張する人はいないだろう。

そういう人がいたとしても、私にはまだわからないが、なにか特になることがあるはずだ、と思うしかない。

効くと主張し、効かない薬、効かない療法を選択する人が、選択するに至った経緯には合理性がある、あらざるを得ない。

あらざるを得ないというか、現に選択しているのだから、それに至ったことは現実で、それを否定すればそこに至ったこれまでの経緯(過去)が消えるわけではない。

 

ある主張があってそれに反対する強固な主張がある。どちらも十分理解可能で現実的です。

ある主張を、理解できない、と思うときは、単に目をふさいでいるだけ、ということになる。

理解できないことはある。理解できないからといって、消せるわけではない。

2015年4月7日(火)

怒りの対象になった時

怒り行為は強い自己肯定感を伴った示威意志によって行われる。

そのため、自分が怒りの対象になった時、受け流す、ということが難しい。

強い意志を持った激しい攻撃さらされたとき、心理的にはどうしても防御的、対抗的にならざるを得ない。

そのため、相手の怒りに対し、自分の怒りを対置してしまいやすい。のか?

怒りは、強い自己肯定感を伴い、力、力を持った感覚、を得やすい。

ただ、基本的には、怒ったっていいことなんか何もない。

相手の怒りに対し、何もしない、ただ流される、ということが可能だろうか。

こうなったら誰でも怒るだろう、という怒りに至った経緯を想像して、相手の怒りを対象化する……。

いや、いま問題なのは自分が怒り対象になったとき自分のこわばりの問題だ。

から、すべきなのは、怒り対象になったら誰でも防御的姿勢をとってしまうだろう、という自分の気持ちの対象化でした。

2015年4月4日(土)

悪者自分場合

知り合い友人恋人家族などの関係他人と持つと、その関係上、しなければならないこと、保たなければならない状態、が発生する。

それをうまくやっていくことが、関係継続していくために必要となる。

それをうまくやっていく能力に乏しいと、関係継続していくことは困難となる。

悪いことをする人にもそれなりの理由がある、のかもしれないが、悪いことをしていることに変わりはない。

悪いことをしているということそのものによって、悪いことをしている人は責められる。悪いことをしている人は悪い。

悪いから知り合いにも友達にも恋人にも家族にもなりたくないし一緒に仕事をしたくない。

したくない、と書くと、したい、という選択があるような気になってしまうけどそうではない。そういうはなしは次の段階。

悪いことをする人にもそれなりの理由がある、ということが意味を持つのは、悪さではなくその人そのもの問題になるときだ。

人は通常人のものとして表れず、良いか悪いか遠いか近いか、のような形で現れる。

自分の悪さ、能力の低さ、を知っている場合、その悪さや低さに見合った関係でなければ期待に応えられないという恐怖がある。

2015年4月3日(金)

感情をみつめる

そうした、今すぐに去ってほしい感情、どうにかして消えてほしい感情が起こったとき

ある種のものは、考えないようにする、というやり方で、流すことができるようになった。

また、他のある種のものは、それをじっくり感じることで、私はいまこう感じている、耐え難いがこう感じてしまっている、

こう感じるのはこういう原因があるからだ、この原因によって私はこう感じる。

同じ状況になれば人間ならだれでもこう感じる、また、私に似た人ならだれでもこう感じる、もしくは

こう感じる人にであうことは少ないかもしれないが、私のように感じる人は多い、

のようなことを考えると、苦しむ自分を外から眺めているような気分になることができる。

苦しみは減らないが、ただ苦しんでいるだけの状態よりは、ましかもしれない。

2015年4月2日(木)

さみしさ、わずらわしさ

部屋が静かになると物音に敏感になってしまう。

そういう事情もあるがそれ以上にさみしさを感じるので、シャワーを浴びに行くときラジオをつけっぱなしにしておく。電気

最近は、カントリー・ガールズラジオをつける。

2015年3月17日(火)

屈辱、恥、怒り、悲しみ

感情の中には、それにひたっていることができず、どうにかしたい、なんとかしたい、一刻も早く消えてほしい、というものがある。

その場合、その感情の原因となる出来事は、起こって当然のことである、むしろ起こらねばならなかった、自分出来事を起こす側ならむしろ何とかしてその出来事を起こしたいと思ったはずだ、と思うことで解消できる。

のだろうか?

無力感悟りは同じことの2側面なのか?

怒り

怒りは非常に強い自己正当化感の元に発生するが、

怒ってしまう人は感情制御ができない未熟な人、という側面もある。

自分が完全に正しい側、攻撃側になってしまったことによって、防御が弱くなってしまっている部分、脇が甘くなってしまっている部分がある。

2015年3月16日(月)

田川建三からのお知らせ」更新

かなり長い文章が追加されています。

こんなに長い文章は「お知らせ」始まって以来なのではないか?

新約聖書のことは何も知りませんが『訳と註』は読み物としても本当に面白いと思います。

大きくて重いので電車で気軽に読むというわけにはいかないのが不便かもしれませんがまあそんなことは関係ありません。

2015年3月15日(日)

主張が正しくない場合

主張が世間の正しさと合わない場合、正しいと思っていても世間の前では言わない場合はある。それでも、信者の前なら主張を言う。

では、自分の主張が、どんな他人にも合わない場合、どうなるか。

自分は正しいと思っているが、その主張があらゆる他人には当てはまらない、反感を買う場合、どうなるか。

世間と合わない場合なら、熱心に主張すれば、同意してくれる他人はいるかもしれない。

あらゆる他人と合わない、と思われる場合なら、主張する意義がなくなる。

あらゆる他人と合わない、すべての他人から反感を持たれる主張というのはたとえばどんな主張か。

どんな主張も原理的に他人と合わない主張というのはありえないのではないか。

たとえば、他人に見つからないなら不正を行ってもよい、という主張ならどうか。

2015年3月14日(土)

批判目的・反撃の目的

何のために批判するのか。

というと、もちろん相手を嫌な気分にさせるためではない。

批判と悪口・暴力は全く異なる種類のもので、同列に扱うことはできないが、似ているところが全くない、と思うにはためらいがある。

 

もしかすると、悪口、誹謗中傷に対する応答でも、暴力を振るわれた時の対応ですら、そうかもしれないが、どんな批判、どんな応答であれ、その目的は、相手を嫌な気持ちにさせるためではないのではないか。

何か批判しなければならないと思った時、いきなり悪口を言われたとき暴力を振るわれた時、自分自分の気持ちを誤解してしまうが、その相手の心にダメージを与えようと思っているわけではない。

他人が嫌な気持ちになる、ということが、自分をより良い気持ちにさせてくれることなどない。

 

自分にダメージを与えてくる物の力が相対的に減少すると自分が受けるダメージが減り自分の力が増す、ということはある。

そういう身の守り方しかできない時、そういう対応の仕方が必要な時、もあるかもしれない。

ただし、相手にダメージを与える、という行為は、どんな形であれ、必ず結果を伴う。

その結果は、まずほとんど自分特になるような結果に帰結しない。

反撃した時点では一時的自分の力の相対的回復を感じるかもしれない。

しかし、長期的には、相手に与えたダメージが、自分へのポジティブ作用を遠ざけ、ネガティブ作用を近づける、のではないか。

 

それでも、ムカッとなって思わず相手に屈辱や痛みを与えることを目的とした行動を行ってしまうことはある。

というよりほとんどの場合そういう行動へ激しくかきたてられる。

それは、自分にダメージを与えてくる物の力を相対的に減少させる、

自分にダメージを与えてきた物の価値相対的に減らす、

その結果、自分が受けるダメージが減る、自分が受けたダメージの価値を減る、そして自分の力の回復を感じる

からなのかもしれない。

思わずやってしまうだけであって、それが自分本心であったり本当の目的とは違う、と考えることもできる。

相手の力の減退自体は、本当にしたいことではない。

また、相手の力の減退という目的を達成した場合、それは一時的には得なように思えるが、長期的、結果的には、損をするように思われる。

 

本当にめざすべきなのは自分の力の増大、自分幸福安心感平穏の増大、長期的に得な状況を作る、ことです。

これは、道徳的にいいからとか、その方がいい人になれるから、とかではなく、いやらしいほどに自分の気持ちよさに対して得になるにはどうすればよいかだけを考えた結果です。

 

批判したくなったとき、正しく反撃したくなったとき、もちろん悪口を言いたくなったり、暴力をふるいたくなったり、人を嘲弄したり屈辱を与えたくなったりしたくなったときは、それが本当に自分にとって得な結果を生むのかをよくよく考えるべきだと思われます。

 

なぜ私はこんなことを思うのか、というと、私は、反撃されたこと、嘲弄されたこと、屈辱を与えられたことについて、忘れることも多いですが、覚えていることはどんな小さなことでも、どんなに昔のことでもはっきり覚えており、日々その屈辱の気持ちを新たにして、復讐の機会をうかがっているからです。

2015年3月13日(金)

反論効果

本当には批判も賛成もできない。

としても、反論することは無意味ではない。

ある人の意見批判する。まず間違いなくその批判は全く批判になっていない。

その人もその批判には全く納得しないしまともな批判になっているとは思わない。

しかし自分意見というのはこのように理解されないということはわかる。

このように理解されないなかで自分意見を言わなければならないということはわかる。

となると、批判する人の正しさを認めるわけでは全くないが、意見の言い方が変わってこざるをえない、ものなのではないか。

2015年3月10日(火)

[]

いかにもよくあること、誰にでも起こること、のように書く。

普通はあまりなさそうなことを。

2015年3月3日(火)

『できない力』

これ相当傑作だと思うんですがどうでしょうか。

ブログタイトルとか全部これにしようと思いました。

けどすぐにこれはつまり『老人力』の劣化コピーでしかないなと思ったのでやめます。

老人力』は物忘れや老化等のネガティブ状況をポジティブにとらえようという話でしたが、できない力は、能力万能状態への全面的屈服によるゼロ状態から絶望的な反転もまたすべてゼロに収斂されていくしかないという何の希望もない恐ろしい状態を見つめるだけの苦行のあまりの無意味さに思わず老人力意味を読み込んでしまわざるを得ないという状況のことでありわざわざとなえる意味がない。

気分の話をします

いつも以上に単なる気分の話であり、どうでもいい話です、プリンよりゼリーが好きみたいな話です。

どんなものにでもそこにおもしろさや良さを見いだせればそれでいいのか

いろいろなところにおもしろさをや良さを発見できれば楽しいと思えます。

おもしろさや優れた点を発見する、感じることができるものが多ければ多いほど楽しい、ような気がします。

では、それをおもしろいと思うことこそ、それを優れていると思うことこそ、良くないことなのだ、劣ったことなのだ、と考えることができる場合どうでしょうか。

そんなものをおもしろがっていてはだめだ、と言われて、これをおもしろがっていてはだめだと思えるか、思うことは可能でしょう。

同時に、何を言われても反論はできるし、反論はできなくても、それをおもしろいと感じてしまっていることは事実であり、それを否定することはできない、ということもあります。

それが良いかどうかは時と場合による、何をおもしろいと思っているか、それをどう批判されたか、その時々で異なる、というのが正しい答えだとは思いますが、強引に言うと、やはりおもしろさをまず感じてしまう方が優勢な気はします。

ただし、おもしろさを感じる側が、具体的でなく曖昧で内輪用語で完結している場合、かつ、おもしろさへの批判自体がものすごくおもしろ場合、は批判の方がおもしろい気がします。

批判がただの無知による揶揄であったり、具体的でなく曖昧であったりする場合は、問題外でしょう。

同じように、おもしろいと感じる場合、それを批判する場合、どちらにでも言えることですが、友人知人親や家族世間一般世界共通その他そういった他の誰がどれだけ賛成したり反対したりしようが、法律で禁止されようが、私に賛成するのは私一人であろうが、私がおもしろいと感じるのだ、私が批判したいからするのだ、なのかどうか、みたいなのもある気はします。

2015年3月2日(月)

隠された(見えにくい)不正をみんなに知らせる、という批判方法

宗教自分の信念を隠す。

自分の信念は絶対に正しいと主張するが、それをあんまり知られたくない。社会通念とは合わないからだ。その程度には現実がわかっている。だからかくす。

からこそ、宗教には、みんなに知らせる、という批判方法がある程度有効となる。

たとえカルト宗教であれ(だからこそ)、みんなに知らせることを恐れる部分がある。

しかしそれが有効でない場合もある。

その「みんな」こそが問題となる場合がある。

ここで立場が反転し、同じになる。

2015年3月1日(日)

CによるDへの怒りがAによるBへの怒りを相対化(無化)する

2015年2月25日(水)

弱い者いじめ批判できない

弱い者いじめをしている人を批判できるのは、弱いものをいじめてはならないという絶対に正しい根拠があるからであり、このほぼ絶対に正しい根拠を持つことによって、強者としての批判とならざるを得ない。

それでもかまわない、自分強者として弱い者いじめをしたいからするのだ、と考えることはできる。この場合は、ただ強さだけが問題となる。あとにはむき出しの攻撃主義が残る。

人は本当には反省できない

本当には批判できない、だから、賛成もできない、という話がありましたが、ということは同様に、

人は本当には反省できない、ということもあるのではないか、と思いました。

その時点での行動や考え方にはその固有の生成理由存在理由があり、それを否定はできない。

否定できない、と書くとまるで否定できる場合もあるように思えるけどそうではなく、それ自体はもう存在したのだから存在するに至る過程含めてなかったことにはできない、というだけのことです。

それを踏まえた上で、似た場面が今後起きるとしたら、その時のことを考えよう、ということだと思います。

それを反省と呼ぶのだから人は反省できる。

冷静になる

感情的にではなく冷静になる、とはどういうことか?

短気的ではなく長期的視野に立つ。

感情ではなく論理的になる。

自分ではなく他人や多くの人の視野で見る。

というようなことなのかと思ったがどうも違う。

これは、反省の話にもつながる。

[]

人はそれぞれ……

スッキリしないものを

いくつか抱えたまま

生きてる……それが

普通なんだと思う



岩明均ヒストリエ5』

この言葉にはほんとに救われるというか役に立つというか。

まあそれがだめなんだよということもあるかもしれませんが。

2015年2月4日(水)

[]krv5

P143

 

序文

V01 学としての確実な道の発見

  • 確実かどうかはその成果を調べればわかる

V02 論理学の実例

V03 予備学としての論理学限界

  • 理性は、理性自身だけでなく、客体も考察しなければならない
  • 知識の判断には論理学が前提とされるが知識を得るための手段は<学>でなければならない

V04 理性の二つの認識

V05 純粋な学としての数学物理学

V06 数学革命

V07 自然科学における革命

V08 自然科学思考革命

  • 理性自ら知ることができないために自然から学ばなければならないことは、自ら自然に投げ入れたものにしたがって、自然のうちに求められなければならない。この思考方法によって初めて、自然科学は確実な道を歩み始めた。

V08n 実験という方法について

とくになし

V09 形而上学という闘技場

  • 理性は形而上学においては生徒であろうとする

形而上学はうまく行っていない

V10 確実な道への疑念

  • 自然は、なぜ、理性に、確実な道を探し求めることを使命として与えて、苦しめることにしたのか?
  • 我々が最も知りたい問題について、理性が我々を見捨て、まやかしを示して誘い、欺くのだとしたら、我々は理性を信用できない

V11 コペルニクス的な転回

  • 我々は対象についての認識必要としており、直観直観のままであってはならず、直観認識とならなければならない。直観のうちにとどまっていることはできない
  • 直観によって心に思い描いた像を対象と関連付ける必要がありその対象を心のうちの像で規定されるものと考えなければならない

V11n 実験役割

(「実験」とは要するに何をすることなのか?考えてみること?)

V12 理性と無条件的なもの

V12n1 総合手続き

注1

V12n2 仮説としての思考方法の変革


V13 形而上学幸運義務

序文は流した方がいいような気がする)

2015年1月2日(金)

[]krv4

P111

■066 空間時間現実性と観念論

  • わたし自身とわたしの内的な状態

■067 空間時間絶対的実在性を主張する人々の誤謬


■068 超越論的な感性に含まれる要素は空間時間だけである

この超越論的な感性論は空間時間の二つしか含むことができない

p117

第八項 超越論的な感性論についての一般的な注

〔1〕

■069 感覚的な認識の基本特性

この理論を誤解しないようにするには

感覚能力による認識一般の基本的特性を明確にする必要がある

■070 空間時間という条件の要約ー物自体認識否定

■071 概念と像の違い

(法の例えが理解できない)

■072 ライプニッツ哲学批判

普通要約は修飾や繰り返しを除いて主要論点だけを抽出するものだが、純粋理性批判では段落ごとの要約が難しい。同じようなことを繰り返しているだけだから要約すると同じになってしまうし、同じような繰り返しのなかで、修飾や表現を変えて同じことを少し変えて言うその変奏こそがそれぞれの場面ので重要だと思えるので、修飾のしかたの違い、微妙表現の違いを略することができず、そのまま受けとめざるをえない、ように感じられる、から

■073 ロック批判

■074 感性論の役割

超越論的な感性論の重要な条件は

学問の道具として役立つ理論にふさわしいものとして

確実で疑問の余地のないものとなること

■075 アプリオリ必然的総合命題のための条件

「この対象三角形)が、わたしたちの主観とは関係なく、それ自体存在する何かだとしたら、どうなるだろうか。わたしたちは、この三角形構成するために自分主観的な条件のうちに必然的にそなわっているものが、そのまま三角形それ自体にも必然的にそなわっているものであることを、どのようにして断言できるのであろうか?というのもわたしたちは(三本の直線という)概念に何も新しいもの(図形)を付け加えることはできないであろうからであり、とするとこの新しいもの(図形)は必然的対象のうちにみいだすしかないものである。これは、わたしたちの認識によって与えられたものではなく、認識する前から与えれていたものなのである。」(ここわからない)

時間空間経験が成立するための必要な条件であることは単に可能であるとかありそうだとかいうものではなく疑いの余地のないほどに確実なことである。

それは人間直観するための主観的な条件にすぎずこの条件のもとにあるすべての対象現象として現れるのであり物自体ではない。

〔二〕

■076 叡智的直観自己意識について

  • 像を心で思い描くための形式的な条件として時間を土台にしている
  • 心の中に思い描かれる像で、何かを思考するすべての行為に先立って存在しうるものは、直観しか考えられない。この像には関係しか含まれていないのなら、それは直観の形式であるとしか考えられない。
  • 直観の形式は、それ自体では何も思い描かない。何かを心に持ち込む必要がある。何かが心に入ってきて心が触発される方法を示すのが、この直観の形式

 

 

〔三〕

 

■ 077 現象仮象の違い

 

 

  • 物体はわたしの外部に存在するように見えるだけ
  • わたしの魂は自己意識の内部に存在するように見えるだけ
  • ということではない

 

■077n 仮象の発生

 

 

 

 

〔四〕

 

■078 神は空間時間のうちに存在するか

 

 

■079 派生的な直観――天使直観するとき

 

 

超越論的な感性論の結語

 

■080 超越論的な哲学課題のための第一条

 

 

P141

 

「超越論的な感性論」おわり

2015年1月1日(木)

日記

新訳が出るたびに読み始めたがいつも「図式」のところで挫折するので読みやすく解説も多い文庫版もあることだし読むことにして3日前から読み始めた。

これまでは手書きノートメモを取っていたがノートは前回読んだ分の記憶を戻すために一度読み返すだけで無駄な気がするし書くのに時間がかかって手が痛いのでテキストを打てる機械を買おうと思ったが新しい機械を余計に持ちたくなかったしテキストを打つだけなら十分高性能なスマホは持っているしこの先も持ち続けるだろうから昨日アンドロイドで使えるキーボードを買いスマホメモを取ることにしたらどんどん打ててしまうので打ち過ぎてメモではなく書き写しのようになってしまった。今後メモ量を減らすのが課題スマホの画面は狭いので打ったテキストの一覧性が低い。それなりの画面の大きさがあったほうが理解は進むと思った。タブレットを持つ必要は感じないのでノートPCにすべきだがノート最安値3万円でも2年使える気がせず割高感が否めない。ポメラの数千円版の画面の大きさならスマホでいいような気がするし2万円近い版はノートのほうがいいような気がするが実物を見たことがないので比較できない。むずかしくてうんうんうなって進まないだけだったときもとりあえずキーワードを打ちこんでいくと理解がほぐれ先に進めたのでただ読書をするためだけでもとりあえずテキストを打つというのはいいかもしれないと思った。それなら手書きノートのほうがずっとよさそうな気もしますが……。

感想

いつも思うのは手を変え品を変え品詞を変え言葉の位置を変え同じようなことを何度も何度も言っているように感じるということで、まあそのおかげで理解は徐々にだけど確実に進み、難しさでいうとそれほど難しくはなくむしろかなり親切丁寧なほうで、優しいようなふりをしているウ関連の本のほうがずっとわけがからない、という気はするのだけれど、どうしてこういう流れになっているのかとか何度も何度も同じようなことを言っているように感じるが同時にそれぞれの説明はそこにしかない固有の必然性というか他とは異なる独自の説明があるように感じられるのに、その違いとか必然性は全く理解できない。ただいろいろな仕方で優しく説明しようとしてくれる教師にわけもわからずあとからついて行くとそれなりにつまずかずについていけているような気がする、という段階です。

[]krv3

■050 感性主観的な条件としての空間

(b)

空間は形式

空間人間感性主観的な条件

この条件のもとでのみ外的なものを直感できる

主体対象から触発されるという受容性を持つ

この受容性が先だっていなければならない

空間は心にアプリオリ存在していなければならない

空間純粋直感=すべての対象がそのうちで規定されなければならない直感

さまざまな対象相互関係を示す原理を含む

■051 人間立場

空間について語ることができるのは人間という立場からだけ

人間

 外的な事物を直観するために必要主観的な条件

 対象によって触発されるために必要な条件

を捨てるなら空間無意味

空間が事物に適用されるのは

 事物が人間に現れる限り

 事物が人間感性にとっての対象である限り

のこと

この受容性の不変の形式を感性と呼ぶ

直観されるのに)必要な条件が感性

すべての対象を取り除いたあとに純粋直観けが残る=空間

空間人間感性特別な条件 は

 事物の存在の可能性の条件ではない

 自分人間現象として現れるために必要な条件

他の存在者直観にだとうするものかどうかはわからない

人間にとって外的な現象として現れるすべての事物は空間のうちに併存する

この規則普遍的に制約なしに妥当する

空間対象人間に外的なものとして現れることのできる場という意味では

実在性、客観的妥当性を持つ

事物が理性によって物自体と考えられる場合

人間感性特性考慮せずに考えられる場合

この空間観念性をそなえている

=事物についてのイデア

こう考えてしまうと、

空間経験的な実在性をそなえている と同時に

経験についての超越論的な観念性もそなわっている

と主張してしまう。

=すべての経験の可能性の条件を放棄して空間物自体根底にある

 と考えると空間はなにものでもなくなる

■052 空間とその他の主観的な像の差異

外的なものにかかわる主観的な像のうちで

アプリオリ客観的だと主張できるのは空間しかない

空間において直観したものから

アプリオリ総合命題を引き出すことができるが

他の主観的な像からは引き出すことはできない

(→045-048)

視覚聴覚触覚は主観的特性という意味では空間と共通するが

空間とは異なり観念性は持たない

色彩音色暖かさは、たんなる感覚にすぎず、直観ではないため

これだけでは客体をアプリオリには認識させるものではない

味や色彩は

対象人間感覚能力の客体となるために必然的に伴う不可欠な条件ではない

味や色彩は現象と結び付いているが

特殊な器官に偶然付け加えられた影響にすぎない

アプリオリな像をもつことはできない

空間経験的である感覚的なものを含んでいない

物体の形状の概念や物体相互関係概念が成立するためには

空間規定を心に思い描くことができる

空間は外的な客観現象にもその直観にも必然的なものとして伴う

■053 物自体認識できない

空間観念性(?) ≠ 感覚

物自体経験によってはまったく問われない


第二章 時間について

第四項 時間概念形而上学的な解明

■054 時間アプリオリ

(1)時間経験的な概念ではない

時間という像がアプリオリなものとして土台になっていなければ

同時存在、継起的存在、をまったく知覚できない

心に思い描くことができない

■055 時間必然性

(2)時間はすべての直観において土台として利用される必然的な像

現象一般から時間を取り去ることはできない

現象から時間をはずして考えることはできる)

現象現実性をもつの時間においてのみ可能

現象は取り除くことができるが時間は取り除くことができない

■056 時間は一つの次元をもつ

(3)時間には一つの次元しかない

複数の異なる時間存在すれば同時に存在することはできない

空間複数の異なる空間存在すれば同時に存在するしかない

この原則経験から引き出すことはできない

経験から普遍性も確実性も得ることはできない

経験

・でなければならない、ではなく

・一般に示される、ということだけ

時間関係についての原則経験一般が可能になる規則

わたしたちは経験する以前からこの原則によって

経験するための規則を教わるのであり

経験によって教わるのではない

■057 感性による直観純粋な形式としての時間

(4)時間は論証的な概念でも一般的概念でもなく

   感性による直観純粋な形式

異なった時間とは同じ時間の異なった部分にすぎない

<唯一の対象によってしか与えられない像は概念ではなく直観

異なる時間は同時に存在することはできない という命題

一般的概念からは導くことができない

この命題総合的であり概念だけからは導けない

直観のうちに時間の像のうちに直接に含まれている

■058 時間無限

(5)時間の根源的な像は何によっても制約されていないもの

   として与えられていなければならない

部分的時間は制約によって生まれるものとしてのみ

心に思い描くことができる

時間全体像概念によって与えられるものではなく

直接的な直観として、部分的時間の像の土台となる

概念部分的時間の像だけを含む)

第五項 時間概念の超越論的な解明

■059 変化や運動概念時間

事物の変化の概念運動場所の変化の概念

時間の像を使うことによってのみ

時間の像においてのみ可能

変化とは同一の客体において矛盾対当の関係にある述語が結びつけられること

つの事物において矛盾対当する二つの規定が結びつくには

それらが継起して現れるしかない

それは時間のうちでのみ可能

力学一般的運動論には、多数のアプリオリ総合認識がある

これが可能であることを明らかにするのは時間概念だけ

第六項 これらの概念からえられた結論

■060 時間主観的な条件でなければならない理由

(a)

時間はそれだけで存在するようなものではない

・物に付着しているものでもない

人間のすべての直観が成立するための主観的な条件と考えれば

時間対象以前に存在すること

総合命題によってアプリオリ認識され直観されること

が可能となる

■061 直線によるアナロジー

(b)

時間は内的な感覚能力の形式

時間という形式において

自己自身自己の内的な状態を直観する

時間は外的な現象規定ではない

時間は事物の形態や位置に属しない

時間は、像が、わたしたちの内的な状態において

たがいにどのような関係にあるかを規定する

この直観はどのような形態も作り出さないので

人間は、無限につづく一本の直線のアナロジーで考えようとする

この直線から時間性質を推論しようとする

時間と直線のアナロジーひとつ違いがある

直線のさまざまな部分は同時に存在するが

時間のさまざまな部分は同時に存在せず常に継起する

時間の像はそれ自体ひとつ直観(?)

時間のすべての関係ひとつの外的な直観において表現される

■062 現象が成立するための条件としての時間

(c)

時間はすべての現象一般にそなわるアプリオリ形式的条件

空間人間の外部の現象だけにそなわるアプリオリな条件

人間が心で思い描く像はすべて人間の心の規定であり心の内的な状態に属する

心の内的な状態は内的な直観形式的な条件にしたがう

つまり、時間にしたがう

時間

内的な現象の直接的な条件であり

外的な現象の間接的な条件

すべての現象一般すべての感覚能力のすべての対象時間のうちにあり

必然的時間との関係のうちにある

■063 認識の条件と時間

まず自分自身を内的に直観する

内的な直観媒介として、像を思い描く能力のによって

事物を外的な直観として把握する

対象をあるがままで認識できると考えると時間はなくなる。

時間客観的妥当性をもつの現象に対してだけ。

現象とは、

人間自分感覚能力対象として想定する事物だからであり

時間はこうした現象直観するための形式だから


心のうちで像を思い描くという人間固有の方法無視して

事物一般について語るときには

時間客観的なものではなくなる。

時間直観主観的な条件にすぎず主体の外部においては無に等しい

それにもかかわらず時間

すべての現象に関して

経験に現れることのできるすべての事物に関して

必然的客観的なもの

誤 すべての事物が時間のうちにある

正 現象としての、感覚能力による直観対象としての、

  すべての事物は時間のうちにある

■064 時間の「実在性」と「観念性」

時間経験的な実在性をそなえている>

すべての対象にたいして客観的妥当性をもつ

直観は常に感覚的なものであるから

時間の条件に従わない対象

経験に与えられることは決してない

時間絶対的実在性はない

物自体特性感覚能力によって与えられることはない

時間の超越論的な観念性とはこのことを意味する

観念性があるということは感覚の錯誤があるということではない

感覚の錯誤の場合

感覚によって語られる現象客観的実在性を持っていると想定されている

時間場合

客観的実在性はない

経験的な実在性はある

 対象現象と見なされている

第七項

■065 時間現実性の意味

時間

経験的な実在性を認める

絶対的で超越的な実在性を認めない

高峯一愚『入門』P124)

異議

・変化は現実的

・変化は時間のなかでしか起こらない

時間現実的

時間は確かに現実的

内的な直観現実的な形式

時間は客体として現実的なのではなく

自身を客体として心に像を思い描く方法に関して現実的

もし制約なしに自ら直観できると想定する

変化はひとつ認識を与え、ここでは、

時間の像も、時間に伴う変化の像も現れない

から時間実在性は

感性的な制約を受けた人間経験を可能にするための条件

■065n 時間規定について

時間は事物に客観的に結び付いた規定ではない

2014年12月28日(日)

なぜ人が悪い理由を考え続けてしまうのか

ってわかり過ぎるほどわかっているのでした。

普段の社会生活下では自分が圧倒的な劣位に置かれそれを意識させられている・意識している、からで、せめて自分の考えの中では他人より優位に立ちたいという気持ちがあるからなのではないか、と思います。

しかし自分が優位に立てる場面、自分の優劣を意識しないですむ場面、なんてそれほど多くはなかったとしても不思議なことでも不当なことでも特殊なことでもなんでもないし、自分が劣っているからこそ、世の中にはいろいろ学ぶべきことがあるなあ!よーしがんばろう!と思えばいいのだから問題は、なぜそう思えなくなるしかないのか、というところにあります。

感情自分敵対するものとして表れる

というのは嘘で、楽しかったり嬉しかったりする感情自分に味方しているから、怒りや悲しみのような嫌な感情はおきてほしくない気持ちがある、という程度のことなんだと思います。

正しいこと、考えればこうすべきだとわかること、こうした方がいいと思えること、そういうことがある場合でも、感情によって、それをしたくない、するべきでない、そうすることが良いとどうしても思えない、そうした方が良いことだと気付けない、ときがあります。

というより、多くの場合、ほとんどすべての場合が、そういうものなのかもしれません。

本当に嫌だけれどする、カッとなったけど本当にすべきことをする、ということなどない、のではないでしょうか。

ないことはないですね。そういうときはある。

いや、カッとなったけど本当にすべきことをしたとき、すでにもうカッとはなっていないのではないか?

おしゃかさんかだれかが、相手が自分に対して怒りでふるえそうなぐらいのこと(刃物で体を切り刻む等)をしてきたとしても、怒りを感じてはいけない、淡々と相手のためになることをしなさい、というようなことを言ったそうですが、たとえ無理だとしてもそう言わなければならないくらい、感情だけに目が向いていると、絶対自分がこうすべきだとかこうしたほうがいいと思っていることができなくなる。後悔するようなことをしてしまう。

「なんだよ」と思うともう反論することばかり考えてしまいその人が本当は正しいかもなんて考えもしない以前にどうでもいい、ただただその人が完璧反論され屈辱にまみれ嫌な気持ちを味わい家に帰ると家が火事で驚き消防車呼びに走り出したら通りかかった車にひかれて死んでも一片の憐憫も感じないどころかそうなってほしいと望みすらする。「なんだよ」と思ってしまうことが間違いでその人が正しいことを言っているとしてもそんなことはどうでもいい、となる。

考えたり言ったりする内容も同じで、怒りや悲しみが持続していると、その感情のままにずっと考えを組み立て続けてしまうので、普段あまり怒りを感じていない時でも、そういう考え方や考えたことの堅固さ巨大さから逃れることができず、その考え方を強化していき、完全な嫌な人の出来上がり、となってしまう、ということがあるのではないか。嫌な人というより、何をするにも考えるにも言うにも、感情に起因することしかできず、まっすぐに目的を達成する(自然現象理解する)、ということができなくなってしまっている人、ということになるかもしれない。

今はそういうことはしないですけど、小さいころは、「その人が悪い理由」を、始まりはそれなりの切実さがあったとはいえ、ずっと考えてしまうときがあり、考えるうちに癖のようになってきて、別にそこまで責めなければならない理由なんてなにもない人なのに、楽しい思考の遊びのように責められるべき理由を延々と考え続けてしまっていたときがあり、ハッと気づいてやめたのですが、いまではそういうことはないとはいえ、そういう状況に陥り続けているのではないか、と考えることがよくあります。

ではなぜ私は、どんな人でもその人の良さや楽しさを発見し見つめ続ける、ような人にはならず、人の悪さだけを見つめそれに対し怒りを感じ延々怒っているような、そういう人になってしまうのか。不幸ならその分余計に、幸せや楽しさを求めるものなのではないのか?

幸せや楽しさも感情からそれに流されすぎるとだめなんだろうか。楽しいからいいんだろうか。

仏教は無感動状態を理想としているみたいな話は何度か見たことがあります。

完全に感情から自由になれないからこその人間だけどむしろ感情をうまく利用してやろうという方向まで行くスポーツ選手メンタルトレーニングはそれはそれで感情とは違う別の何か(もしくは怒りや悲しみとはまた異なる感情)に引きずられているような気もします。そうでもないか。

2014年12月27日(土)

自信とは何か

自信はいいものだと言われているのだからいいものだと考えるべきなのかもしれない。

自信を何か悪いものだと考えてしまうのは、人が何か悪いと思われる行動を取ったとき、その原因を、その人には自信があるから、だと考えているからで、それがおかしい。のかもしれない。

人が何か悪い行動を取ったとき、その原因は、何か悲しい過去であったり、つまらない諸状況である、と考えるべきであって、その中に自信は含まれない、と考えるべきなのだろう。

それでも、どうしても、その人がある種の自信を持っているからこういう悪い行動を取ってしまったのだと考えざるを得ない場合は、自信は悪いものだと結論付けるしかないのかもしれないが、やはりその場合は、そういうふうに考えてしまう私がおかしい、と考えたほうがいいかもしれない。

それくらい、自信は良いものだ、と世間では言われている、ような気がするし、自信を持つのは悪いことだ、と言われているのを、私はかつて一度も見たことがない。

さらに、あたたかい家庭環境があることに至っては、それが悪いことだと考えてしまうのなら、「あたたかい」とか「家庭環境」とか「悪い」という言葉意味普通とは別の意味として使っているのではないか、とまで考えてしまわなければならないほど、そういうことが言われているところを見たことがない。

まあ、なんかおおげさに書きましたがそんなたいそうなことではなく、自信がある人は傍若無人な態度を取りがちなのではないか、という程度のことだし、そういうある種の自信を、あたたかい家庭があって心が安定していることが後押ししている場合がある、という程度のことを考えているだけであって、じゃあ寒々としたいやーな家庭を抱えている人は良いことをしがちなのかというと、あたたかい家庭を持っている人よりずっと悪いことをしてしまいがちなんじゃないかと、まあ、思いますけど、状況A=人の心A、なのかというと、そういう人もいればそうでない人もいるし、いろいろだろうなとは思います。

そういうのが良いっていうけどそういう良いのの中にこそひそむ悪いものがあるんじゃないの、みたいなことを、持たざる者はつい思ってしまいますけど、まあ、幸せな方がいいに決まっているし、自信があるほうが良いに決まっている、と思います。決まっているわけじゃないよ!あのころ幸せでなく自信がなかったからこそ、今の良い幸せと良い自信があるんだ、と思う場合もあるでしょうけど、それも結局幸せ自身は良いと思っているわけで、幸せや自信や温かい家庭はあったほうがいいです。

2014年12月23日(火)

自分の正しさを主張し相手の非を指摘する

相手の正しさを主張し自分の非を指摘する。

相手の正しさを主張し自分の非を指摘する場合、なぜ相手の正しさを主張しなければならないのか、ということが問題になる。

なぜなら、正しさを主張する相手に遭遇した時いつも感じるのは、なぜそこまでかたくななのか、ということだからです。

心の支えとしての家族

心の支えとしての家族は、それが自信を生むという意味では、否定的な気持ちにしかならない。

一般的には、自信は良いものとされている、ように思えるが、自信が良く作用しているところをほとんど見ない。

特に家族根拠とする自信は、私には害しか与えたことがない、ような気がする。

家族を持つことによって穏和になった人が増えたおかげで安心して道を歩けているのかもしれないが。

人は幸せなだけでは決して満足しない2

以前、人は幸せであるだけでは決して満足せず、その幸せが称賛されることを望んでしまう、と書きましたが、また同じ状況に遭遇しました。

幸せな人は幸せなのだからそれでいいはずです。まさに幸せなのだからそれ以上望みようもない。

のかというと、やはりそうではなさそうです。

幸せというのは、究極の目的と思いがちになってしまいますが、案外その程度のことなのかもしれません。

それとも、人はそう簡単には満足しないということでしょうか。

人は、幸せであるだけでは足らず、その幸せが意義あるものであること、他人から称賛されるものであること、その幸せが良いものだと確信を持てること、そこまで望みます。

幸せであるのだから少なくともねたまれたりすることは当然だ、なんて決して考えません。

嫉妬する人を馬鹿にしそれに同意を求め賛成を求める、そこまで行かないわけにはいかないようなのです。

怒られた人は怒り返すか萎縮するかして怒った人から離れる。これは当然のことです。

人間精神物理学とでもいうべき自然現象です。(人間の心は物理学では扱えるようなものではありません。)

そんなことは誰でもわかることなのですが、怒る人はそれすら認められないのです。

怒りの自己正当化意識はそれほど高く、怒る自分こそ称賛され認められるべきだ、となるわけです。

当たり前のことをそのまま認める。これすら相当難しい。感情というのは厄介なものです。

私は普段幸せを感じることはほとんどなく(よくあります)、怒りを感じることが多いです。

から自分幸せを感じるということが自信過多に思えてしまうことがよくあるのですが、一方怒りが多いということは過剰な自己正当化を感じていることが多いわけですから、なかなか難しいものです。

自分の自信を怒りから幸せ感に移行できないものでしょうか。

2014年12月22日(月)

優しさ

丹波哲郎さんが亡くなったときに林屋ペーさんが「私みたいな者にも話しかけてくれる優しい人だった」っておっしゃっているのをテレビで見て「うははは笑。話しかけるのが優しいやて笑。さすがお笑いの人はこんな時でもギャグ言うんやなぁ笑」と思ったのをはっきり覚えているのですが、2006年当時の私は、人に話しかけるという優しさがある、ということを知らない人でした。いま知っているんかというと、それもあやしいですが。これはやはりちょっと病気なのではないか、と思うのですが、病気だということが自分でわかるというのはおかしいのではないか?

これが例の、「病識はないが、病感はある」という状態でしょうか。

2014年12月21日(日)

怖い人はなぜ怖いのか

と思っていたのですが今日なんとなくわかりました。

私は何が怖いのか、夜道で出会う人の怖さとか、駅のホームで今後ろから押されたら終わりだなと思うときの怖さとか、いろいろ考えましたが、なんとなくわかりました。

私は、怖い人が怖いのではなくて、人の怒りが怖いような気がします。

から、普段気軽に接している人でも、その人が私を怒っていると思ったら、その人を怖いと思います。

から、怖い人を怖いと感じるのは、その人が怒りやすい人だから、だと思いました。

よく怒る人でもあまり怖くない人がいますが、その場合、その人の怒りは、本気の怒りではなくて軽い怒りのような気がします。チッしょうがねえなぁという感じです。見下されている感じです。

本当に怖いのは、見下しもせず、本気でいきなり殴りかかってきそうな怒りをしばしば感じさせる人です。

最近この種の怖い人と一緒に仕事をしており、なかなか怖い毎日です。

殴られたら痛いけどそれが怖いわけではありません。

実際に殴りそうなくらいの強い怒りが怖いのです。

でも、実際に殴りそうなくらいの強い怒りの何が怖いのか、というとそれ自体は怖くない。

そういう怒りを向けられたとき、そういう怒りを向けられる自分正当性自分で確保できないことも大きいような気がします。

つまり、自分本質的な弱さを怒りで突いてくる人が怖い、ということかもしれません。

自分本質でもないんでもないどうでもいいところに絡んでくるような怒りの人は全然怖くない。

自分言い訳のできない弱い部分を逃げられないようなやり方でするどく強く感情で突っ込まれるとこれは困る。

から怖い、ということでしょうか。

でも、自分言い訳のできない弱い部分を逃げられないようなやり方でするどく強く感情で突っ込まれる、ことは怖いことなのか?

となると、駅のホームで今後ろから押されたら終わりだな、と思うときのほうが怖いような気もする。

2014年12月15日(月)

苦しみのみが

満足してはいけない現状というのがある。

あのとき危機感を持っていたから今の良い状態がある、と思えるときがある。

そう思えるのなら、苦しみのみが充実を与えてくれる、ということの意味も、なんとなくわかる。

同時に、いまの自分の現状に感謝して幸せを感じるべき、普通であることが幸せ他人の芝生は青い、いまの自分を成立させている多くの諸条件は奇跡的なもの、というのもわかる。

どっち、ということはないですけど、どっちに実感があるかというと、これは人や場合によって異なってくるとは思いますが、苦しみのほうに、肩入れしやすい実感はある。

 
2005 | 01 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 |
2008 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 08 |
2016 | 01 |