相貌の転換

四三六
もし相貌の転換(例:アヒル⇔ウサギ の絵、老婆⇔若い女性 の絵)がないとすれば、存在するのは見方だけであり、かくかくあるいはしかじかに見るという行為(〜として見るという行為)は存在しないことになるだろう。


四三七
これは不合理なことだと思われる。あたかもわれわれは、「もし私がもっぱら石炭だけで暖をとり、他のものは決して使わないとすれば、私は石炭ですら暖を取っていないことになる」とでも言いたかったかのように見える。
しかし、こうは言えないだろうか。「一つの実体しか存在しないとすれば、われわれは<実体>という語の用法をもたなかったであろう」、と。だが、それはきっと、<実体>という概念は<実体の区別>という概念を前提している、ということを意味しているのである。(ちょうどチェスの王様という概念がチェスの指し手という概念を前提し、また色という概念が様々な色という概念を前提しているように。)[第二段落、『断片』三五三]


ウ『心z理学の哲z学2』(カッコ内の補足はzhqh)

この箇所は他の箇所に比べてわかりやすすぎて不思議な印象を与えられる。抜き書きをするとわかりやすい箇所だけになってしまう。


相貌の転換、「〜として見る」ことが問題となる流れを見失ってしまいました。また「こう考えた」と「入門」を読むべきかもしれない。いつまでたっても入門書から先へ進めない。入門書が全然入門じゃなくて最終的な目標にすらなってきてます。

「経験による真偽の決定は、命題の意味が確定した後の二次的な仕事に過ぎない」

そういうことは現実には起こらない、ということが、思考には脳が必要であることの証拠である、と考えそうになりますが、そうではなく、そういうこと以前の、何が思考と見なされるかの基準の問題

ちゃんと読書メモすべきだなあと思いました。

2008年ベスト10

今年もあまり映画を見ることができなかった。
1.『ホウ・シャzオシェンのレッzド・バルーン』
2.エリッzク・ロzメール『パzリのラzンデブー』
3.吉田『日z本脱出』
4.巳z喜男の何か
何を見たか全然覚えていない……。