怒りが必要な場合

つながれた犬が定期的に電気ショックを与えられる、ことに似た状況が人間に起こると、そうした不当な状況を当然のこととして受け入れる、ということが起きる。
理不尽なことはいろいろ起こる。
何が不当なことで何が当然のことなのか、はっきりと判断できるだろうか。
それはできる。
不当な状況を理解することと怒らないことは異なる。
怒っても何も解決しない。理解は解決に繋がる。
怒りは自己肯定だが、怒りを伴わない自己肯定も当然ある。
ただ、必要な自己肯定感を持てない時、怒りがその助けになることは、あるかもしれない。

好きという気持ちが好きでいてあげたのに、に変わるとき

好きという気持ちに相手への応答が全く含まれないことは可能か。
まったく好意を見せない相手を好きになることは可能か。
(まったく悪意を見せない相手を嫌うことが可能か。)
応答が少しはあるからこそそれに感染するのであり、そこに、やってあげた、という気持ちが入ってしまうのではないか。
アイドルを好きになる場合は、それがお金ということになる、のかというとまた違う感じもある。
アイドルはかわいさとか歌とかダンスなどその活動すべてが、好きになってください、ということを本質としている、のか?
景色や気候を好きになるように、人を好きになる場合、も同じか。

撤回できる批判、受け入れられる批判

批判も賛成も本当にはできない、もしくは、批判対象も賛成対象も批判や賛成を受け付けない独自のものがある。
とはいえ、批判や賛成自体もまた、独自の存在理由がある。
批判は何のためにするのか、賛成は何のためにするのか、を考えると、どう批判や賛成すればいいかわかる。
批判も賛成も、絶対に、またはできるだけ、感情を混ぜないようにすべきだ。
批判された側が、「あっそうかなるほどな、じゃやめるわ」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような批判であること、それが大事。
むしろそれだけが批判を、批判する意味のある批判とする。
(もちろんそうではない批判もあるだろうとは思いますが。)
批判側も「あっまちがってたわ。やっぱこの批判やめる」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような批判であることが大事。
言ってしまったからもう後には引けない、そんな批判はしないほうがいい。
批判対象を道徳的な悪に固定し徹底的におとしめる、そんな批判しか見ない。
そんな批判は怒りや憎しみしか生まない。怒りや憎しみを増やすことが目的なんだからそれでいいよ、という人はあまりいないのでは?
これは、批判だけでなく、賛成の場合も言えることです。
賛成された側が、「そうかもしれないけど考え変わったからやっぱやめるわ」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような賛成であること、それが大事。
賛成側も「あっまちがってたわ。やっぱこの賛成やめる」と何のためらいも躊躇もなくすぐ思えるような賛成であることが大事。
賛成対象を道徳的な善に固定し徹底的に人格的にほめあげる、そんな賛成が多い。多くはないかな。
そんな賛成は喜びや連帯感しか生まない。喜びや連帯感を増やすことが目的なんだからそれでいいよ、という人はあまりいないのでは?