なぜ人が悪い理由を考え続けてしまうのか

ってわかり過ぎるほどわかっているのでした。
普段の社会生活下では自分が圧倒的な劣位に置かれそれを意識させられている・意識している、からで、せめて自分の考えの中では他人より優位に立ちたいという気持ちがあるからなのではないか、と思います。
しかし自分が優位に立てる場面、自分の優劣を意識しないですむ場面、なんてそれほど多くはなかったとしても不思議なことでも不当なことでも特殊なことでもなんでもないし、自分が劣っているからこそ、世の中にはいろいろ学ぶべきことがあるなあ!よーしがんばろう!と思えばいいのだから、問題は、なぜそう思えなくなるしかないのか、というところにあります。

感情は自分に敵対するものとして表れる

というのは嘘で、楽しかったり嬉しかったりする感情は自分に味方しているから、怒りや悲しみのような嫌な感情はおきてほしくない気持ちがある、という程度のことなんだと思います。
正しいこと、考えればこうすべきだとわかること、こうした方がいいと思えること、そういうことがある場合でも、感情によって、それをしたくない、するべきでない、そうすることが良いとどうしても思えない、そうした方が良いことだと気付けない、ときがあります。
というより、多くの場合、ほとんどすべての場合が、そういうものなのかもしれません。
本当に嫌だけれどする、カッとなったけど本当にすべきことをする、ということなどない、のではないでしょうか。
ないことはないですね。そういうときはある。
いや、カッとなったけど本当にすべきことをしたとき、すでにもうカッとはなっていないのではないか?
おしゃかさんかだれかが、相手が自分に対して怒りでふるえそうなぐらいのこと(刃物で体を切り刻む等)をしてきたとしても、怒りを感じてはいけない、淡々と相手のためになることをしなさい、というようなことを言ったそうですが、たとえ無理だとしてもそう言わなければならないくらい、感情だけに目が向いていると、絶対に自分がこうすべきだとかこうしたほうがいいと思っていることができなくなる。後悔するようなことをしてしまう。
「なんだよ」と思うともう反論することばかり考えてしまいその人が本当は正しいかもなんて考えもしない以前にどうでもいい、ただただその人が完璧に反論され屈辱にまみれ嫌な気持ちを味わい家に帰ると家が火事で驚き消防車呼びに走り出したら通りかかった車にひかれて死んでも一片の憐憫も感じないどころかそうなってほしいと望みすらする。「なんだよ」と思ってしまうことが間違いでその人が正しいことを言っているとしてもそんなことはどうでもいい、となる。
考えたり言ったりする内容も同じで、怒りや悲しみが持続していると、その感情のままにずっと考えを組み立て続けてしまうので、普段あまり怒りを感じていない時でも、そういう考え方や考えたことの堅固さ巨大さから逃れることができず、その考え方を強化していき、完全な嫌な人の出来上がり、となってしまう、ということがあるのではないか。嫌な人というより、何をするにも考えるにも言うにも、感情に起因することしかできず、まっすぐに目的を達成する(自然現象を理解する)、ということができなくなってしまっている人、ということになるかもしれない。
今はそういうことはしないですけど、小さいころは、「その人が悪い理由」を、始まりはそれなりの切実さがあったとはいえ、ずっと考えてしまうときがあり、考えるうちに癖のようになってきて、別にそこまで責めなければならない理由なんてなにもない人なのに、楽しい思考の遊びのように責められるべき理由を延々と考え続けてしまっていたときがあり、ハッと気づいてやめたのですが、いまではそういうことはないとはいえ、そういう状況に陥り続けているのではないか、と考えることがよくあります。
ではなぜ私は、どんな人でもその人の良さや楽しさを発見し見つめ続ける、ような人にはならず、人の悪さだけを見つめそれに対し怒りを感じ延々怒っているような、そういう人になってしまうのか。不幸ならその分余計に、幸せや楽しさを求めるものなのではないのか?
幸せや楽しさも感情だからそれに流されすぎるとだめなんだろうか。楽しいからいいんだろうか。
仏教は無感動状態を理想としているみたいな話は何度か見たことがあります。
完全に感情から自由になれないからこその人間だけどむしろ感情をうまく利用してやろうという方向まで行くスポーツ選手的メンタルトレーニングはそれはそれで感情とは違う別の何か(もしくは怒りや悲しみとはまた異なる感情)に引きずられているような気もします。そうでもないか。