マウスパッドの上の戦争。 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-07-29 石野卓球に電話でマジギレ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

石野卓球電話でマジギレして説教したことのあるKさんからメール。(そのことについてはかなりヤバいネタなのでここでは書かない。ただ、そのことが今日、この日記に書いたことと無関係ではないのは確かだ。気になる人は僕に会ったときにでも聞いてほしい。ちなみに彼女インドねこぢると同じドミトリーにいたこともあるそうな。)

彼女は8月にある宴というレイブに行くらしい。彼女だけではなく何人も今年の夏にある大小いくつものイベントに誘ってくれるのだけれど・・・・どうも最近僕はレイブクラブイベントに関して飽きてしまったというかかなりしらけてきてしまって、どこに行っても似たような風景と人々しかいないことに気づいてしまい、フロアーの加熱したクラウドの中にいても自分ひとりがぽつんと取り残されたようで、何一つ心の琴線に触れてくれないのが今から簡単にそれもかなりの確実さで予想できてしまうようだ。昔だったらゆっくりと主体や意識が音楽や周囲の環境に包まれて気持ちよく流れ出していってくれたのに、今ではそれは冷たく凍り付いて縮こまっている。気持ちよく僕を包み込み、洗い流してくれたアトモスフィアがあっという間に風化してしまい、ガサツで刺々しい大気へと変わり、意識にとってそぐわないものになってしまう。踊っている人々の熱狂というものがどうしてもウソくさく思えてしまって、ただ、一人だけ冷静にそれを観察していることだけがなんとなくやりがいのあることのように思えていて、そういった観察と感覚のフィードバックの中に、時折、冷静さを通してそこから離れていくちっぽけな情熱のような流れがあったのに、今ではそれさえもなくなってしまって、もう食指も感性の触覚もイベントに対してはあまりピンともこないし、おっ、とも思わない。

倦怠期だな、と、思う。

そろそろセカンドサマーオブラブしらけ世代が生まれてもいいころなんだろうなあ。ポストレイブクラブしらけ世代っていうかレイブネアカ、クラブネクラっていうか・・・・まあ、イギリスなんかのベッドミュージック的なテクノおたく的なモノにそういった能動的な反権力とか身体の解放といった流れに対抗する流れもあるんだろうけど、そういった組み合わせさえももう、あたりまえになってしまって反抗も抵抗も復興も回帰も新鮮さもごたまぜになってしまってすべて消えうせていったような・・・・真っ白な心境だ。

同じことの繰り返しばかりしているような気がする。

それでも、今年のフェスには何万人という人々が集い、ネタを大量に消費し、ピースとラブを建前にしたバカ騒ぎを繰り返すんだろうな。

はあ。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=20778206&owner_id=254879


こうやってバリバリイケイケなレイバーって30年経っても変わらないのかなあ。だったらうらやましい。と、言えるのだろうか?

すでに60年代のサイケデリックカルチャーの衰退と90年代半ばの復興、それに50年代のビートニクスや、それ以前のシュールレアリズムダダイズム表現主義や果てはルソー自然に帰れ!!といった言葉まで・・・・近代化なんて常に反近代化とともにあったし、あの、ナチスからオウムまで抑圧された精神の解放をさけんでいたんだし・・・・

結局は権力と資本に反抗や抵抗という形を示してはいても、それらの存在によって規定されていることには変わらないんだから、反ー権力はその存在と規定性を権力に依存するってわけだ。権力の映し出す鏡。左翼ヒッピーバックパッカーもレイバーも資本主義と高度情報社会の生産物で、決してそこから離れて生きていくことはできないということの裏返しの主張でしかない。ちょうどバックパッカーが「日本なんかでやってけない」とか「公務員や会社員なんかありえない」とどんなに主張しても、彼らはそういった人々がこつこつ支え続ける「強い円」という経済的下部構造によってこそ初めて海外に旅行できるように・・・・その主張がヒステリックであればるほど、それはその主張の正反対の状態に彼らがいることの証明でしかない。



もちろん、そういった現状認識をベースに反抗や抵抗なんてことをやっていけばいいんだろうけど・・・・ただ、個人的な経験の積み重ねの感想なんだけれど、ヒッピーやニュエイジャーというのはどうも現実に対して楽観的すぎて、またレイバーやクラバーにはあんなにも壊れた人たちが多いのに、彼らはそういった自分自身を客観的に認知しないで音楽ドラッグの生み出す諸所の効果である、夢や幻のようなイメージコミュニケーションに自閉して、外に出て行かないような気がしてならない。はっきりいえばドラッグの使用や音楽の変態性に耽溺したコミュニケーションを前提にしているのに、彼らの主張は「反戦暴力反対、戦争反対自然にやさしく、よりよい世界を」となっていることの矛盾・・・・・薬をやらないと「自然」が理解できないお前は「不自然」だろ!!みたいな・・・薬物によって異常な精神状態にならないと自然に回帰できないというパラドックス・・・・・そしてその特異なコミュニケーションに自閉することによって他のトライブから区切られるトライブ集団。


この点はアムウェイニュースキンと大して変わらない、レイバークラバーといったトライブのコミュニケーションが同じ趣味、趣向の人間間に自閉する傾向があり、そのキャラクターや文化がいかにワールドワイドであってもマックのようにどの国でもだいたい同じデコレーションや作法を、そしてそのマナーや作法に縛られた同じようなタイプの人間を大量生産することに縛られているなら・・・・レイブクラブカルチャーがグローバルな資本主義の新製品であり、それがグローバリゼーションのもたらした疎外感を埋めるための新しいアンチグローバルな視点のグローバルな癒し系イベントでなくて、他のなんだと言えるのだろうか?エクスタシーガンジャLSDの銘柄やブランド!!はルイ・ヴィトンのバッグのニューラインであり、マックハンバーガーの新しいセットメニューの組み合わせとどこが違うというのか?

オリジナルなヒップホップがあんなにも貧困とドラッグに対して憎しみとラブコールを歌い上げ、裕福になることのへあこがれを貧困の証明とし、札束と宝石と美女にまみれたギャングスターであることを隠しもしない泥臭い人間性の方がまだいくらかマシなのではないだろうか?




以下 ジャン・ボードリヤール 1970「消費社会神話と構造」非暴力サブカルチャーより引用 「」は著者のつけたし。


ヒッピーと彼らのコミューンは、経済成長と消費の過程に真にとって変わることができるだろうか?それはこの過程を補完する逆転されたイメージではないのか?社会秩序全体をやがて転覆するであろう「反社会」なのか?それとも秩序の退廃的徒花(あだばな)にすぎないのか?秩序が姿を変えただけのものを、秩序の破壊と取り違える過ちをここでも犯してはなるまい。

「生きて愛するための時間を僕らは持ちたい。花、あごひげ、長髪、麻薬、そんなものは僕らの本質ではない。ヒッピーであること、それは何よりもまず人間を愛することだ。差別意識のない新鮮なまなざしで世界を見つめようとする者、生命を尊重し愛することのできる非暴力主義者。権威よりも自由を!!生産より創造を!!競争より協力を優先させる、真の価値と真の規準をわがものとした人々。原則として世間が何を言おうと自分が正しいと思うことをいつでもどこでも行うのがヒッピーだ。ただし、絶対に人を傷つけてはならない」

西欧世界では、ヒッピーは早速人々の話題の中心となった。未開社会が大好きな消費社会は、彼ら風変わりで無害な植物群として消費社会フォークロアに仕立て上げてしまった。だが社会学的見地に立てば、彼らも結局のところ「富裕な社会のぜいたく品の一つ」にすぎないのではないだろうか?「東洋精神主義と幻覚剤の常用を通じて現代社会の一面を強調することしかできないはみ出し者」ではないだろか?

彼らは消費社会のメカニズムによって条件づけられている・・・・彼らのコミューンの純粋ではなばなしい魅力の源泉である「退行性と幼児性」は、言うまでもなく現代社会が各個人に押し付ける無責任子供っぽさの賛歌とその反映である。・・・・彼らは一見アノミー的なようだが、実はすべてを様式化してしまう現代社会に支配的なあらゆる構造的特徴を保存しているのである。




やーれやれ。である。

30年以上前に書かれたテクストが今でもすんなりときれいに読めるっていうのは皮肉な感動でしかない。時代も社会構造もそれほど変化していないということなのだろうか?時代は60年代に近づいているのだろうか?


少なくとも、僕はもうレイブクラブカルチャーに期待はしないけれど、それらが変質することを待ってはいる。結局そこにあるのは資本制と欲望との激しいぶつかり合いだからだ。秩序はカオスなしには成り立たないし、カオスは秩序なくては存在できないと思う。そして無限定で超越的な感性を生み出すものは政治と性と音楽ダンス、そして宗教であり、それらすべての部分的な融合なのだが・・・・そのどれもが資本主義にどっぷり漬かり込んでしまって歪みきってしまった現在・・・・

僕がミクシのコミュやコミュニケーションを通して収集し、編集する情報の多くがこれら超越的で無限定的な気持ちよさ、心地よさに通じたもの・・・・そしてその獲得の失敗とそれからくる苦痛・・・・そういった情報を収集し分析すること。そのために僕はミクシという媒体を活用し、その情報の編集結果をフィードバックすることによってさらに情報を収集する。

なぜ人々はこれほどまでに何かに魅せられないと生きていけないのだろうか?こんなにも必死になって「魅せられること」を追求し、追い求め、時にそのせいでみじめにも社会から浮き立ち、排除され、苦しみ、また、死に絶えていくのだろう?

それだけはキモいおたくだろうが、ゴス趣味だろうが、レイバークラバーだろうが、右翼だろうが左翼だろうが、そしてニュエイジャーや宗教家、メンヘラーでさえ同じなのだ。





変態と呼ばれる人々の変態の記録。

Twitter / ziprockers