真面目であること


今年もまた終戦記念日が近づいてきました。


かつて歴史の授業で、「第二次世界大戦の時に、日独伊の三国は枢軸国として同盟を結んで戦ったが、イタリアは1943年には早々に連合国側に降伏して脱落した」と教わりました。

イタリア軍の兵士は、真面目に戦闘を行わず、ワインを飲みながらきれいなおねえさんを追いかけてばかりいたので、負けたんだ」という話も聞きました。

だから、私はしばらくの間「イタリアは実に不真面目な情けない国だ」と思っていました。他の生徒や教師にも、そういう気分があったように思います。

しかし、今の私からすると、最後のぎりぎりまで真面目に戦闘をやり通そうとした日独の兵士よりも、真面目に酒や女性を愛したイタリアの兵士のほうが、人間としてずっとまともに見えます。


「真面目」には、次の意味があります。

(1)本気であること。真剣であること。

(2)誠意のこもっていること。誠実であること。


(2)はともかく、(1)の場合は、「何に対して、本気・真剣であるのか」を誠実に考えてから行動を起こす必要がありそうです。

「戦闘」などは、お互いに「真面目に」すべきことではなく、どうしても戦わなければならない状況であっても、殺すところまでやってはいけないと、私は考えます。


昭和19年、日本の海軍は、ロケットもしくはジェットエンジンで推進する小型の飛行機の機首に大型の爆弾を搭載し、搭乗員が操縦して敵艦に体当たり攻撃を行う特攻兵器「桜花」を開発しました。そして、これを本土決戦の有力な兵器と考え、大量配備を図ろうと750機が生産され、うち55機が作戦に投入されたということです。

「国民が全滅しても、国だけは守ろう」あるいは「国も人も滅んでも、自尊心だけは守ろう」などと真面目に考えていると、こういうものを作ります。

ゲリラではない正規軍が採用した制式兵器としては世界に類を見ないこの「人間爆弾」に、連合国側がつけたコードネームは「BAKA BOMB(あるいは単にBAKA)」でした。


「真面目な人がやるBAKAなことほど、やっかいなことはない」という現実も、62年前に終わっていてくれたらよかったのですが、人類の進歩ははなはだゆっくりです。


(クロダ)