「僕の幸せな幸せな子供時代、そのにじゅうろく」


 詩瑠の容態が明らかにおかしかった。さっき点滴を打ったばかりだというのに、元気になったばかりだというのに、一時間もしないうちにこんなに疲弊してしまうだなんて。おかしい、やはりインフルエンザか何かではないのだろうか。いや、インフルエンザならまだいいが、もし何か重い病気だったら。やはり先生は信用ならない。こんな事なら、もっと大きな病院に連れて行くべきだった。僕は自分の思慮の足りない行動に激しく後悔した。
「お兄ちゃん。ごめん、ちょっと、私、変になっちゃった、見たい」
「言うな詩瑠。今、父さんと母さんに連絡するから」
「ねぇ、お兄ちゃん。私、さぁ……」
 その後の言葉は掠れて聞こえなかった。息苦しそうにむせ返る詩瑠の背中を撫でて、僕は彼女を無理やりに着替えさせてソファーに寝かせると、廊下の吐瀉物をそのままに、二階へと上がって毛布を持ってきて彼女にかけた。そして、改めて吐瀉物を雑巾で拭うと、電話を取り、壁に張り付けてある父と母の電話番号を見た。今日は観鈴の仕事が忙しいと言っていたから、きっと母は電話に出れないだろう。となると、連絡をするのは父の方が良い。
 父の携帯電話の番号を打ち込む。ダイヤルが三回鳴ると、まるでそれを狙い済ましていたかのように、冷静な父の声が電話から聞こえてきた。
「もしもし、私だ。学校はどうした、今日は平日だぞ?」
「いや、そのね、詩瑠が昨日から熱を出しててさ。ちょっと辛そうだったから、母さんも居ないし、僕が看病してやらないとと思って」
「詩瑠が熱を。そうか、それはご苦労だったな。迷惑をかけた」
「良いよそんなの。それよりも、さっき病院に連れて行ったんだけど、町谷外科に。過労ってことで点滴を打ってもらって、一時的に調子は良くなったんだけれど、一時間もしないうちにまた調子が悪くなっちゃってさ」
 電話の向こうから重苦しい空気が伝わってくる。明らかに、父の様子が変わった。どうやら、無事に事態を飲みこんで貰えたらしい。
「夜にはそっちに戻る。母さんも連れて行く。それまでに、お前はタクシーで詩瑠を市民病院に連れて行け。診察結果が出たら私に知らせろ」
「わかった」
「あと、詩瑠は近くに居るか、居たら少し代わってくれ」
 居るには居るが、息は荒くとても話せるような状態ではない。ありのまま詩瑠の容態を説明すると、そうかと父さんは深刻な声色で呟いて、じゃあなと電話を切った。短い会話だったが、話すべきことは全て話せたと思う。
「詩瑠。お父さんが市民病院に行けってさ。今からタクシーを呼ぶけど、大丈夫だな、耐えられるな?」
 耐えられないと言うなら、救急車を呼んでも構わないと、そう思って詩瑠に聞いた。気丈な詩瑠は顔を真っ青にしながら、にっこりと笑って。静かに静かに、その小さな頭を横方向に振って、耐えられないと呟いた。
「痛いの、お兄ちゃん。私ね、私の体ね、最近おかしいの。ずっと筋肉痛がとれないし、骨が軋むの。お兄ちゃん、私、私、大丈夫なのかなぁ……」