空中キャンプ

2018-07-01 映画『ブリグズビー・ベア』

『ブリグズビー・ベア』
ストーリーは更新されなくてはならない

f:id:zoot32:20180701113128j:image

1981年3月30日、ワシントンDC。25歳の青年ジョン・ヒンクリーは、その年に大統領へ就任したばかりのロナルド・レーガン暗殺を試みた。ヒンクリーはかねてからジョディ・フォスターのストーカーであり、大統領の暗殺に成功すれば、彼女に認められると考えていたのだ。いったいどのような理由により、彼が「大統領を暗殺すれば、意中の女優が振り向く」と、何の脈絡もないふたつの事象を関連づけたのかはわからない。しかしヒンクリーはそのような奇矯なストーリーに沿って生きていたのであり、レーガン大統領暗殺未遂事件が私たちに独特の憐憫を呼び起こすのは、犯人がかかるみじめな物語のなかでしか生きられなかったことの空虚さゆえである。

私たちはみなストーリーに沿って生きている。人は何らかの物語のもとでしか生きていけないからこそ、誰もが内部にストーリーを持ち、日々修正をおこない、更新していく。私たちの生を稼働させているのは物語なのだ。とはいえ、第三者からは内心など不可視であり、他者のストーリーが暴走することを防ぐ手段も限られているため、ときに個人の脳内に紡ぎ出される物語はまったく非現実的ででたらめな方向へと脱線してしまう。それが社会と折り合いのつくレベルであればまだいいが、先述したヒンクリーのようなケースにもなりかねない。われわれはストーリーがなければ生きていけないが、それは同時に危険をはらんでいる。あまりに現実と乖離したストーリーを生きる者は警戒されるのだ。では、われわれはいかにしてよき物語を生きることができるのだろうか。

『ブリグズビー・ベア』は、人びとがストーリーに沿って生きていくという営為を軽快な語り口で描きつつ、そのダイナミズムを真摯に追求する作品である。生まれた直後に誘拐された主人公は、誘拐犯を両親と信じ込み、25歳まで地下室で軟禁されて育った。軟禁中の彼は、クマの着ぐるみが活躍する教育番組「ブリグズビー・ベア」をこよなく愛し、その作品世界の研究に没頭する日々を送っていた。それは閉鎖的ではあるが、満ち足りた時間でもあった。警察の手により現実世界へ帰還した彼は、ほんらいの両親、妹とともに暮らし始める。それは、主役を演じたカイル・ムーニーが説明するように「世界がひっくり返る(His whole world filps upside down)」*1 ような経験であった。彼が抱く「ブリグズビー・ベア」への愛は、周囲に理解してもらえない。忌まわしい誘拐の記憶と結びついた教育番組を拒絶する家族と、変わらずに物語世界を愛する主人公のあいだで軋轢が生じる。これが本作の主要テーマである。「僕はこの世界ではアウトローだ」と述べる主人公は、「ブリグズビー・ベア」が危険思想とみなされることを承知している。彼は愛する「ブリグズビー・ベア」を忘れて前進するべきなのか。そもそも正しい物語とは何か。人がどのようなストーリーを生きるべきか、他者がその是非を判断することはできるのか。

こうしたあらすじは、ただちにいくつかの類似作品を連想させる。人工的な環境で育った主人公が、外の世界が存在することに気づくというあらすじは『トゥルーマン・ショー』('98)的であり、自分の生きていた世界がフェイクであったと気づく展開は『マトリックス』('99)と同じ構造である。これはたとえば、シャマランの『ヴィレッジ』('04)なども同様だ。また「あるひとつの物語を生きる人」にまつわるプロットで言えば、『ラースと、その彼女』('07)のように、人形を恋人であると信じる主人公と、その設定を受け入れようとする周囲の様子が例として挙げられる。『グッバイ、レーニン!』('03)に出てくる母親のように、強く社会主義を信奉しながら、病気で昏睡しているあいだに東西ドイツが統一されてしまうというコメディ的展開もそこに関連づけられるだろう(周囲は東ドイツがまだ存在しているものとしてふるまい、母親のストーリーを守ろうとする)。また『勝手にふるえてろ』('17)は、中学時代の同級生を10年間想いつづけた24歳の主人公が、その長きにわたる淡い妄想がついに終わった後の世界を生き始める様子を描く。これらはみな「ある物語を生きていた主人公が、物語の終焉を悟り、(ある種強制的に)あらたな人生を歩み始める」という同種の鋳型を持つといえる。

おもうに、前述した過去作品群に共通するのは、「成熟とは断念である」という認識であった。『ラースと、その彼女』において主人公が、恋人であった人形のイマジナリーな死を受け入れるという苦い結末が示すように、現実と折り合いのつかない物語に別れを告げ、現実に見合ったタイトな物語へと着地するプロセスが共通していた。『ブリグズビー・ベア』もまた上記作品に連なるプロットではあるが、彼は「ブリグズビー・ベア」という物語を高く掲げて世界へ参入することに成功している。断念とはまた違ったかたちで、彼は前進するのだ。主人公は物語をみずからの手で完結させることを選ぶが、かかるプロセスにおいて主人公は確実に成長している。

映画製作の作業が否応なく他者性を持つことは、主人公が成長した要因だろう。気のいい警官や、病院で知り合った友人、かつて番組に出演していたヒロイン役の再登場などによって、彼の作る映画は確実に社会と混じり合っている。しかしそれ以上に、これまでセット撮影しかされていなかった「ブリグズビー・ベア」が野外でロケ撮影されていること、多数の観客がいることの意味は大きい。物語が世界に開かれる瞬間が、フィルムにしっかりと刻印されているのだ。これまで自分を培ってきた物語を肯定しつつ、同時に、それをみずからの手で終わらせること。そのプロセスが、開かれた環境のなかで進んでいくこと。それこそが『ブリグズビー・ベア』の美点である。苦い断念として物語を破棄するのではなく、自分を培ってくれた至上の価値として「ブリグズビー・ベア」を称揚しつつ、気がつけばそれを乗り越えてしまっているのだ。そして奇跡的なことに、この「乗り越え」は何も排除しない。かつての誘拐犯である男すら取り込みながら、主人公はあらたなストーリーを語ることに成功してしまう。

おそらく、よき物語とは更新されていく物語のことなのだろう。生きていくためには、同じ場所に停滞しないストーリーが求められる。主人公は創作を通じて、みずからの物語を更新することに成功した。更新されなくなった物語に固執するのではなく、よりよいかたちへ変化させていくことができた。創作とはまさに、内なるストーリーの更新なのだ。ゆえにそれはかけがえのないものだ。私たちは生きるための物語を日々変化させていく必要があり、そうした営為こそが人びとにより豊かな生をもたらす。そして観客は、「さあ、あたらしい物語を作ろう」という主人公の新鮮な意欲に触れ、ただ涙を流すほかないのである。

※1 https://www.youtube.com/watch?v=liKXpyhUebM

Twitterの『ブリグズビー・ベア』評 https://twitter.com/campintheair/status/1010723024775962625

2018-04-13 「『勝手にふるえてろ』ファンブック 絶滅したドードー鳥編」

「『勝手にふるえてろ』ファンブック」から「リアルに召喚 『勝手にふるえてろ』を見たふたりの女性との対話」試し読み

f:id:zoot32:20180410080257j:image

映画『勝手にふるえてろ』の同人誌、「『勝手にふるえてろ』ファンブック 絶滅したドードー鳥編」発売中です。たいへん好評いただいております。ついにベトナムに住む松岡茉優ファンからも注文が入り、インターナショナルな同人誌としてがんばっております。

内容の紹介、ご注文はこちらから

https://campintheair.booth.pm/items/790152

今回は、チラ見せ第2弾ということで、いちこさん、ひらりささんに話を伺ってきた記事、「リアルに召喚 『勝手にふるえてろ』を見たふたりの女性との対話」のなかから、一部を抜粋いたします。とてもたのしい鼎談となっております。読んでみてくださいね。



恋愛経験がない女性

ひらりさ 本当にイチと付き合えると思ってたんですかね、ヨシカは。

伊藤 うーん、ヨシカは具体的な恋愛経験もないし、ひとまず会う段取りだけつけてみたって感じじゃないかな。

いちこ 付き合いたいというよりは、「僕のことを本当に理解しているのは君だけだ」みたいな言葉を引き出したかったのかなと思ってます。

ひらりさ だから、意外にイチが乗ってきちゃって、ヨシカに覆いかぶさってきて「ムリ!」みたいなこともありえたでしょう。そうじゃないからこそ、おもしろい作品だなと思うんですけど。

いちこ 精神的なつながりだけでよかったっぽいですよね。

伊藤 ヨシカはあまりセクシャルな感じがない。処女で恥ずかしいというのも、あくまで世間体、周囲への体面の話であってさ。

いちこ そうですね、恋愛経験がないことは、自分にとって欠けているパーツのひとつだと思っているのかも。

ひらりさ うーん、私はちょっと違う意見です。交際経験がないまま年齢を重ねることは、かなり重い悩みなんじゃないでしょうか。言ってみれば、大学受験にずっと浪人しつづける感じですよね。

伊藤 はい。いい比喩。

ひらりさ それって、世間体といえば世間体なんですけど、めちゃくちゃしんどくないですか?(笑)実際、私自身がそうだったのですごくわかります。女子校育ちなんですけど、高校までは同じマインドで育ってきた友人たちが、どんどん男性と交際していって、何かのステップを踏んでるわけですよ。だから、来留美がリアルな感じでイケメン同期と交際を開始したのは、ヨシカにとって結構大きいことで、暴走のきっかけだったと考えています。私は『勝手にふるえてろ』は百合だと思っているんですけど、映画だとより際立っていた。ニが現れたことじゃなくて、来留美が変わっていくことが、ヨシカが変化していく直接的な要因だと「解釈」しています。もう完全に自分自身の実感でしかしゃべってないのですが、彼氏が欲しい瞬間って、女友だちに彼氏ができて、遊ぶ相手がだんだんいなくなっていくときなんですよ。

伊藤 なるほどねえ! そうかそうか。

ひらりさ それってめっちゃ身勝手な動機ですよね(笑)。必然的にすべてが身勝手になっていく。

いちこ ヨシカが来留美の寝顔を見ながら彼女を褒める場面がありますけど、きっとヨシカにとって来留美は自慢の友人であると同時に、憧れというか、自分のなかの理想の女の子的なものだったと思うんですよ。だからこそ、彼女とは対等でいたいという気持ちもあったんじゃないかな。

伊藤 うーん、そこは気づかなかったなあ。



恋はどのように終わるのか

ひらりさ 私は、ヨシカみたいな挙動はわかるんですけど、イチみたいな、めちゃくちゃ長く好きみたいな人はいないんです。ただ、ひとつ連想した作品があって。水城せとなさんの『失恋ショコラティエ』っていうマンガ、読んだことあります?

伊藤 いや。どんな話なんですか?

ひらりさ 男性主人公の爽太が、「サエコさん」という女の人に長い片思いをし続け、その原動力によってショコラティエとして成長していくという話でして。爽太は一話でサエコに告白して、OKをもらうんですよ。それでバレンタインに一生懸命チョコを作って渡そうとするんだけど、「元カレとヨリを戻した」「こんな本気チョコもらえない」って断られてしまうんですね。爽太は追いすがるんだけど拒否されて、もうその時点で失恋してるように見える。しかし物語はここから。爽太は失恋のショックでやけっぱちでフランスへ飛んで、天才ショコラティエになって帰ってくるんです。

伊藤 おおー。

ひらりさ 日本で自分のお店を立ち上げて、もはや彼は何でも手に入るんだけど、それでもサエコさんをずっと追いかける。その関係性を九巻までかけて描くんですが、印象的なのが八巻のあとがき。水城さんが、「この作品は昔自分が見たフランス映画がヒントになっている」と語っていたんです。ある女と不倫関係になって家庭も人生もめちゃくちゃになったのに結局別れた男が、その後しばらくして女と再会したときに、「あれから一度だけ彼女を見かけた、ごく普通の女だった」と独白して終わる映画があるそうなんですね。その映画にヒントを得たんだと説明していて、私はなるほどと納得しました。本当の「失恋」──爽太がサエコが「普通の女」だったと認める瞬間は、九巻で訪れるんです。

伊藤 幻想が完全になくなったということだ。

ひらりさ イチに対するヨシカの気持ちを追っていたら、『失恋ショコラティエ』と似た構造かも、と思って。ヨシカの場合、フラれてはいないし、実際に付き合って振られたわけでもないんですけど。

いちこ たしかにそうですね。私も『失恋ショコラティエ』読んでるんですが、言われてみればその通りだな。誰かを好きなのって、すごい楽しいんですよね。たぶん、ヨシカはめっちゃ楽しかったと思うんですよ。これは原作の方の印象ですけど、ヨシカには、自分はイチとつながっていて、彼の理解者でもあるという自負があった。反省文の文字をひとつだけ変えるみたいなお遊びをつづけてくれていたりとか。でも、つながってると思っていたからこそ、名前も覚えてくれていなかった、という事実が、好きというエンジンを止めてしまった。

ひらりさ 同時に、そうやって誰かを信奉することは、別にその相手を救わないっていう映画でもありますよね。

伊藤 そうだね(笑)。しかも信奉してるのが、現実のイチというより、イメージのなかのイチだもんね。

ひらりさ でも、そうやって「我に返る」ことはある種の始まりでもある、という描き方が、ニの登場によって示されているのがいいなと思います。イチはヨシカのフィルターを通して描かれているので、現実のイチは実際ニぐらいダサいことをしている可能性もある。それに対して、ニはフィルターがかかっていない状態で描かれているわけですよね。むしろ「キモく見える」フィルターがかかっているかもしれないような状態。だけど、ヨシカ自身も、場合によってはニと同じくらいキモいことをやっていて、彼女はイチとの恋に破れた瞬間に、そういう自分のキモさに気づく。それで、本当にいたたまれなくなる。だからニが許せるようになったのかな? 似た者どうしなんじゃないかなと思ってます。

(同人誌では1万字に及ぶ濃いトークが繰り広げられております)

2018-04-10 「『勝手にふるえてろ』ファンブック 絶滅したドードー鳥編」

「『勝手にふるえてろ』ファンブック」のお知らせと、小説『国外逃亡、紫谷玲奈』冒頭試し読み

f:id:zoot32:20180410080257j:image

映画『勝手にふるえてろ』の同人誌、「『勝手にふるえてろ』ファンブック 絶滅したドードー鳥編」を作りました。3月末から販売を開始しております。この映画を大好きすぎる私こと伊藤が発行責任者となり、たくさんのステキな寄稿者にお声がけして作ったじまんの本です。映画を一度見た方なら、きっと一緒に盛り上がってもらえる内容かと思いますので、ぜひ入手してみてください!

寄稿者(イラスト含む)
いちこ/伊藤潤/伊藤聡/岩本一貴(福岡駅前シネマモード)/植田さやか(株式会社サンリス)/Eika/永車砂羽/ダミー&オスカー(照山紅葉、下井草秀)/ひらりさ/古川耕/宮本彩子

内容紹介と注文はこちらから
https://campintheair.booth.pm/items/790152

嬉しい感想もいただいております!

今回は内容チラ見せということで、劇中の登場人物である紫谷玲奈を題材にした2次創作小説「国外逃亡、紫谷玲奈」の冒頭書き出し部分を掲載します。ご好評いただいております。作者は伊藤聡です。



国外逃亡、紫谷玲奈
(著者:伊藤聡)

 SNSに書かれていた「ミネソタ州ミネアポリス在住」という情報は間違っていて、もう私はミネアポリスには住んでいない。中学時代に引っ越したミネソタにいたのは高校卒業までで、その後ニューヨークの大学に進学した。卒業してからもニューヨークで働いているので、私がミネソタにいたのは四年ほどだ。

 ミネアポリスでの思い出はだいたい苦い。何しろ英語ができなかったし、周囲はみんな身体が大きくて怖かった。隣の家のおじさんは銃をたくさん持っていて、近所の子どもに「俺の土地で悪さをする子どもは容赦なく撃つからな」と宣言していた。戦慄した私は、なるべく隣の家へ近寄らないよう注意していたが、ある日子どもたちのあいだで「おじさんの言う〈俺の土地〉はアメリカ全土を指す」という仰天の新解釈が出回った。このままではあのおじさんにいつか撃たれる。とんでもない場所へきてしまったものだと私はおもった。

 そしてあのプロムという地獄の制度。大人しそうな見た目の日本人女子という立場のせいで私は、第一志望の白人女子を誘って断られた白人男子数名から、プロム直前の駆け込みオファーを受けたものだった。まあまあの屈辱。予備用の女、紫谷玲奈。こうなったら『キャリー』みたいにプロム会場で大暴れしてやろうかとも考えたが、その度胸もなく、私を予備用扱いする男子と手を取り、会場でぎこちないダンスを踊ったものだった。それ以降、男に誘われるたびに「誰に断られて私に切り替えたんだ?」と勘ぐる癖がついた。

 ミネアポリスの暮らしはぱっとしない記憶ばかりだが、ほかに特筆すべきイベントはない。繁華街でプリンスの姿は何度か見かけたけれど、ミネアポリスの住民にとっては特にめずらしくもないできごとで、レア度としては吉祥寺の住民が楳図かずおに遭遇するのとほぼ変わらなかった。

 それでも子どもの対応力ってやつはあなどれず、しだいに英語はどうにかなり、大学進学もわりとすんなり決まった。いまとなってみれば、人生の早いタイミングであの雪国から脱出できたのはよかったとおもう。アメリカ行きが決まった中学生の私は絶望したけれど、もしいま中学時代に戻れるとして、日本であのまま暮らすという別の選択肢を与えられたとしても、私は絶対にアメリカ行きを選ぶ。

 転校後、日本の友だちとはほとんど疎遠になってしまっていたが、ひとりだけ私の連絡先を知っている女の子がいる。中学時代の同級生、綾ちゃん。故郷は捨ててアメリカで生きていくと腹をくくった私にとって、それでも、私の連絡先を知る日本人の友だちがひとりいてくれるという事実はありがたかった。綾ちゃんからメールを受け取ったのは一月一日で、そこには「あけましておめでとう。年末会えなくて残念だったね。スペイン風邪は治りましたか」と、意味不明の内容が書かれていた。

 スペイン風邪?

 私はさっそく綾ちゃんへ返信し、私がスペイン風邪にかかったという話の出どころを訊いてみた。綾ちゃんは、フレンドリーチャットという聞き慣れないSNSのスクリーンショットを送ってきてくれた。そこには、卒業アルバムの写真をアイコンにした紫谷玲奈のアカウントがある。十二月三十日の夜、私のあずかり知らぬところで開催されていた中学同窓会の開始時刻とほぼ同時に、その怪情報は投稿されていた。

 「ショック! スペイン風邪になってしまいました。みんな盛り上がってください!」

 おい何だよこれ。誰かが、私の名前を使って同窓会を主催している。理由はよくわからない。どこかの誰かがこの投稿をしている、という事実にただ困惑する。「それにしても気味が悪いね」と綾ちゃんはいう。まったくだ。紫谷プレゼンツで勝手に会を開くんじゃないよ。

 なりすましアカウントのプロフィール欄には「アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス在住。年末に一時帰国します。久しぶりに皆に会いたいので、同窓会を計画しています。モットーはThe first step is always the hardest.」と書かれている。モットーがダサい。すぐに英語の名言を引用したがる、ありがちなアメリカキャラを押しつけられた屈辱が怒りに変わる。私そんなんじゃない。あの、何かっていうと Stay Foolish とか言い出すやつ、マジでダサい。言ったからには本当に一生バカのままでいろよ。誰かがお前の親の葬式でフラッシュモブやり出しても止める権利ないぞ、ずっとバカでいるってモットーなんだから。

 要するに、紫谷なら勝手に名前を拝借してもいいだろうと低く見られているのだ。プロムのときと同じじゃないか。予備用の女、なりすまし用の女。まったくふざけやがって、またこのパターンだよ。湧き上がる屈辱感。かつてアメリカ行きが決まった後、同級生に「国外逃亡」と陰口を叩かれた暗い過去の記憶がよみがえる。
 私はパソコンの画面を見ながら、ブルックリンの安アパートでひとり憤慨していた。「ムカつく、これ誰のしわざ?」と、私は綾ちゃんにメールを送る。綾ちゃんからの返信には、「これはよくないね。やったの誰なんだろう。でも、みずから幹事を買って出るなんて、ニセ紫谷、意外にそこまで悪質じゃないのかも」と書かれてあった。(つづく)

2017-12-01 2016年、2017年 伊藤聡の仕事

f:id:zoot32:20170107214358j:image

2016年、2017年に伊藤聡が寄稿した書評、映画評、ならびにラジオ出演、トークイベントの一覧です。


通年連載
◆インターネットサイトcakes「およそ120分の祝祭 最新映画レビュー」
劇場公開作品の映画評、月に2回更新。 https://cakes.mu/

2017年

1月
◆小学館「美的」3月号
映画評ページにて、2本の映画紹介。『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』『雨の日は会えない、晴れたの日は君を想う』を取り上げています。

3月
◆ジャド・アパトー『エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方』
映画に推薦コメントを寄せました( http://www.interfilm.co.jp/amyamyamy/ )。同時に、阿佐ヶ谷ロフトで、オフィシャルの公開記念イベント登壇。アメリカの女性コメディアンについて語りました。

2016年

3月
◆3月27日 毎日新聞「昨日読んだ文庫」
書評/ジョナサン・フランゼン『コレクション』(ハヤカワepi文庫)

5月
◆新潮社「新潮」6月号「真に打ち棄てられた者の言葉」
映画『サウルの息子』を中心に、ラウル・ヒルバーグ、クロード・ランズマンなどホロコーストに関して発言する研究者、映画作家に言及しながら、アウシュビッツの表象について考察した批評です。

◆筑摩書房「早稲田文学」2016年夏号「アメリカの嘘つき」
サリンジャー作品における虚言癖の主人公を取り上げつつ、映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』('02)『カメレオンマン』('83)と比較し、アメリカにおける「嘘つきの物語」の系譜について考えています。

8月
◆8月16日下北沢B&Bトークイベント
「緊急開催!『シン・ゴジラ』について存分に語りたい人が集う夜」

9月
◆新潮社「新潮」10月号
書評/J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』(早川書房)
http://www.bookbang.jp/review/article/520863

◆9月10日福岡Rethink Booksトークイベント
「緊急開催!『シン・ゴジラ』について存分に語りたい人が集う福岡の夜」

11月
◆双子のライオン堂「草獅子」Vol.1
書評/L・P・デイヴィス『虚構の男』(国書刊行会)

◆11月5日 新宿ネイキッド・ロフト トークイベント
「俺たちのセス・ローゲンナイト!〜大解剖ジャド・アパトー〜」。アメリカン・コメディを語るイベント。個人的にもジャド・アパトーや米コメディ映画は非常に重要視しているため、有意義なイベントでした。

◆11月26日 TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」
「タマフル秋の推薦図書特集」にて、3冊の選書を行い、番組内で話しました。ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(新潮文庫)、アン・ウォームズリー『プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」(紀伊國屋書店)、エドワード・ケアリー『堆塵館』(東京創元社)をレコメンドしています。
http://www.tbsradio.jp/96408

12月
◆小学館「Domani」2月号
推薦図書ページ(「いつも心に名言を」)内にて、選書を行いました。フィッツジェラルド『夜はやさし』(作品社)、ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(新潮社)、フローベール『ボヴァリー夫人』(河出文庫)の4冊をセレクト。選出コメントも載せました。



書評、選書、海外文学批評、映画批評を中心に執筆活動を行っております。特に、海外文学や映画を題材とした文化論の執筆に力を入れたくおもっています。著書に『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)。問い合わせ、依頼は so.ito.so@gmail.com までお願いします。

2017-03-16 プリン

f:id:zoot32:20170316220906j:image

プリン好きなんです。仕事が終わって、「あー、プリン食べたいな、1日の終わりに」とおもって、コンビニで買って帰る。それを風呂上がりに食べてから寝るんですけど、なんかこう、日によってすごくおいしいと感じたり、普通だなと感じたり、まちまちなんですよね。理由は不明なのですが、プリンをおいしく食べられない日がある。食べてもいまひとつぴんと来ないというか、「こんなもんかプリン」という軽い失望感がやってくるタイミングがある。どうしてこう安定しないのかと、自分にイラっとしつつ、そんな日も一応は義務感で全部食べるんです。ただ、プリンを食べる義務ってよくわからない。プリンってそういうジャンルの食べものじゃないしね。でも半分残して捨てるとかできないし、その義務感のみで残り半分のプリンを食べてる自分ってダサいなと情けなくなってしまう。

その日の体調なのか。昼に食べたものとの食い合わせであるとか、コンビネーション的なものなのか。自分なりに「日によってプリンがうまかったり、そうでもなかったりする要因」を探求しているのですが、解は得られていない。この歳になって、こんな問題が立ちはだかるとはおもわなかった。願いはやはり、安定してプリンをおいしく食べられる自分。これですよね。いつなんどき食べても、うまいとおもえる状態を作りたい。大人が自分の身体を律する、感覚を研ぎ澄ませるってそういうことでしょう。プリンと対峙しても動じない状態。いまそんな自分を目指しています。