2012-02-04
■[映画]『人生はビギナーズ』を見たゼ!
有楽町にて。初日。マイク・ミルズ新作。デザインの仕事をする38歳の主人公と、75歳でゲイをカミングアウトしたその父親。父親はゲイとしての人生を満喫するが、やがて癌に冒され──というあらすじ。とてもすばらしい作品だった。『サムサッカー −17歳、フツーに心配な僕のミライー』(’05)からさらに洗練されたストーリーの語り口にくわえて、魅力的な登場人物たち、随所に凝らされた工夫(時間軸の移動)、遊び心のある映像や美しいカットの数々などもあいまって、ポップで美しい作品になっている。キュートな犬の役どころもおもしろい。
監督の実体験をもとにしただけあり、どうしてもこの物語を映画にしなくてはという切迫した想いや、監督自身の死生観が垣間見える点こそが本作の魅力ではないか。マイク・ミルズは、ユアン・マクレガーに主演をオファーするさい、彼に対してパーソナルな手紙を送っている。それはこのような文章であった。
僕の両親が亡くなった時は、それほど落ち込みもせず辛くもありませんでした。ただ人生というものはあっという間に過ぎ去ってしまうものだという抗しがたい感覚がわき起こりました。そして自分が望んでいたにもかかわらず、まだ味わったことがないすべてのことが必要になったわけです。それは僕にとって、誰かを見つけ出して、誰かと一緒に過ごすことでした。僕は眠ることができず、すぐ何もかも行動する必要があったのです。僕はより面白い男になり、あさましくなり、さらにリスクを負い、意思を持って人生を変えることができました。
父親の死という作品の主題を通して描かれるのは、まさしく「人生とはあっという間に過ぎ去ってしまうものだという抗しがたい感覚」である。主人公は人間関係における失敗を怖れて相手に深く踏み込むことができず、そんな自分の性格を「どうせうまくいかないってわかってるから、ちゃんと失敗するようにする」(I convince myself that it won't work, so then I make sure of it.)のだと説明するが、彼とは対照的に、周囲に奇異な目で見られようともゲイとして自由に生きることを選んだ父親は、死の直前に大きく解放される。こうした対比は映画の主題となる親子関係の描写を支え、父親の死によってしだいに自分を変えていく主人公の表情に説得力を与えていた。こうした経験をへて、あたらしく知り合った女性との関係に飛び込み、結果を怖れずに事を成り行きに任せてみようと考える主人公の精神的な前進には胸が打たれる。
大切な誰かを失うことで襲ってくる悲嘆と同時に、主人公は父親の死によって迷いを断ち、代わりに勇敢さと積極性を得る。あっという間に人生は終わってしまうのだから、何を怖れ、迷う理由があるだろうと感じたのか。ゲイの恋人を募集する広告を新聞に出すという、75歳にしてはいささか突飛に見える父親の行動が、エンディングではとても尊く、勇気ある一歩におもえてくるのは、父親が死ぬ前に本当の実感を得たいという切実さを抱いて生きていたからであるように感じられる。誰もが体験する、喪失という試練に対する出口のひとつを見せてくれたように感じ、胸が熱くなった。
【関連作品】『サムサッカー −17歳、フツーに心配な僕のミライー』は、高校生になっても指しゃぶりが止められない主人公の少年を描きつつ、郊外の風景をポップかつシリアスに切り取った美しい青春映画です。
2012-02-03
■[読書]『あの川のほとりで』/ジョン・アーヴィング(新潮社)
「少年が熊と間違えて殴り殺したのは、父の愛人だった!」という、いささかインパクト過剰なあらすじ説明の帯文に惹かれて読んだアーヴィングの新作は、色鮮やかなストーリーの潮流を備えつつ、心の奥にまで浸透していく深みのある小説だった。著者の半生をモチーフにしながら、長い上下巻を通して語られる主人公ダニエル・バチャガルボの生涯は、アーヴィング作品の多くがそうであるように、さまざまな愛情と暴力の描写によってめまぐるしい展開を見せていく。小説の長さが読者を納得させる濃厚な時間と読書体験につながり、長い人生をふりかえるように力強く着地するラストシーンでは、あたかも主人公が実在の人物であるかのように感じられ、胸が震えた。
熊と間違えて父の愛人を殴り殺してしまった主人公の少年は、父に連れられて、事件のあったその夜にツイステット・リバーと呼ばれる川のほとりから逃げだす。父の愛人とは、町の保安官と暮らしていた女性だった。やがて少年は成長し、かねてからの目標であった作家になるが、彼と父親はつねに、かつて起こった事件の発覚を怯えながら暮らしていくことになる。保安官は、不気味な執念を捨てずにふたりを追う。主人公と父親はいくつかの土地を転々としながら身を隠しつつ生活していき、その間も保安官は数十年に渡って彼らを探しつづけるのだ。主人公と父親はこの追跡から逃げ切ることができるか──というのがあらすじの中心だ。主人公は小説を書き、父親はレストランを経営する。彼らはあらたな伴侶を得て、子どもをもうけるが、そうしたよろこびはすべて突発的な事故や暴力によって無惨に失われてしまう。彼らが人生を豊かにするべく結んだ他者との関係やあらゆる試みは、そのほとんどが別離や死によって虚しく終わるほかない。
よってこの物語は、主人公に与えられた「喪失の連続」という試練であるともいえるし、ページをめくるほどにさらなる悲劇が約束されている過酷な小説だということもできる。人の死は本当に突発的にやってきて、残された者はその喪失を抱えたまま生きていくほかにない。われわれは愛する者との別離や死ににただひたすら耐えるしかないというこの小説のプロットは、後半へ進むにつれて重苦しいトーンに変わっていく。もはやこれ以上の喪失には耐えられない、という主人公はしかし、こうした喪失の果てにあって、また何かを作り出そうという燃えるような意欲を抱くことができる。なぜなら作家である主人公にとって、物語とは「押しとどめることができない」力を持ったすばらしいものだからだ。この長い小説を通じて、アーヴィングが信じる<物語の力>を描く手つきには大いに勇気づけられた。
アーヴィングがこれまで使用してきたモチーフの多くがふたたび登場してくる作品の構成も印象的だった。トレードマークである熊は言うまでもなく、ニューハンプシャー州、レスリング、車内での性行為、作家志望の主人公、突発的な事故など、無数のイメージが反復しているが、こうしたモチーフに託されているのもまた、アーヴィングの信じる物語の力ではないかと感じた。
2012-02-01
ああそうだ──さあまたやるぞ──始めるんだ! と作家は思った。
あまりにもたくさんの大切なものを失ったが、ダニーは物語というものがどれほどすばらしいか知っていた──とにかく押しとどめることができないものであることを。自分の人生の大冒険がまさに始まろうとしているのを彼は感じていた──彼の父親もきっと同じように感じていたに違いない、ツイスティッド・リヴァー最後の夜の、あのつらい切迫した状況のなかで。
(『あの川のほとりで』/ジョン・アーヴィング)
2012-01-29
■[映画]『J・エドガー』を見たゼ!
新宿にて。初日。クリント・イーストウッド新作。とてもよかったです! FBI初代長官を題材にした作品でしたが、過去を舞台にしつつも(1919-20、1972)扱っているテーマは現代性がありつつ、さらにはイーストウッド自身が提示しつづけてきたモチーフ(正義の行使と法の限界)を裏側から描いていくようなバランスのよさもありました。独特のくすんだ画面のトーンなども含めて印象的な作品です。
精神科医の斎藤環さんは、本作をアスペルガー映画だと評していたが、たしかに劇中における主人公の異様な集中力や思考の鋭さ、目的達成のためなら倫理的逸脱もいとわない態度を見ていると、彼の資質にはやや病的な何かを感じさせる。とはいえ、そうした主人公だからこそ可能だった捜査改革(科学的捜査や情報の統合管理)があったことも事実で、彼のもたらした功罪の両面がひとまずはフェアに描かれていると言えるだろう。常人離れした能力で社会的成功を収めたアスペルガー気質の主人公とその裏側という題材は、どこか『ソーシャル・ネットワーク』(’10)的でもあり、アーミー・ハーマーのキャスティング含めて類似点を感じた。またイーストウッドはこれまで、正義の追求が法の限界に突き当たる瞬間を数多く描いているが、本作は同じテーマを裏側から取り上げており(bend the rules=必要ならば法の解釈を曲げてもいいのだという詭弁)、そうしたバランス感覚にも納得させられた。
わけても、うわさとして存在したJ・エドガーのクローゼット・ホモセクシャル(公表されなかった性癖としてのゲイ)を描く手つき、特に脚本の周到さには感心してしまう。彼は仕事上のパートナーであり、同性愛的な親密さすらある同僚クライドと行動を共にするが、劇中一度だけ主人公が使うあからさまな卑語が “Cock Sucker” だというあたりに、彼のホモセクシャル性へのさりげない暗示が込められている。このせりふを受けたクライドのうれしそうな表情と、”Vulgar”(下品ですね…)というひとことの返答などもまた、両者の関係への暗喩に見える。またニクソンの描かれ方も実に印象的で、主人公とニクソンは「盗聴が何より好き」という共通点において似た者同士なのだが、ニクソンもまたJ・エドガーを “Cock Sucker” と呼ぶという符号がせりふには隠されており、こうしたホモセクシャルにまつわるさまざまな暗喩はせりふの随所から見て取れる。
情報の統合管理というJ・エドガーの思想がもたらした功罪は、テクノロジーが進んだ現代においてはまたさらに一段階複雑さを増しているように感じますが、そこでイーストウッドがこうした作品を手がけたのは実に興味ぶかくおもえました。子どもの誘拐といった、大衆心理に訴えやすい非常事態に乗じて捜査権限の拡大を訴えるJ・エドガーは、やけに無邪気であるがゆえに危険で、こうした論調は現代においても見られるものであり、過去の人物を題材にしつつも現代的な批評性を持った映画になっているのではないでしょうか。俳優陣の熱演も含めてとても迫力のある作品でした。
2012-01-27
■[読書]『書きなおすナボコフ、読みなおすナボコフ』/若島正・沼野充義 編(研究社)
映画『リトル・ミス・サンシャイン』(’06)におけるスティーブ・カレルの役柄は<プルースト研究者>であり、劇中、アメリカのプルースト研究者は全員ゲイという突拍子もない設定であった。さすがにそれは冗談だとしても、かかる設定がひとまずスティーブ・カレルという人物の説明として成立していたのは、ある種の文学作品の愛好者が特定の傾向を持ち、研究者たちの顔ぶれが濃くなっていくという世界共通の傾向があるためだとおもう。とっさに浮かぶのはピンチョンであり、海外のピンチョン研究サイトの充実などを見るにつけ、ピンチョン研究者はよほどの強者が揃っているのだろうなと想像するが、世界中のナボコフ研究者から提出された論文が掲載された本書を読んでみて、ナボコフ研究者もかなり濃い顔ぶれが揃っているのではないか……と想像がふくらんだ。
このテキストは、国際ナボコフ学会に集まった論文をもとに構成された一冊だが、まずはその論文のクオリティの高さに驚く。ナボコフ学会、わたしも参加してみたいな…などと軽い気持ちで考えていたが、これは世界中のナボコフ猛者のみが集まる道場のような学会である。一冊の本をていねいに読み、ひとりの作家を時間をかけて研究していくことのおもしろさについてあらためて考えさせられてしまった。ナボコフは、完成したはずの原稿にもさらなる改訂をくわえつづけ、自身の小説を別言語へと翻訳し、映画化の脚本を書き、類似のテーマを変奏させながら繰りかえした作家であり、さまざまな方法で自作を Revise する作家であるとする本書の基本テーマによってより明確なナボコフ像がとらえられている。本書を通じて、こうした前提を理解できたのは大きな収穫だった。
もっとも興味ぶかかったのは、モーリス・クチュリエの『「ロリータ」再訪──あらたな注釈者として』であり、ここでナボコフが執筆に使用した手書きカードについてはとてもおもしろく読めた。ナボコフは作品を手がける際に、まずは細かいアイデアやリサーチの結果を手書きのカードに書きためていき、それらを並べて組み合わせながら作品のディテールをクリアにしていったというのだ。ナボコフはロリータを描写するさい、当時の少女たちの言葉遣いやファッションを雑誌などからカードにメモしつつ取り入れるだけではなく、十代の少女の身体的および性的な側面についても医学書からの学習を重ね、ロリータの身体パーツそれぞれについてカードを作成していったという。乳房の発育について書かれたカードには「乳房の発育段階の層的区分。一、乳首と乳輪からなる中世的な子ども時代 二、乳房の芽、乳頭の周りの輪が円錐状に突出する 三、脂肪組織が急速に成長し、乳房の芽が筋肉から成る下層か分離する。乳輪は突出するが、乳首は埋没したまま」といった詳細が書かれており、作品のリアリティを支えるこうした綿密な下準備を怠らないナボコフの情熱には感服するほかない。
なかでもわたしがもっとも気に入ったのは、脇毛に関するカードである。「『恥毛』と題されたカード七番には次のように書かれている──『脇毛は段階的に分けられる──A 長さ二ミリから四ミリの産毛、B 長さ五ミリから十ミリの半硬毛、C 十から二十四ミリのまばらな硬毛、二十五ミリの密集した硬毛……』」といった記述からは、ナボコフがいかに『ロリータ』を完全な作品にしたかったかという情熱が感じられ、ますますナボコフに対する尊敬の念が深まる。すばらしいですね。また、若島正さんは、五〇年代にイギリスで流行した、マッシュルーム・ジャングルと呼ばれる大衆小説と『ロリータ』の類似点を指摘しつつ、『ロリータ』は現代の読者がそうしているような純文学として質の高い作品であるという受容のしかたではなく、新種のマッシュルーム・ジャングルとして読まれていたのではないか? という問いを投げかけており、いままでマッシュルーム・ジャングルのことをまったく知らなかったわたしはとても新鮮に読むことができました。




