空中キャンプ

2017-12-01 2016年、2017年 伊藤聡の仕事

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2016年、2017年に伊藤聡が寄稿した書評、映画評、ならびにラジオ出演、トークイベントの一覧です。


通年連載
◆インターネットサイトcakes「およそ120分の祝祭 最新映画レビュー」
劇場公開作品の映画評、月に2回更新。 https://cakes.mu/

2017年

1月
◆小学館「美的」3月号
映画評ページにて、2本の映画紹介。『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』『雨の日は会えない、晴れたの日は君を想う』を取り上げています。

2016年

3月
◆3月27日 毎日新聞「昨日読んだ文庫」
書評/ジョナサン・フランゼン『コレクション』(ハヤカワepi文庫)

5月
◆新潮社「新潮」6月号「真に打ち棄てられた者の言葉」
映画『サウルの息子』を中心に、ラウル・ヒルバーグ、クロード・ランズマンなどホロコーストに関して発言する研究者、映画作家に言及しながら、アウシュビッツの表象について考察した批評です。

◆筑摩書房「早稲田文学」2016年夏号「アメリカの嘘つき」
サリンジャー作品における虚言癖の主人公を取り上げつつ、映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』('02)『カメレオンマン』('83)と比較し、アメリカにおける「嘘つきの物語」の系譜について考えています。

8月
◆8月16日下北沢B&Bトークイベント
「緊急開催!『シン・ゴジラ』について存分に語りたい人が集う夜」

9月
◆新潮社「新潮」10月号
書評/J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』(早川書房)
http://www.bookbang.jp/review/article/520863

◆9月10日福岡Rethink Booksトークイベント
「緊急開催!『シン・ゴジラ』について存分に語りたい人が集う福岡の夜」

11月
◆双子のライオン堂「草獅子」Vol.1
書評/L・P・デイヴィス『虚構の男』(国書刊行会)

◆11月5日 新宿ネイキッド・ロフト トークイベント
「俺たちのセス・ローゲンナイト!〜大解剖ジャド・アパトー〜」。アメリカン・コメディを語るイベント。個人的にもジャド・アパトーや米コメディ映画は非常に重要視しているため、有意義なイベントでした。

◆11月26日 TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」
「タマフル秋の推薦図書特集」にて、3冊の選書を行い、番組内で話しました。ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(新潮文庫)、アン・ウォームズリー『プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」(紀伊國屋書店)、エドワード・ケアリー『堆塵館』(東京創元社)をレコメンドしています。
http://www.tbsradio.jp/96408

12月
◆小学館「Domani」2月号
推薦図書ページ(「いつも心に名言を」)内にて、選書を行いました。フィッツジェラルド『夜はやさし』(作品社)、ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(新潮社)、フローベール『ボヴァリー夫人』(河出文庫)の4冊をセレクト。選出コメントも載せました。



書評、選書、海外文学批評、映画批評を中心に執筆活動を行っております。特に、海外文学や映画を題材とした文化論の執筆に力を入れたくおもっています。著書に『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)。問い合わせ、依頼は so.ito.so@gmail.com までお願いします。

2017-01-05 人喰いの大鷲トリコ

普段あまりゲームをしない私ですが、話題のソフト『人喰いの大鷲トリコ』をどうしてもやってみたくて、年末に挑戦しました。これが実におもしろい。夢中になって遊びました。しだいに物語に引き込まれていき、ラストに準備された展開には涙してしまいました。これねー、おもしろいんですよ。私はゲームのテクニカルな部分にはまったく詳しくないのですが(本作であれば、カメラの操作性だとか)、ゲームマニアでも何でもないただの中年男性が『人喰いの大鷲トリコ』をプレイした感想をお伝えいたします。

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これは少年と巨大なケモノの話です。少年はまあ、10歳とかそのくらいかな。背もそこまで大きくない。対して、ケモノは実に大きいですね。サイズ的に2階建てバスくらいはある。この両者が力を合わせて、とある場所から脱出していくのが基本的なあらすじです。そもそも少年は、なぜ「とある場所」にいるのか、よくわかっていない。当初は、プレイする私にも知らされていません。目が覚めたら少年は、見覚えのないその場所にいて、横には「犬7割、鳥3割」みたいな感じで絶妙にブレンドされた謎のケモノ、トリコが倒れている。トリコは怪我して弱っているので、これはたいへんだっていうんで、少年は餌をあげたり、身体に刺さっている槍を抜いたり、あれこれ世話してあげる。そのうちにトリコは少年になつき、ふたりには友情が芽生えていく、といった感じでゲームが進んでいきます。

基本的にトリコは勝手に動いています。プレイヤーが動かすのは少年です。トリコはなついているので、こっちにおいでと言えば一応従うのですが、完全に自由に動かすことはできない。ではゲームにおいて主人公が具体的に何をするかというと、海外なんかでは「パズル」という言い方をされているのですが、限定空間での謎解きです。たとえば鉄の扉が閉まっていて先に進めない、といった状態がある。しかしトリコの頭の上に乗って高い場所に移動し、あらためて周囲を探索すると、そこには隠されたスイッチがあり、そのスイッチを押すと鉄の扉が開く──。本作は主に、こうしたパズルを繰り返して先に進んでいく、謎解きのゲームになっています。舞台は魅惑的な遺跡のような場所で、ミステリアスでありつつ非常に美しく、何か別世界へ放り込まれたような感覚です。

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かくして主人公は、巨大な犬ちゃんと共に謎解きを行っていくのですが、奇妙なのは、しだいにこのケモノに意志のようなものを感じ始める、という点です。どういう仕組みでこのトリコが動いているのか、私にはよくわからないのですが、主人公の動きに対して非常にセンシティブに反応してくる。たとえば「いまトリコは私が階段から落ちないかどうか、心配そうに見ていたな」といった瞬間が訪れる。こちらが目を離したタイミングでも、トリコはつねに何らかの行動をしていて、ゲームとは直接関係のない「動物としてのトリコ」の挙動にかなりの意外性や反応のよさが備わっている(ゲーム製作者ですら、トリコの動きに驚くことがあるそうです)。かくして、ゲームのなかにきわめてリアルな動物が存在している、その動物に乗って歩いたり、なでたりできるという独特の感覚が生まれています。これ、どうやって作ったのだろうか。トリコは巨大な図体のわりにとても素直でかわいらしく、ときには主人公に甘え、危機になれば献身的に主人公を助けてくるものだから、敵がトリコに槍を投げてきたりすると、本気で腹立たしくなってくるのである。おいっ、動物いじめやめろっ、とテレビに向かって怒っていたりする。

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では果たして、このゲーム全体を映画で再現できるのだろうか。もちろん、ビジュアル的には可能です。しかし、興奮するトリコをなでて落ち着かせた経験、トリコの背中に乗って崩れそうな橋を必死に渡ったスリル、少年の動きに反応してふっと振り向いたトリコの顔つき、そういったあれこれが積み重なっていくなかで感じた、トリコは本当に生きているのではなかろうかというリアリティ。こうしたディテールを映画で再現することは、困難なのではなかろうかとおもいます。

2017-01-04 Domani(小学館)2月号で選書しました

こんにちは伊藤です。えー、いま書店に並んでいる女性誌 Domani(小学館)2月号のなかで選書をしています。今日はその告知であります。表紙はエビちゃんでして、広く解釈すれば初共演ともいえます。私とエビちゃんが、初めて同じフィールドに立ったと言っていいのではないか。ふふっ。Domani で私が参加しているのは、読書好きの方々がそれぞれの選書を持ち寄って、そこから名言を抜き出していくという趣旨のページです。私は普段どおりに海外文学を選んでいます。

こういう場合、どんな選書をすればいいのかなと悩むところではありますが、Domani なんてそう呼んでもらえるものでもないので、自分にとっての定番、アフリカ・バンバータが言うところの "Sure Shot"(DJするときに絶対に盛り上がる、必殺のレコードの意)のみで構成した、This is my classic みたいなあられもない内容に着地しました。1冊ぐらいは軽めのセレクションを混ぜるといった小技も使うことなく、エミリー・ブロンテ、フローベール、ヴァージニア・ウルフ、フィッツジェラルドでガチにキメています。30代キャリア女性が中心という読者層を意識して、女性作家を多めにしました。『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)とか、ぜひ読んでほしいんですよね。エビちゃんもヴァージニア・ウルフ読んだら気にいるとおもうんだよ(もう読んでるかもしれないけど)。いつも推したいとおもっている、19世紀ヨーロッパ文学を入れられて実によかったです。

こうして選書をするのは本当に楽しくて、私は根っからの本オススメおじさんだなと感じています。今回はライターさんに向かって話した内容を構成してもらっていますが、自分で文章を書く方が好きです。今後もどんどん選書していきたい。もっと激シブな中南米文学とかを推薦していきたい。そんな気持ちになりました。今年は、映画評も書評もたくさん書きたい。ということで Domani(小学館)読んでみてくださいませ。

2016-07-12 [映画]『シング・ストリート 未来へのうた』

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ステージ上でギターを鳴らし、「これは君の人生だ/どこへだって行ける(this is your life, you can go anywhere)」と歌うティーンエイジャーに対して、年長者が取れる態度はいくつかある。まずはその短絡さをたしなめること。人生の選択肢は限定されており、無限の可能性などありえないのだから、ものごとの判断は現実的かつ慎重であるべきだとアドバイスする方法である。しかしこれはいかにも退屈だ。十代が短絡的なのは当たり前で、それゆえに失敗するものだし、ある局面では、前へ進むために一度失敗しなくてはならない場合もある。かといって、かかるメッセージを信じていないにもかかわらず、ものわかりのいい大人を演じて「君はどこへだって行けるね」とうわべだけの同意を見せる姿勢はさらに耐えがたい。それは不誠実だし、子どもをばかにしている。では、十代の真ん中で夢を見る思春期の少年少女を描いた『シング・ストリート』を前にして、年長者であるわれわれはどのような態度を示すことが倫理的なのだろうか。

『シング・ストリート』は、1985年のダブリンでバンドを組む少年たちの物語である。『ONCE ダブリンの街角で』(’07)、『はじまりのうた』(’13)に続いて、音楽を描いた作品群で知られる監督、ジョン・カーニーの新作だ。過去2作との違いは、初めて十代を主役に据え、彼らの初期衝動から音楽のよろこびをとらえ直す点にある。その試みは成功し、少年たちが音楽を通じて感じる心の震えがダイレクトに伝わり、作品全体を新鮮さに満ちたものにしている。85年という時代設定らしく、バンドの目標がライブではなくミュージック・ビデオの撮影であることもユニークな着眼点だ。ビデオなど撮ったことのない彼らが、ちぐはぐな衣装とメイクでカメラの前に立つくだりには、つたなさと同時にクリエイティビティの萌芽を感じて胸がいっぱいになる。彼らは何かを作ろうとしているのだ、という事実に圧倒されてしまう。

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ミュージック・ビデオの撮影場面が、しだいに少年の描く理想と渾然一体となる ”Drive It Like You Stole It” の演奏において、作品のエモーションは極に達する。家庭不和、経済的困窮、理不尽な学校教育など、主人公を取り巻く問題がいっぺんに解決するかのように、両親は仲むつまじく踊り、鬼教師は親愛の情を示し、兄はたくましく頼れる存在へと変化する。体育館はいつの間にかアメリカ映画のプロム会場となり、集まった人びとは演奏にあわせて踊り、バンドの音楽によって世界は完全な調和へといたる。何とうつくしい場面だろうか。むろん、それは演奏が続いているあいだのみで、音楽が終わると同時に、主人公はふと現実へと引き戻されてしまう。しかし、高校生であった私が音楽を聴いている瞬間とは、まさにそのようではなかったかとおもいだすのだ。音楽が流れているそのあいだにだけ現出する、完璧な世界があったのではないか。

劇中のバンド、シング・ストリートがどのような末路を辿るのかはわからない。あるいは観客は、ダブリンの高校でメンバー募集の貼り紙をして結成されたスクールバンドが、世界的なロックグループへと成長していく、その最初の瞬間を目撃したのかもしれない。もしくは、中年になった主人公はダブリンで郵便局員をしていて、ときおり弦の錆びたギターを取り出しては、なぜあのとき俺はロンドンなんかに行こうとおもったんだろうな、と苦笑まじりに考えるのかもしれない。いずれにせよ、主人公はロンドンへ向かう以外に方法がなかった。それは大きな感情の波にさらわれるようなもので、抗う手立てなどないものだろう。このフィルムがうつくしいのは、音楽を通じて主人公が感じた、どうしても拒絶できない未来の輝きにある。彼は音楽のなかに、世界の完璧な調和を見てしまったのだ。小さなボートが不安げに進んでいくラストにいたり、われわれはこのフィルムに対していかに倫理的でいられるのかという当初の問いへ立ち返る。それは、主人公たちのやむにやまれぬ選択を祝福することだろうか。やがて味わうことになる苦い後悔を想像することだろうか。いずれにせよ私は、彼らの存在そのものを肯定したい気持ちでいっぱいになるのだ。

2015-11-23 [映画]『ヴィジット』(アウトテイクス)

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以下の文章は、cakesに掲載した『ヴィジット』評( https://cakes.mu/posts/11351 )から削った部分です。祖父母の家へ行くのが怖かったという経験を書いていたら、筆が走ってしまい、原稿と関係がなくなったので削ったのですが、もったいないので、ここに載せます。特にオチもないのですが、削った部分を載せただけなのでお許しください。

子どもの頃をおもいだすと、たしかに祖父母の家へ行くのは妙に怖かった。彼らとどうコミュニケーションを取っていいのかわからなかったのである。善良な祖父母だったが、子どもの相手をする体力はないし、むりに話を合わせて孫の機嫌を取るような積極性もなかった。そのため、たまに祖父母の家へ連れていかれても、一緒に黙ってテレビを見たり、しけたビスケットを食べたりする以外にやることがなく、子どもの私はすぐに退屈してしまっていた。気前がよく、会うと小遣いをくれるため、祖父母の家へ行くのは小遣い銭を得るための営業であった。私にとっての『ヴィジット』体験である。

祖父母の家にはガラスケースに入れた巨大なハチの巣が飾ってあるのだが、これがグロテスクで落ち着かない。なぜそのようなものを飾るのかといぶかしくおもった。床の間にかけてある日本画の女性もどこか苦悶の表情であり、仏壇ととなりあわせの日本画というレイアウトの居心地の悪さには閉口した。もっとも鮮烈に覚えているのは、祖父母と一緒に見たテレビ番組の特集で、即身仏になるために生き埋めにされるお坊さんが登場した場面である。どうしてそんなテレビが放映しているのだ。小学生の子どもに、そんな怖ろしいテレビを見せるんじゃない。子どもの私は恐怖で身がすくむようだった。

カメラは、他のお坊さんが見守るなか土のなかへ入っていく男性をとらえる。いつまでも止まらない読経。祖父母は終始無言で、食い入るようにテレビ番組を見ていた。この人、これから死ぬの? と私は祖父母に聞いたが、彼らは返事すらしない。私は家に帰りたくてたまらなかった。しかし今日は祖父母の家に泊まらなくてはならない。小遣いがほしかった私は、この家全体から発散される圧迫感におののきつつ、ただじっと耐えていたのだった。