空中キャンプ

2007-05-09

かかってこい!

[]「恋愛睡眠のすすめ」を見たゼ!(二回目)

渋谷にて。やっぱりすごくよかったです。これ、ほんとにいい映画だとおもう。最初に見たときから、ふしぎな余韻が残っていて、この映画はなんでこんなに胸を揺さぶるんだろうと、ずっとかんがえていた。たくさんの場面が、ひとつひとつ、わたしの琴線にふれる。最初に見たときより、二回目の方がぐっときた。その理由は今でもうまく説明できないのですが、なんだかひとりでに過去の記憶がよみがえってくるようでした。

劇中、主人公は、「想像の中で、意中の女の子と架空の男を恋仲にさせ、あげく、存在しない男に向かって嫉妬し、ひとりで勝手に失望する」といった、まるで無意味な空回りを演じている。でも、こういうのって、誰にでも覚えがあるんじゃないかとおもう。自分の頭でひねりだした架空の存在にたいする嫉妬、想像上のできごとにたいする、するだけムダな絶望。こうして文章にすると、すごくばかみたいだけれど、そのような感情にわたしは覚えがある。つまり、「僕のすきなあの子には、きっとかっこいい彼氏がいて、僕が今ひとり部屋で寝転んでいるこの瞬間も、ふたりで手をつないで、どこかの街でたのしくデートしているのだ。絶対に!」などという、くだらない想像をしては、暗い気持ちになったことがわたしにはあるし、わたしだけではなく、少なからず誰もが、そうしたつまらない想像をしてしまうものではないか──たぶんですけど。なんの根拠もない想像と、架空にもとづく嫉妬。あの嫉妬は、いったいどこに向けられていたんだろう。なぜ、起こっていないできごとに向けて、感情がわき上がるのだろう。

現実になにが起こっているのかを見きわめるのは、とてもむずかしい。なぜなら、あらゆるできごとは、「私にとって、こう見えた」という主観的な記憶の積み重ね、合成でしかないからだ。つまり、実際になにが起こったか、という記憶は、自分に都合のいいように逐一編集されて、記憶の貯蔵庫に保管されている。もちろん、人が成長するあいだには、客観性や公平さを獲得できるチャンスがたくさんあるから、しだいに、現実をよりフェアに把握できるように変わってくる。しかし、自分を客体化していく作業、客観性をやしなう過程は、ある意味とても苦痛に満ちている。なぜなら現実というのは触れるとけっこう痛いからです。自分はなんら特別ではなく、ありふれた存在であり、希望は叶えられたり、叶えられなかったりする。いずれにせよ、わたしたちは、居心地のいい主観の世界を脱しなければいけない。だからこそ、主人公が、現実と想像のあいだを行ったり来たりするようすが、おもしろかったり、情けなかったり、ぐっときたりする。

しかし、こうして作品を見ていると、ミシェル・ゴンドリーが創作をする根拠、アイデアの源泉がどこにあるのか、それが伝わってくるようでよかった。映画そのものは、すごくかわいらしいけど、「僕の原点、ここにあり」とでもいいたげな展開は、ちょっと泣きそうになるくらいせつなかった。