2007-10-10
■いい文章を書きたいのであれば
いい文章を書きたいのであれば、書き終えてから、あるていど時間を置いて読み直すといいとよく言われる。これは誰にとっても納得のいく方法だとおもう。時間を置くことで、客観的に文章を眺めることができるし、意味の伝わりにくいところは推敲できる。なにより文章ぜんたいをクールダウンできるから、時間を置き、推敲を通したテキストはより論理的で端正になる。
しかし、わたしはこの方法がどうも苦手だ。時間を置くと、いったいどうしてこんな文章を書いたのか、自分でもよくわからなくなってくるし、なにをおもしろいとおもって書いたのか、いまひとつおもいだせなくなってしまう。もちろん、文章を書き直すことで、感情の入りすぎていた部分は削られて、気持ちだけが空回りしていた言葉は、もっと別のフレーズに置き換えられる。だからこれはきっといい文章なのだ──すくなくとも、推敲前よりはずっと。でも、このテキストっておもしろいのかな、とわたしはおもう。きっと、文章が当初に持っていた熱は、どこかへ逃げてしまっている。
わたしが書きたいのは、論理的で端正な文章ではないのかも知れない。たしかに、感情が入りすぎている文章は読むのがしんどいけれど、それをすべて推敲してしまったら伝わらないことがきっとある。ある言葉が人にきちんと伝わったのだとすれば、その言葉にはかならず熱があり、感情が乗っている。感情の乗った言葉を人に伝えるのは、どうしてもためらいがあるから、時間を置いて、客観的にテキストを読んだときに、わたしはついそれらを削ってしまう。それだったら、後から読んだときに、すこし恥ずかしくなるくらいの文章が書ければいいなといつもおもう。
カート・ヴォネガットは、彼にとって最後となる著書の中で、なにかを表現することについて、こう書いている。「シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できるかぎりよいものをと心がけること。信じられないほどの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから」。ヴォネガットに従えば、わたしにだって表現はできるし、そこから大きな見返りを得ることだって可能かも知れない。それだけで、たのしい気持ちになる。わたしは、ヴォネガットが考えるしかたで、ためらわずになにかを表現できたらおもしろいなとおもう。



