空中キャンプ

2007-10-30

「のはなし」/伊集院光

伊集院光のエッセイ80本をまとめた新刊。いやー、これはおもしろい。声だして笑ったなー。本職のモノ書きでも、ここまで笑える文章を書ける人はなかなかいないのではないだろうか。太田光もラジオで絶賛していましたが、たしかにこれはいい。渋谷パルコではさっそく平積みで売っていて、わたしはパルコでこの本を買ったけど、あのおしゃれな空間は伊集院というキャラクターにまったくそぐわなくて実によかった。気がつくと、なんだかあっという間に読了してしまった。

このエッセイは、携帯電話会社がメールマガジンとして配信していた素材をまとめている。「週三回の配信、一度につき400字以上」というのが、連載の条件だったという。考えてみると、これはかなりしんどい。伊集院は、この連載を750回ほど続け、その中の80本をよりすぐって一冊の本にした。すごいよね、週三回のペースで750回続けるというのは(月に13回と仮定して、58ヶ月=ほぼ五年!)。これはほとんど千本ノックみたいな作業で、彼は読者から与えられた「7文字以内のテーマ」についてひたすら書き続けていく。テーマはたとえば、「つらい仕事」だったり、「ペットショップ」であったり、「エロ本隠し場所」だったりする。そうしたテーマについて伊集院は、そのたびに、いったいどこまでくだらない文章を書けるか、アスリート的に挑戦しているように見えた。

びっくりするのは、その瞬発力やひらめきで、それだけ長期の連載を続けていけば、使えるアイデアはすべて使い切ってしまうだろうし、過去の体験談やおもしろエピソードだってさすがに尽きてくる。もうどれだけ絞ってもなにも出てこない、といった状態になってもおかしくないはずである。それでも彼は、ひとたびテーマが与えられると、これはうまいなー、とうなってしまうような文章をきっちり書き上げるのだ。伊集院を見ていると、なにかを表現する、創造するといった行為は、あらゆるネタを出し尽くしてからっぽになったところからようやくはじまるのではないか、と感じてしまう。たとえば、「ピロリ菌」という、それをテーマにいったいなにを書いたらいいのだ、というような場合であっても、彼はこう書く。

「このやろう、『ピロリ』なんてかわいい名前しやがって、とんでもないやつだな!」というのが僕の「ピロリ菌」に対する第一印象だった。今でも「ピロリ菌」の怖さを世間に訴えるためには「ギロバッグウィルス」くらいの迫力ある名前をつけなくてはいけないと思っている。「ポルポト派」ももっと怖い名前にしたほうがいいと思う。「サスペンダー」はサスペンスっぽい響きがある割に実物は間抜けなので、「ぴょんぴょんパッチン」にした方がいいと思う。

「ポルポト派」のくだりで笑ってしまう。ほとんど反射神経だけで書いているような、千本ノック感あふれる文章だ。五年にわたってこの仕事をしたことで、彼の文章的基礎体力はおそろしく上がったのではないかと想像してしまう。世間でよくいわれる、「ネタ切れで書けない」なんてのはきっとうそだ。手持ちのネタをぜんぶ使い切ってからがスタートなのだ。あらゆるストックがなくなった後でも、アイデアやインスピレーションはちゃんと湧く。汲めども尽きぬ泉のように、表現はどんどん湧き上がってくるのではないか。なんかそんな気がした。

ただひたすら、くだならい文章のみで埋めつくされているこの本だが、中にはぐっとくるエッセイもあった。「ニート」というテーマで彼は、「いくつかのラッキーが重ならなければ僕はニートだったと思う」と書いている。自意識と自尊心でがんじがらめになり、身動きの取れなかった十代。ここのくだりとか胸がちょっとつまってしまう。

今の僕は、あの頃、根拠のないプライドと現実のギャップに耳を貸さないために布団の中で吼えていた言葉を、ここに書いたりマイクの前で喋ったり、たまたまそれでお金がもらえているだけのことだ。何も変わっていない。

なんだかすごくせつないとおもった。布団の中で吼えていた言葉、ってリアルでいいなあ。文章を書くってやっぱりおもしろいし、わたしもどんどんやりたい。そう感じられたのはすごくよかった。