空中キャンプ

2007-11-03

[]「ゾンビーノ」を見たゼ!

六本木にて。おもしろかったです。ゾンビコメディという、いっけんよくわからない作品のわりには、意外にゾンビ映画の本質を突いているのでないか、と感じました。これからしばらく、新作ゾンビ映画の公開がつづくので、気持ちをすこしづつゾンビモードに持っていきつつ、たのしんで見ました。ゾンビを手なづける首輪が開発された世界。そこでは、ゾンビたちが家政婦や清掃人としてかいがいしく働いていた。一家にひとりのゾンビがあたりまえになった中、主人公の少年宅にもおじさんゾンビがやってくる。そこでめばえる、ふしぎな友情を描く。

すごくよかったのが、学校でゾンビにかんする授業を受けていた主人公が発した質問である。"Are zombies dead or alive?"(ゾンビは生きてるの? 死んでるの?)。子どもはたまに、すごい質問をすることがある。見ながら、ついうなってしまった。この問いはきわめて重要だ。この答えは出せないとおもう。どちらとも言えない、とわたしは考えています。生きた死体(living dead)という撞着した存在。生きているとも、死んでいるとも呼べない、生と死の閾にあるもの。でた、ホモサケル。ほんと、ゾンビって哲学的だな、アガンベンだなー、と感心しながら見てしまった。いつもおもうのですが、ゾンビはちょっとかなしい。見ているとつい同情してしまうところがある。人肉をむしゃむしゃ喰らっていても、なんだかやりきれない。スラヴォイ・ジジェクは、ロメロの「生ける死者たちの夜」についてこう書いています。説明がとても上手いので読んでみてください。ちょっと長くなりますが引用。

この映画では、「死にきれない者」が、純粋な悪、すなわち殺したいとか復讐したいという単純な欲動の具現化としてではなく、愚直にひたすら獲物を追い回す受難者として描かれており、一種の限りない悲哀に満ちている。そこで、この現象について、素朴で初歩的な疑問を提出しよう──死者たちはなぜ戻ってくるのか? ラカンが出した答えは大衆文化に見出される答えと同じである。すなわち、彼らが正しく埋葬されなかったからである。つまり、彼らの葬式はどこか間違っていたのである。死者の帰還は、象徴的儀式、すなわち象徴化の過程が乱れていることを示す徴候である。死者は、未払いのままの象徴的借金を取り立てるために戻ってくるのだ。

ことほどさように、ゾンビは受難者なのだ。彼らは(死にたくても)死にきれずに歩きつづける。この映画では、葬式の場面が重要な意味を持ちますが、これがまさしくジジェク的な指摘にあてはまっていて(正しく埋葬されなかった死者たち)、そのあたりもすごくおもしろかったです。ゾンビの悲哀というテーマについては、もうちょっといろいろ考えてみるとおもしろいかも知れないですね。

作品は、ゲーテッドコミュニティ(周囲に高く塀をめぐらせた区域)と化した郊外で暮らす白人たちが、塀のまわりをうろつくゾンビたち(侵入者)の影に怯えるという、なんだかアメリカそのものみたいな状況を設定していておもしろかったし、また、ゾンビ警備がビジネス化していて、ゾンビを撲滅しようとすればできるのに、あえて意図的にゾンビを繁殖させておいて、その警備で金を儲けようとする図式が見えるなど、するどいところもありました。あと、主役のゾンビがさりげなく目で演技するのがすごくおかしかった。あれ、笑ったなあ。