空中キャンプ

2008-01-21

この子がわたしです

[]「ぜんぶ、フィデルのせい」を見たゼ!

恵比寿にて。仏映画。いい作品でした。自分の子ども時代をおもいだすようで泣けてきた。主人公の女の子を見ながら、この子はわたしだと錯覚しました。フランスで裕福に暮らす一家、その長女アンナ。九歳の彼女は自分の暮らしに満足していたが、とつぜん共産主義活動に目覚めた両親のおかげで、しだに生活は苦しくなっていく。庭つきの家も、ぜいたくな食事も、すべてが切り詰められていく。どうやらこれは、もじゃもじゃとひげを生やしたアカのコミュニストが原因らしい。ぜんぶ、フィデル・カストロのせいだ。政治活動にのめりこむ両親とのいさかいを経験しながら、アンナは彼女なりのしかたで、世界を見つめる目をやしなっていく。

個人的な話になるが、わたしの父はごりごりの共産党員であり、労組関係者であった。子どものわたしにとって、観念的な理想主義ばかりをふりまわす父の言動はとても迷惑で、どうしてこの人はこんなくだらないことばかりするのだろうと、いつもふしぎにおもっていた。わたしは父のことが恥ずかしかった。友達と駅前を歩いていて、マイク片手に演説している父の姿を友達に見られたとき*1。イラン・イラク戦争反対の署名を、ノルマ30人で集めさせられたとき。ある日とつぜん家族を集合させ、「県知事選に出馬する」と宣言したとき(ありがたいことにこれは取り止めになった)。「ぜんぶ、ミヤケンのせい」である。アンナと同じ九歳のわたしには、父に教えてほしいことがたくさんあった。どうすれば野球が上手になるか。友達に持ちものを盗られたらどうするか。好きな女の子とはなにを話せばいいのか。共産主義は高邁な思想なのかも知れないけれど、九歳のわたしには、それより先に学ぶべきことがあった。そうしたことにいっさい興味がない父は、「かつて日本共産党には暴力革命路線があったこと」を、なにか重大な秘密でも告白するように、九歳のわたしに教えた。「今は決してちがう」と父はいった。この人はばかじゃないかとわたしはおもった。劇中、しだいに観念的な政治思想にとらわれ、アンナへの感心をなくす父という設定は、なんだかわたし自身について語られているようで泣けてきました。わかるよ、それ。

この映画がすぐれてわたしを共感させたのは、フランスで共産主義活動をおこなう者たちのふるまいに、「思想かぶれ」の雰囲気をさりげなく匂わせている点である。彼らはもちろん真剣に政治活動をしているのだが、同時に、どこか流行や熱狂を追うような軽薄さがある。この匂いをわたしもかいでいた。わたしの父もどこかいいかげんであった。「資本論」を1ページも読んだことのないマルキスト。アンナの父もまた同様である。共産主義活動に身を投じ、革命を望むわりには、娘を保守的なカソリックの学校へやり、妻のプロチョイス活動(女性の中絶権利推進)には眉をしかめ反対する。そういう矛盾をさりげなく描いていくのは、七〇年代の雰囲気をうまく反映しているのではないかとおもう(アンナはわたしより五歳くらい上という設定)。アンナは彼らの欺瞞をどこか見抜いていて、はっとするような真実を口にしたりもする。この子のキュートな存在感がすばらしくて、自分のとなりにいる誰かをおもいやることからしか変化は起きない、というあたりまえの事実を感じさせてくれる。

アンナは大人たちに欺瞞を感じていますが、それでもたとえば、「富の分配」という思想を、ひとつのオレンジを分けながら説明するシークエンス──僕たちは分けあう方に賛成だ──には、かつて共産主義が持っていた素朴な正義感やフェアネスがまっすぐにあらわれていてぐっときました。アンナがオレンジを口にする。そしてあたりをみまわす。富は分配される。ここはちょっと胸が熱くなりました。デモで催涙ガスを浴びせられて、アンナがひとりぼっちになる場面も、彼女の孤独感をうつくしく示している。また、アンナの弟がよくてね。この姉弟の関係は、「サムサッカー」にすこし似ていて、いっけんなにも考えていなさそうな弟に救われる、というモチーフがとてもいい。

*1:「あっ、あれお前の父ちゃんじゃねー? なんでマイクでしゃべってんの?」といわれてうつむくしかなかったわたし。