空中キャンプ

2008-01-25

「思春期ポストモダン」/斎藤環

斎藤環新刊(幻冬社新書)。とても理解しやすく、また興味ぶかく読むことができました。著書名もいい。なかなかそそられるタイトルである。ちょっと椎名林檎っぽいしね。これに限らず、斎藤は著書のネーミングセンスがいい。「メディアは存在しない」「若者のすべて」「生き延びるためのラカン」等、書店でタイトルを見ただけで「読んでみたいなー」とおもわせるものが多い。副題は「成熟はいかにして可能か」であり、斎藤のメインフィールドであるひきこもりを題材にしながら、思春期や成熟といったテーマについて論じている。

思春期や成熟というのは、斎藤がくりかえし取り上げているテーマであり、やっぱり斎藤は「思春期」がすきなんだろうな、と想像してしまう。わたしも思春期がすきである。なぜなら陰鬱でしんどくて救いがないから。いやだったなあ、思春期。治りかけのかさぶたをつい剥がしてしまうように、思春期はいつもじくじくしていた。そんな時期をどうにかくぐり抜けてみて、後から考えると、どうして思春期ってやつはあれほどに暗く、些細なできごとが心につき刺さってくるのだろうとふしぎな気持ちになってしまう。矛盾しているようだけれど、くぐり抜けてしまった思春期は、陰鬱でありながら、同時に奇妙なうつくしさをたたえている。そこがいいんだよねー。このテキストにも、今の社会と若者の関係を論じながら、思春期の持つ陰鬱さをていねいに描いていく雰囲気があってよかったです。

わたしが、斎藤の著書の中から、まず最初に読むべき一冊を勧めるとすれば、やはり「社会的ひきこもり」(PHP新書)になるとおもう。副題は「終わらない思春期」。いやだなー、思春期が終わらないの。ほとんど拷問だよ。あれは梅雨みたいなもので、終わった後にたのしい夏が来るからいいのだ。「社会的ひきこもり」は、ひきこもり治療を続けてきた斎藤の、現場の経験をアクチュアルに生かした「ひきこもり対策ハンドブック」的な要素のつよい本で、以後のラカン派精神分析や社会批評、映画論などのフィールドとはまったくリンクしていない。しかしこの本がおもしろいのは、ひきこもりという現象を通して、なによりわたし自身に「成熟」という問題がつきつけられるところである。ひきこもりの人たちは成熟に困難を抱えているという。ではわたしは成熟しているのか。うーん。斎藤は「社会的ひきこもり」において、成熟をこう定義している。

「社会的な存在としての自分の位置づけについて安定したイメージを獲得し、他者との出会いによって過度に傷つけられない人」

うまいことを言うものである。この定義は実に秀逸で、なるほどと膝を叩いてしまう。たしかに、自分のイメージの位置づけが不安定でぐらぐらしている人は、他人にちょっとなにか言われると、受け流すことができずに傷ついたり、ショックを受けたりする。それじゃ生きるのはしんどい。思春期って自分のイメージがうまく客体化されていない状態のことなのだろうか。村上春樹も「ライ麦畑」の主人公について、「彼はまだ客体化が済んでいない」といっているしね。「思春期ポストモダン」で斎藤は「三十五歳成人説」を論じていて、三十五歳ってもうすっかりおっさんじゃん、と苦笑しつつも、つい納得してしまう論旨がそこにはあり、三十五年も経たないと成人できない我々について考え込んでしまう。

この新刊では、社会と若者の関係、インターネットと欲望のあり方、思春期とコミュニケーションなどを扱っているが、テーマはどれもおもしろく、また章ごとにあるていど的を絞って書かれてあるところがよかった。現在の社会が、若者たちを「理解不能なエイリアン」として扱うことで安心しようとする傾向があるという指摘は正しいとおもう。「近くにいるのに限りなく遠い」という、コミュニケーションにおける距離感覚についても納得。読者を「なるほど」と思わせるフレーズもあいかわらずであり、ふむふむと頷きつつ付箋を貼ってしまう。

携帯メールはその打ちにくさにこそ価値がある。手間ヒマをかけてほんの二、三行の文章を作り、送り合うこと。それは純粋な親密さの交換であり、限りなく「毛づくろい」に近いコミュニケーションなのだ。

精神的な意味で「良好な動的状態」とはなにか、について僕自身はこんな風に考えている。それは、自由さと安定性が高いレベルで一致することだ、と。

この「なるほど感」が彼の人気のひとつなのだろうとわたしは考えている。また、テキスト内で述べられている「病因論的ドライブ」という考え方については、いろいろな場面で応用が可能なような気がして、覚えておきたいとおもいました。