2008-06-03
■「気になる部分」/岸本佐知子
翻訳家の書くエッセイはかならずおもしろい。これはわたしが発見した、数少ない真実である。雨の上がった後のアスファルトはかならずへんな匂いがするように、相撲取りの勝利インタビューはかならず息が荒いように、翻訳家たちはかならずエッセイがうまい。彼らになにかちょっとした読みものを書かせてみると、おおむね「これは」というユニークな文章ができあがる。
柴田元幸の新刊*1も、いっけんごくふつうのエッセイを装いながら、実はすべてが妄想で書かれたでたらめなヨタ話、という手の込んだ一冊で笑えるし、青山南のエッセイも、ポップカルチャーや米文学への愛情に溢れていてたのしい。そして岸本佐知子である。この人のエッセイが、なんだか腹が立つくらいにおもしろい。読みながらつい「やるなあ」と唸ってしまう。そして、やはり翻訳家のエッセイはかならずおもしろいのだ、との確信をあらたにしてしまう。
翻訳家・岸本佐知子の訳書といえば、もちろんジュディ・バドニッツの「空中スキップ」があるし、ニコルソン・ベイカーの「中二階」*2とか、スティーブン・ミルハウザーの「エドウィン・マルハウス」もある。彼女自身がアンソロジーで短編をチョイスして出版するほど、人気の翻訳家になりつつあるし、翻訳の技術や言葉選びもすばらしい。また翻訳するテキストのチョイスもいい。エッセイでは「ねにもつタイプ」*3が最新刊ですが、今回は、比較的安価で手に入りやすい「気になる部分」(白水Uブックス)について書きます。
なんといっても、岸本は書きだしがすごい。冒頭、ほんの数行で読者の心をわしづかみにしてしまう。これはいったいどういうあれだろうか。そもそも、なぜこんなどうでもいいことを文章にしようとしたのだろう。いずれにせよわたしの疑問はつきない。彼女のテキストを読みながら、それにしてもこの破壊力はすごいぞ、とふるえてしまう。
同じようなものでありながら、〈髪〉に比べて〈毛〉は不遇である。〈髪〉は豊かだったりたなびいたり女の命だったりと、総じていいイメージを担当しているのに、〈毛〉ははみ出ていたりワイセツだったりムダだったりと、ろくなことがない。「剃髪」には厳(おごそ)かな響きがあるが、「剃毛」はなんだか恥ずかしい。
記念すべき「じっけん」第一号は、幼稚園の頃にやった石鹸のじっけんだった。石鹸でずっと手を洗いつづけていれば、いつかは手そのものが消えて透明になるのではないかと考えたのだ。そこで体感時間にして一時間ちかくも洗いつづけたが、手は一向に消えず、かわりに石鹸と泡が消えた。
昔から、どうでもいい「部分」ばかりが気になった。そして部分に気を取られて全体が見えなくなることがしばしばだった。たとえばトラックの車輪の後ろにぶら下がっている、あのビラビラしたもの。あれを描きたさにトラックの絵を好んで描き、ぞんさいに描いた本体に、不釣り合いに大きくて立派なビラビラをつけ、きっちりロゴまで描き込んだような絵を何枚も何枚も描き、親を不安におとしいれた。
どうだろうか。この、なんだかよくわからない文章は。まるで長ねぎで頭を叩かれたような、痛いのかどうかもはっきりしないような衝撃。続きを読みたいという、むずむずした感覚がやってこなかっただろうか。こうした「なんだかよくわからないエッセイ」のジャンルには、宮沢章夫というおそろしい天才が存在しているが、ことによると岸本は、しだいに宮沢に近いレベルへと到達しつつあるのではないか、と考えるとこわくて眠れない。あんな人がふたりもいるとおもうと。また、彼女の子ども時代のこんな話も悲しさたっぷりである。
私は自分で落とし穴を掘って、自分で落ちた。社宅の裏庭に穴を掘っておいて、なるべくひと目の多いときを見計らって歩いていって、「わー」などといいながら落ちる。それの別バージョンとしては、原っぱの草を鐙(あぶみ)型に結んでおき、なにげなく歩いていき、「きゃー」などと叫びながら足をひっかけて転ぶ。注目されなければ、何度でも転ぶ。
理由は「掘った穴に人を落とすより、掘られた穴に自分が落ちる方がかっこいいとおもったから」である。なんだかかわいそうになってきたので、もし今度、岸本さんに会ったらひとまず千円あげようとおもっています。

