空中キャンプ

2008-08-30

「リアルのゆくえ」/大塚英志 + 東浩紀

新書の対談本。かなり話題になっており、さっそく増刷もかかったとのことですが、とてもおもしろかったです。ここまで意見が衝突する対談というのも、めずらしいのではないか。個人的には、予定調和を回避し、意見の衝突をひとつの見せどころとして演出のラインまで持っていけたのは、大塚氏のセンスではないかと感じました。

こうした対談であれは、最終的に、読者サービスとして、腑に落ちるような結論というか、うまい落としどころを持ってくるものですが、おたがいに最後まで、疑問点はひたすら「なんで?」と問いつづけるのがおかしかった。むしろ、この衝突こそが読者サービスなのかも知れないですが。書評で知られる永江朗氏が、ラジオ番組のブックレビュー*1で「終始けんかしっぱなし。ひさしぶりにすかっとした」といっていましたが、わたしも同様の読後感でした。

さまざまなテーマが語られるが、ふたりの立場は一貫している。どのような問題を論じるにも、個別の問題どうしをひとつにまとめあげる「パブリックなもの」「公的なもの」の意義と重要性を説く大塚と、もはやそうした公的さは期待できない、個別の問題を提示し解決することはできても、それにより大きな全体のイメージや、パブリックな意味づけをすることはむずかしいとする東。大澤真幸が「第三者の審級」と呼ぶこの問題について、わたしがどちらの論者の立場を取るかと訊かれると、すぐには即答できないむずかしさがある。

例をあげれば、セキュリティの問題について。監視カメラがあらゆる場所に取りつけられた社会のリスクを論じようとしても、子どもが危険な目にあったらどうするんだ、やはり監視は必要だ、と反論されてしまう。大塚は、まずは人びとに対して、よりよい社会のあり方、最終的にわれわれが目指している自由について説明し、社会のグランドデザインを示すべきだとする。個々の問題を論じるさいに、それを最終的に包括する全体のイメージ、われわれが到達すべき理想像を見せることは必要なのではないかというわけだ。

それに対して東は、そうした共通項がなくなってしまったのが現在なのであって、誰も大上段をふりかざした論議は聞いてくれないだろう、と反論する。だから個別の問題、監視カメラのリスクについての情報提供こそが有効であり、たとえば現在のデジタル映像はただそのとき撮られて終わりではなく、かんたんに加工もできるし、より高度なソフトウェアが登場すればまったく別の価値を持ったデータに生まれ変わることだってあるんだよ、という言い方をしないと効果がないと考える。こうした価値観、批評の方向性のちがい。

大塚 あなたの中にだって、こんな俗な言い方はしたくないけど、あんなかわいいお嬢さんが生まれて、社会性や公共性や、あり得べき社会の姿が具体的にないとは思えない。そのことと、批評家・東浩紀がやってきたこととは無縁なわけ?

 ぼくは、私的にどれほど素晴らしいことを信じていたとしても、それは公的なアリーナに入った瞬間に相対化され、普遍化できないと思う。これからの社会はそういう原理でしか動かないと思う。

大塚は、公的なメッセージを発することをあきらめた(ように見える)東に苛立ち、東は、すでに失効しつつある「公的なもの」の可能性を手放さない大塚に困惑する。だからついむきになってしまう。そうしてヒートアップしたふたりのやり取りの、実にエキサイティングなこと。なんだかどきどきしてしまう。

 公民の復活がどうのなんて、何の関係もない。それが現実です。ぼくはただそれを指摘しているだけです。
大塚 じゃあ君の言説というのは、君が現実と定義するものにあっさり白旗を上げちゃうんだ。
 上げてますよ。そうだって言ってるじゃないですか。
大塚 じゃあなんで批評をやってるの? 商売?
 だからさっきから言ってるじゃない。あんまり意味がないしやる気がないって。そのことをしつこく言ってもしょうがないでしょう。それって人格攻撃ですよ。
大塚 人格じゃないって。なぜそれを人格攻撃と取るの。
 なぜ人格攻撃かと言えば、ぼくはさっきから誠実に答えているのに、大塚さんはそれに対して具体的な反論を寄せるのではなく、答え方が気に入らないという批判しかしないからですよ。

うわー、すごい。ぶつかってるなあ。読んでる方としては、かなりおもしろいけど…。「公的なもの」の可能性はかなり低くなってしまったのではないかとわたしは考えていたけれど、この本を読んで、大塚のいう「パブリック」は理解できるし、そのための努力は必要なのではないか、という気がしました。「君が君の隣の人と話すことが、やはり公的なものの形成のなかの一つに位置づけられていく」という大塚の意見は、すごくいいイメージだなとおもった。