空中キャンプ

2009-02-21

[]チェンジリングを見たゼ!

歌舞伎町にて。クリント・イーストウッド新作。おもしろかったです。劇中における数多くのエピソードが、実は伏線になっていて、それらをあまさず回収していくといった執拗な展開もすごくて、「え、これも回収するんだ」「どうなっちゃうんだろう、この話……」と、どきどきしながら見ました。テーマはいかにもイーストウッド的な、正義の追求と遂行についてなのですが、もうひとつ、きわめて興味ぶかいテーマが用意されており、こちらがとても映画的でおもしろかった。

われわれは、ある人物Aが、他の誰(B,C,D,E)でもなく人物Aであることは、自明であるとおもいこんでいるのだが、実はこの立証はとてもむずかしいことが、映画を通して語られる。行方不明になっていた息子が五ヶ月ぶりにもどってきた。しかし、あきらかに自分の息子ではない。それを申し立てると、警察はこういうのだ。「あなたは精神的ショックで現実をきちんと見れていない」「子どもは五ヶ月のあいだにもめまぐるしい肉体的変化を遂げます」「誘拐というおそろしい現実のトラウマで、お子さんの記憶が失われても無理はありません」「この子どもがあなたの息子であることは、司法上も、医学的にも、完全に証明されています」。主人公は、こうした言葉に対する反論ができず、口ごもってしまう。私が私であることの自明性を揺るがせる、そのおそろしさ。

ではDNA鑑定をすればいいじゃないか、という指摘は、問題をさらにややこしくする。何者かが偽の鑑定結果と入れ替えたという可能性はないだろうか? 鑑定結果によって不利益を被る者はいないだろうか。そのためには、このDNA鑑定が真実であるという証明が必要になる。しかし、そこで事実はほんとうに確定するのだろうか。ちがう。そうなればもちろん、その証明が真実であるという証明が必要になり、さらに、その証明が真実であるという証明を真実であるとする証明が必要になり……と無限退行してしまう。事実には永遠に到達できないわけだ。イーストウッドは、われわれが、ほんとうの事実、真実に到達することの不可能性について語っており、劇中で描かれるその絶望的なまでの不可能性に、わたしは戦慄してしまう。

われわれをかかる無限退行から救ってくれるのが他者であり、彼らとの関係性であるとイーストウッドは結論づけていて、そこには希望がある。だからこの映画には望みを託すことができるのだけれど、なによりも、わたしがわたしであることを証明できない、というおそろしい現実に、なんだかふるえてしまう。わたしたちは、ほんとうのことが決してわからない世界で、事実には永遠に到達できないという不自由のなかで、他者と手をつないで生きるしかない。それはすごいメッセージだし、強烈なストーリーでした。