空中キャンプ

2009-06-02

静岡にいったことはありますか

帰りの電車のなかでおかしな男に絡まれた。きっかけは、閉まりかけのドアにわたしが飛び込んだことだ。むりに入ったので、閉まるときに、ひじのあたりががつんとドアにぶつかった。すると、近くにいた土木作業員風の若い男(坊主頭、ピアス)がわたしに向かって、「迷惑なんだよ、オイ」「オマエみたいな奴がいるとむかつくんだよ」と悪態をつきはじめた。もとはといえばわたしが悪いのだが、ややこしいことになった。

しばらく無視をしていたが、「聞こえてるんだろう、テメー」「オイ、このやろう」などと言い続けるので、しかたなく急いで別の車両に移動した。もう、まいったなあ。ところが、移動したとなりの車両でしばらく立っていると、あろうことか、そいつもわたしを追ってくるではないか。どうしていいかわからない。男は「逃げんじゃねえ、オイ、テメー」と因縁をつけてくる。うーん、ややこしすぎる。しばらくうしろを向いて立っていたが、さすがに頭にきたので、K-1のボディチェックのときみたいに、ほとんどチューしそうなくらいまで顔を近づけてやった。

おいっ、オトナをなめるな。わたしが社会人になっていらい、どれだけプレゼンの仕事をこなしてきたとおもっているんだ。おまえなんぞ、わたしのプレゼンテクニックで圧倒してやる。いつだって強いのは論理的な説得だ。見ていろ。わたしはおもむろに、「電車のなかで知らない人に因縁をつけることが、どれだけ自分の身を危うくするか」というテーマで、若い男にプレゼンを開始した。まずは「御社の現行スキームにおける問題点の提示」だ。

「オマエさあ、自分のやっていることわかってるわけ?」
「アーン?」
「知らない相手を脅かして。車両を移動したら追いかけてきて、また因縁をつけて」
「やんのかぁ?」
「やるわけないじゃん。俺は暴力なんてふるわないよ。オマエ、暴力ふるいたかったらふるってもいいけど。速攻捕まるけどそれでもいいなら殴れば」
「俺だって殴らねえよ」

まずは暴力という最悪の結論を理屈で封鎖。よしっ。こういっておけば、相手だってこんなに人がたくさんいるところで暴力をふるうわけがない。ここでわたしは相手から一歩リードした気分になり、アドバンテージを得たところで「考えうる解決策と、それに連動するプロシージャ」について話すことにした。

「わかってるとおもうけど、オマエ今すごく不利な立場だからな」
「ア、アーン…」
「一方的に因縁つけてきてるんだから」
「わかってるよ…」
「次の駅に着いたら降りろよな。駅員のところにいって話するから」
「いってやるよ!」
「オマエだって仕事とかしてるんだろう」
「会社員だよ!」
「そういう立場のやつがこんなことしてどうなるかわかる?」
「昨日就職したんだよ!」
「駅員のところいったらぜんぶ訊くからな。身分証明書とかあるだろ」
「ないっすよ」
「じゃあ携帯番号でいいよ。それで名前も住所もぜんぶわかるから」

だんだん男の語尾がですます調に近づいてきている。またしても一歩リードだ。こんなややこしいことをしておいて、ただで済ますなんて耐えられない。ちくしょー。内心、いくぶんやりすぎかなとおもいつつ、男への怒りは収まらず、プレゼンは「新スキーム施行後の御社像」へと移行していった。

「駅員につきだしたらこってりしぼるぞ」
「その前に話し合って…」
「話し合わないよ。駅員につきだす。勤務先も調べるぞ」
「昨日就職したんすよ!」
「勤務先調べて電話するからな。毎日するからな」
「アー…」
「俺はしつこいからな。会社に電話するからな(自分でもこれはちょっといいすぎとおもった)

わたしのプレゼンはおもいのほかうまくいきすぎてしまった。ややあって電車は駅に到着し、降りたわたしとそいつは、無言で歩きだした。ホームに駅員がいない。しかたないので、駅員室へ向かって、そいつとふたりで並んで歩いた。話すことなどとうぜんなく、無言でぽつぽつと歩く。とても気まずい。正直、わたしはめんどくさくなっていた。若い男は、自分がばかをやったことを後悔していて、なんだかしどろもどろになっていたし、いったんは激昂して「会社に電話してやる」などと過剰な怒りを見せたわたしも、そういったすべてがはっきりいってどうでもよくなっていた。

駅員室へ向かう階段を下りたところで、若い男がわたしにいった。「静岡にいったことはありますか」。なんだかわけがわからなかった。「いや、ないけど」。樹海です、と男はいった。俺、樹海にいったんすよ。なんかもう、いろいろだめで。リストラとかになって。彼の言葉は、あきらかにその場しのぎのおもいつきで、嘘だったけれど、わたしは彼の話をだまって聞くことにした。

「それで、樹海にいって、そこの施設に収容されて、もどってきて昨日就職したんです」
「むー…」
「で、あの、なんか、すげー失礼なことしちゃったんですけど、その、暴力をふるうとか、そういう気はなくて」
「うん」
「リストラされて、仕事ないし、ストレスとか…。で、ようやく東京にもどってきて」
「そうか」
「だから、ほんと、わるかったんですけど」

どうフォローしていいのかわからなかったし、男の言っていることは、いくら好意的に考えてもいいかげんなでたらめなのだが、わたしはつい「むしゃくしゃしてたんだな」と合いの手を入れてしまった。怒りはもうどこかへいってしまっていた。若い男は、目を赤くして、ちょっと泣きそうになりながら、しどろもどろの弁解を続けている。もうやめてくれとおもった。見ているこっちがしんどくなりそうだった。

「それで、ようやく仕事見つかって、だから」
「ついこう、やっちゃったと」
「そうなんです。だからその」
「そうかわかった」
「なんか俺、たまにおかしくなるんですよ、こう…」
「いや、わかるよ」

駅の階段はやけにしんとしていて、わたしと作業服の男はそこにじっと立って、結論のない会話を続けていた。彼は自分のばかさかげんにうんざりしているようだった。わたしは、自分でも、このもめごとの落としどころが見えなくて、「まあ、オマエ、いいやつだってわかったし、じゃあ最後に握手して別れよう」と、なんだかよくわからないことをいってしまう。嘘じゃん、樹海とか。ぜったい行ってないじゃん。そしてわたしはなんで握手しているんだ。ちょっとだけ握手したそいつの手はみょうにがさがさしていて、クリームとか塗れよとわたしはおもった。