2009-09-27
■[映画]『あの日、欲望の大地で』を見たゼ!
渋谷にて。すばらしかったです。ギジェルモ・アリアガという脚本家(『21グラム』『バベル』等)の初メガホンなのですが、やはり脚本家らしい緻密な物語の組み立てがみごとで、エンディングへ向けてうねるように進んでいくストーリーにはっとしました。ふたりの女性のエピソードを、時間軸の移動や場面転換で細かく見せていく手法も効果的で、後半ではつい、「やっぱりこいつか……!」などと、わかりやすい反応をしてしまいました。
たとえば、『レスラー』が、男の身勝手さも含めた「男性性」を描いていたように、この映画は、まるで女性版『レスラー』のようであって、せっかくの可能性を取りこぼしてしまう弱さ、信頼を得るチャンスをことごとくしくじってしまう情けなさを、女性というフィルターを通して描いているのだと、わたしはおもう。この映画は、かろうじてハッピーエンドらしき予感をもって終わるが、それでも、ストーリーはどこか後悔と煩悶に満ちていて、女性のやりきれなさとまっすぐに向きあった物語になっている。
いったい女性は、どのようなときに、満たされなさを感じるのだろう。たとえば、男にとっての満たされなさが、「のどが渇いているのに、水を飲めない」という状態だとすると、女性の満たされなさとは、「いくら水を飲んでも、のどの渇きは満たされないし、水を飲めば飲むほど、さらにのどが渇いていくような気がする」といった状態なのだと、この映画を見ておもった。周囲はきっと、「そんなに水ばかり飲んでいて、どこが渇いているのだ」とふしぎにおもうだろう。しかし、女性にとって、つねにのどは渇いていて、潤いを欲しているし、ときに水を飲むことは苦痛ですらあるのだが、それでも、水を飲むことを止められない。
この映画は、そのような女性の渇きを、砂だらけの荒涼とした土地に結びつけながら描いていて、彼女たちは、その渇きにひきずられるように、さまざまな信頼やチャンスを失っていく。そしてその手からたくさんの愛情やつながりがこぼれ落ちていくとき、わたしは、人の心が渇いていくことのみじめさと苦痛をあらためて感じて、なんだかふるえるような気持ちになってしまう。自分でもコントロールが利かないほどに自堕落になってしまったり、女性ならではの共感能力の高さが裏目にでてしまったりと、どこか救いの見えないできごとがつづく。
よかったのは、やはり監督の出身地であるメキシコを舞台にしたシークエンスで、女の子の可憐さもすてきだったし、傷跡というモチーフもじつに効果的だった。女性の身体性に、作品にとって重要な意味があって、そこでは、からだにつけれられた傷、消えることのない傷跡が大きな役割を持っている。ここまで女性性を描いていながら、作品の監督は男性で、そこにもちょっとびっくりしました。




