空中キャンプ

2010-10-19

[]『のはなしさん』/伊集院光

好評につき第三弾、文章家としてもアイデアの豊富さとキレのよさが光る伊集院光のエッセイ集。今回もさらにクオリティの高いテキストになっており、ユーモア、視点の鋭さ、脱線のうまさなどどれもみごと。なかでもひとりでに増殖していく妄想のモチーフは秀逸で、読みながら「これってニコルソン・ベイカーみたいだ」と驚かされました。2001年から2006年までのあいだ、メールマガジン用に書かれたエッセイを加筆訂正したもの。

このごろよく考えるのは、小説やエッセイといった表現形式や、純文学やエンターテインメントといったジャンルは、いったん文章となって人の目にふれるとき、その区別がほぼ無効化するのではないか? ということだ。かつてわたしは「ジャンルにはそれなりに意味があり、形式による区別は成立する」という立場を取っていたし、そうしたフォーマットから遡及して作品が成立する場合が多いとおもっていた。しかし、もしある文章に快を感じたり、なんらかのおもしろさを見いだしたとき、そのよろこびはジャンルや形式を飛びこえてしまうのではないか、ということを考えるようになった。そうした文章は「なんだかよくわからないが、えらく響いてくるテキスト」としか呼びようのないものだ。

ユニークなテキストを手にしたとき、きっと読み手は自分の読みたいように読んでしまうし、そこで読み手/書き手が共に、無意識のうちに形式やジャンルを超えてしまう場合がある。エッセイやエンターテインメントに純文学を感じることも、またその逆も、読み手にとっては自由だし、彼らはいわれなくてもみずから進んでそうするだろう(わたし自身もおそらく同じである)。ことほどさように、伊集院の文章はエッセイといえばエッセイなのだが、そのイマジネーションはときにきわめてアクティブで、どうカテゴライズしていいのか判断できない場合がある。彼が高校時代、野球部の大切な試合であっけなく負けた瞬間を回想した文章はこうしめくくられている。

時は流れて現代。熱い日の昼下がりボーッとしている時などに、そのときのことを思い出す。思い出すなんてもんじゃない。僕はまだあのときのネクストバッターズサークルにいて、長い白昼夢を見ていたかのような気持ちになる。高校中退やら落語やらラジオやら結婚やら犬やらこの本やらこの20年くらいの出来事は、吉田先輩のダブルプレーから山本先輩の怒鳴り声の間に見た夢で、気づいたら整列して「ザシタッ」。全部やり直しなんじゃないかと思ったりする。

こうした文章は、凝縮されたイメージのつまった文学としてわたしには響いてきて、彼がいままでに経験した幸福や出会った他者に感じているある種の脆さ、儚さのような感情がさりげないメタファーで描かれているようでふとページを繰る手が止まってしまう。もしどこかにいる誰かが、わたしの人生を「全部やり直し」だと宣言したら──。こうした鮮やかなイメージをエッセイのなかに持ち込める書き手が伊集院であり、そうした文章を読むわたしは、これを「なんだかよくわからないが、えらく響いてくるテキスト」としてしか捉えることができない。それはすごいことだとおもう。

ユーモアのセンスも秀逸で、なかでも彼が浮気をしたことがない理由として「純愛主義とか、先祖代々ペンコロファッフォン教の戒律『毎朝毎晩お祈りを欠かさない』『一人の女性を愛しつづける』『ゴリラの子供をいじめない』をかたくなに守り続けているとかそういう立派なものでもなく、ただ、宝くじに当たったお金を全額万馬券にぶち込むような真似をしても丸裸になるだけ、今相手がいてくれるだけでも超がつくほどラッキーなのに、欲張ってすべてを失うのはまっぴらという、ゆるい感じのもの」であると説明するあたりの無意味なモチーフの重ね方など、そのセンスのよさに笑ってしまう。さらっと読めてなおかつおもしろい、というとてもいい本でした。それと「焼肉店でねぎタン塩を焼くとき、片面を焼いて裏返すときに、せっかくのねぎが網の下へ落ちてしまうのが残念でならない」というくだりにとても共感しました。あのねぎがどうしても食べたかったです。