空中キャンプ

2018-07-01 映画『ブリグズビー・ベア』

『ブリグズビー・ベア』
ストーリーは更新されなくてはならない

f:id:zoot32:20180701113128j:image

1981年3月30日、ワシントンDC。25歳の青年ジョン・ヒンクリーは、その年に大統領へ就任したばかりのロナルド・レーガン暗殺を試みた。ヒンクリーはかねてからジョディ・フォスターのストーカーであり、大統領の暗殺に成功すれば、彼女に認められると考えていたのだ。いったいどのような理由により、彼が「大統領を暗殺すれば、意中の女優が振り向く」と、何の脈絡もないふたつの事象を関連づけたのかはわからない。しかしヒンクリーはそのような奇矯なストーリーに沿って生きていたのであり、レーガン大統領暗殺未遂事件が私たちに独特の憐憫を呼び起こすのは、犯人がかかるみじめな物語のなかでしか生きられなかったことの空虚さゆえである。

私たちはみなストーリーに沿って生きている。人は何らかの物語のもとでしか生きていけないからこそ、誰もが内部にストーリーを持ち、日々修正をおこない、更新していく。私たちの生を稼働させているのは物語なのだ。とはいえ、第三者からは内心など不可視であり、他者のストーリーが暴走することを防ぐ手段も限られているため、ときに個人の脳内に紡ぎ出される物語はまったく非現実的ででたらめな方向へと脱線してしまう。それが社会と折り合いのつくレベルであればまだいいが、先述したヒンクリーのようなケースにもなりかねない。われわれはストーリーがなければ生きていけないが、それは同時に危険をはらんでいる。あまりに現実と乖離したストーリーを生きる者は警戒されるのだ。では、われわれはいかにしてよき物語を生きることができるのだろうか。

『ブリグズビー・ベア』は、人びとがストーリーに沿って生きていくという営為を軽快な語り口で描きつつ、そのダイナミズムを真摯に追求する作品である。生まれた直後に誘拐された主人公は、誘拐犯を両親と信じ込み、25歳まで地下室で軟禁されて育った。軟禁中の彼は、クマの着ぐるみが活躍する教育番組「ブリグズビー・ベア」をこよなく愛し、その作品世界の研究に没頭する日々を送っていた。それは閉鎖的ではあるが、満ち足りた時間でもあった。警察の手により現実世界へ帰還した彼は、ほんらいの両親、妹とともに暮らし始める。それは、主役を演じたカイル・ムーニーが説明するように「世界がひっくり返る(His whole world filps upside down)」*1 ような経験であった。彼が抱く「ブリグズビー・ベア」への愛は、周囲に理解してもらえない。忌まわしい誘拐の記憶と結びついた教育番組を拒絶する家族と、変わらずに物語世界を愛する主人公のあいだで軋轢が生じる。これが本作の主要テーマである。「僕はこの世界ではアウトローだ」と述べる主人公は、「ブリグズビー・ベア」が危険思想とみなされることを承知している。彼は愛する「ブリグズビー・ベア」を忘れて前進するべきなのか。そもそも正しい物語とは何か。人がどのようなストーリーを生きるべきか、他者がその是非を判断することはできるのか。

こうしたあらすじは、ただちにいくつかの類似作品を連想させる。人工的な環境で育った主人公が、外の世界が存在することに気づくというあらすじは『トゥルーマン・ショー』('98)的であり、自分の生きていた世界がフェイクであったと気づく展開は『マトリックス』('99)と同じ構造である。これはたとえば、シャマランの『ヴィレッジ』('04)なども同様だ。また「あるひとつの物語を生きる人」にまつわるプロットで言えば、『ラースと、その彼女』('07)のように、人形を恋人であると信じる主人公と、その設定を受け入れようとする周囲の様子が例として挙げられる。『グッバイ、レーニン!』('03)に出てくる母親のように、強く社会主義を信奉しながら、病気で昏睡しているあいだに東西ドイツが統一されてしまうというコメディ的展開もそこに関連づけられるだろう(周囲は東ドイツがまだ存在しているものとしてふるまい、母親のストーリーを守ろうとする)。また『勝手にふるえてろ』('17)は、中学時代の同級生を10年間想いつづけた24歳の主人公が、その長きにわたる淡い妄想がついに終わった後の世界を生き始める様子を描く。これらはみな「ある物語を生きていた主人公が、物語の終焉を悟り、(ある種強制的に)あらたな人生を歩み始める」という同種の鋳型を持つといえる。

おもうに、前述した過去作品群に共通するのは、「成熟とは断念である」という認識であった。『ラースと、その彼女』において主人公が、恋人であった人形のイマジナリーな死を受け入れるという苦い結末が示すように、現実と折り合いのつかない物語に別れを告げ、現実に見合ったタイトな物語へと着地するプロセスが共通していた。『ブリグズビー・ベア』もまた上記作品に連なるプロットではあるが、彼は「ブリグズビー・ベア」という物語を高く掲げて世界へ参入することに成功している。断念とはまた違ったかたちで、彼は前進するのだ。主人公は物語をみずからの手で完結させることを選ぶが、かかるプロセスにおいて主人公は確実に成長している。

映画製作の作業が否応なく他者性を持つことは、主人公が成長した要因だろう。気のいい警官や、病院で知り合った友人、かつて番組に出演していたヒロイン役の再登場などによって、彼の作る映画は確実に社会と混じり合っている。しかしそれ以上に、これまでセット撮影しかされていなかった「ブリグズビー・ベア」が野外でロケ撮影されていること、多数の観客がいることの意味は大きい。物語が世界に開かれる瞬間が、フィルムにしっかりと刻印されているのだ。これまで自分を培ってきた物語を肯定しつつ、同時に、それをみずからの手で終わらせること。そのプロセスが、開かれた環境のなかで進んでいくこと。それこそが『ブリグズビー・ベア』の美点である。苦い断念として物語を破棄するのではなく、自分を培ってくれた至上の価値として「ブリグズビー・ベア」を称揚しつつ、気がつけばそれを乗り越えてしまっているのだ。そして奇跡的なことに、この「乗り越え」は何も排除しない。かつての誘拐犯である男すら取り込みながら、主人公はあらたなストーリーを語ることに成功してしまう。

おそらく、よき物語とは更新されていく物語のことなのだろう。生きていくためには、同じ場所に停滞しないストーリーが求められる。主人公は創作を通じて、みずからの物語を更新することに成功した。更新されなくなった物語に固執するのではなく、よりよいかたちへ変化させていくことができた。創作とはまさに、内なるストーリーの更新なのだ。ゆえにそれはかけがえのないものだ。私たちは生きるための物語を日々変化させていく必要があり、そうした営為こそが人びとにより豊かな生をもたらす。そして観客は、「さあ、あたらしい物語を作ろう」という主人公の新鮮な意欲に触れ、ただ涙を流すほかないのである。

※1 https://www.youtube.com/watch?v=liKXpyhUebM

Twitterの『ブリグズビー・ベア』評 https://twitter.com/campintheair/status/1010723024775962625