二項対立解除!


 最近よく言及させていただいている囚人022さんのブログにて、なんとなく勢いで書いたコメントから話は始まってみたり。


「なぜおた問題」っていうか…(グダちんさんへの私信)
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1233.html


 込み入った話題なので、詳しくはリンク先を読んでいただきたいのですが。
 ここに書き込んだ私のコメントが、

>閉鎖した楽園”には満足できないというのに、激しく賛同します。

そこに賛同するという形で、
「閉鎖した楽園に満足している人たち」に対する選民意識になってるのでは?
と言われたら、囚人022さんはどう答えます?

なんて、意地悪な事を言ってみたり(笑

まあ、この手の二項対立から逃れるっていうのは、
なかなか大変で厄介な問題なんですよねぇ。


 こんな感じ。ちょっとふざけて言ったつもりが、若干突っかかるようなニュアンスになってしまって、上手くなかったなぁと反省したりしているんですが。
 囚人022さんのレスは以下。

# 意地悪?(笑)
海燕さんも、
「と、偉そうにいったけれど、これ、ぼく自身にもブーメランになって返ってくる問題なんだよなあ。お前自身も「依存」したり「排斥」したりしているんじゃないか?って。まずはそこのチェックからですね。」
・・・と言っておられるとおりで。
激しく賛同したというのは強い共感ということなんですけど、共感することも反発することも禁じ手にしてしまうべきだという話じゃあないと思うんですよ。
共感することがあり、反発することがあり、同時に、そのどちらでもないところで、「他者」との対話ということがある。
おっしゃるとおり、楽なことではないんですけど、まずはそうした認識の部分から、はじめるしかないんじゃあないでしょうかね。


 さて。
 基本的にはおっしゃるとおりで、「共感」「反発」を禁じ手にする、というのは確かに違いますね。そのように読める私の書き方が、この場合悪かったと言うべきです。


 しかし同時に、なんで私がこんなリアクションをしたかという部分は書いておこうかなと思い立ち、こんなエントリーを立てている次第なんですが。
 若干ナイーヴすぎるというか、慎重すぎるきらいのある私は、「そうそう、それなんですよ!」という、手放しに同意するようなリアクションの時点で、もう黄色信号が点るという厄介な男でして。
 また、囚人022さんが


共感することがあり、反発することがあり、同時に、そのどちらでもないところで、「他者」との対話ということがある。

 と述べてらっしゃるのも、私の信条とズレがあるように感じたので。その辺からまずは書いていこうと思います。
 ……あ、その前に、言い訳じみた前置きをさせてください。
 これ以降書くことは、上記のようなやり取りを契機に、以前から自分で考えていたことをまとまった形で書いてみようという性格のものです。
 今回の話題に引き付けて書くつもりですが、一部、囚人022さんへのレスの域からはみ出してしまう部分もあるかと思います。「そんなつもりで言ったつもりはない」という所があったら、ごめんなさい――と先に謝っておきます(ぇ



 さて。
ある見解に対して、「共感」している人がおり、「反発」している人がいる。その両者が対立している……というのは、まあネット上ではよく見かける情景です。身も蓋もなく言ってしまえば、信者とアンチってヤツですか。
 これは、まあ一つの二項対立を形成しているわけです。
 問題はここからで。「共感か反発か」しかない状態に対して、その二項対立から抜け出すものとして「そのどちらでもない」ところに「対話」を置く、という事なんですが。実は、これはこれで新たな構図の罠に嵌る可能性を生んでいる、と私は危惧してしまうんです。


 話をわかりやすくするために、ガンダムを例に出しますね(えぇ〜


 連邦とジオン、という二項対立がありました。その凄惨な戦いから抜け出すため、連邦でもジオンでもないところに、「ニュータイプ」という新たな希望を設けました。
 どうなったか。
ニュータイプ」という言葉は、「オールドタイプ」という言葉を生み出し、結果として別な二項対立の構図を作ってしまいました。さらにそれは、「スペースノイド」と「アースノイド」という別な二項対立ともいつの間にか混ざり合い、さらなる争いの火種となっていきました。


 ……と。実は、既存の二項対立に対して、そのどちらでもない「第三項」を持ち出すというのは、二項対立解除の方法としては失敗しやすいのです。
 何故なら、新しい第三項の正当性を述べようとすれば、「過去の二項」対「新しい第三項」という二項対立が出来上がってしまうからです。
 上に引いた、いただいたレスを見てみると、囚人022さんは何となくその危険性も感じて、慎重にそうした陥穽にはまらないように、と用心してらっしゃるようなニュアンスも感じるんですが。
 繊細なニュアンスであるが故に、そこが磨耗して消えてしまう可能性もあるわけです。たとえば、新たな賛同者が現れて、「そうですよね、俺ら“共感か反発か”しかできない連中とは違いますよね!」と言い出すようなケースを考えていただければ分かりやすいと思いますけども。


 二項対立の罠から逃れるには、じゃあどうすれば良いか。
 新たな第三項を立てるのが上手くないなら、既にある二項の中でどうにかするしかありません。
 で――ここでは、私が知る中で、この「二項対立解除」をフィクション作品の中でものの見事にやってのけた事例を二つ、挙げてみます。
 まあ、片方は高校時代からの私を知っている人にとっては「またかよ」ってネタですし、もう片方はこのブログの常連さんにとって「またかよ」ってネタなんですが。
 つまり、コミック版『風の谷のナウシカ』と、『機動戦士クロスボーンガンダム』なんですけどね(ぇ


風の谷のナウシカ』から始めます。以下、ものすごい勢いでネタバレしますので、注意です。




 ストーリーの終盤、ナウシカは土鬼の首都にある、「シュワの墓所」と呼ばれる建造物と対話します(生きている建造物、というのは宮崎作品に時々出てくるモティーフ)。
 その墓所は、現在の汚れた世界が完全に浄化された後、人間もそれに合わせて清浄に作り変える技術を持っています。清浄な世界で、まったく汚れのない身として生きられるようになる。その来るべき救済のために、王たちよこの墓所を守り続けよ、と。


 さて。非常にありがたい言葉に聞こえますが、これは分かりやすく言ってしまえば、「現状の、苦しくて汚れた世の中なんて嫌だろ? 俺につけば、そんな汚れなんかとは無縁な、清浄な生き方ができる。だから俺の側につけ」と言ってるわけです。
「清浄な世界」と、「汚れた苦しい世界」との二項対立。その中で、墓所は「汚れた世界」の方を切り捨ててしまえ、と誘っているのです。
 ナウシカは答えます、「否!」と。


絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない
その人たちはなぜ気付かなかったのだろう
清浄と汚濁こそ生命だということに
苦しみや悲劇や愚かさは清浄な世界でもなくなりはしない
それは人間の一部だから……
だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに

 墓所は、ナウシカを「お前は危険な闇だ」と言います。「生命は光だ!」と主張します。
 それに対して、ナウシカは答えます。

ちがう
いのちは闇の中のまたたく光だ!!


 ……高校時代、ここを読んだ時の衝撃は忘れられません。今も私の思考の根本部分を成している言葉の一つです。
 ともあれ、ナウシカの言葉によって、「清浄」と「汚濁」の二項対立は退けられているのがお分かりでしょうか。生命の中には、その両者がどちらも存在し、分けることはできない。そう主張することで、二項のどちらか片方のみを支持するからこそ成立する対立は失効します。


「善」と「悪」などでも同じで、自分の中にも悪心というやつがある事をまずは認めること。全然なんの悪心も起こさない人間なんていません。そういう認識を常に戒めとして持っていれば、たとえば犯罪事件などについてコメントする際にも、必要以上にヒステリックになったりせず、ある程度は理性的に考える事もできます。



 もう一つ、『機動戦士クロスボーンガンダム』について。
 ここでは、上でちらりと書いた、「ニュータイプとオールドタイプ」という二項対立についての決着がつけられている、と私は認識しています。
 以前、『ロイ・ユング将軍のMS戦争博物館』で文章として起こしたことがありますが、もう一度述べることにします。


 物語の後半において、主人公のトビア・アロナクスは、貴族主義者でブッホ・コンツェルン使節であるシェリンドン・ロナから半ば強引な誘いを受けます。

戦いでしか――ものごとを解決しようとしない人たちは――
いずれ滅びてしまいます
それはしかたのないことでしょう
ですがそれにわれわれがひきずられてはなりません
私にはニュータイプの力は
“神”があたえたもうた力だと思えるのですよ
戦って――滅んでゆくしかな人類になげかけられた
生きのびる術――希望
ですが――今はまだあまりにもその数が少なすぎる
だから――あなたはもっと先をみてトビア!
あなたの力を汚れた戦いに使ってはいけないの


 これも、あえて下卑た言い方で要約してしまえば、「私たちは他の連中とは違う、戦わなくても済む進化した人類=ニュータイプだよね、わかるでしょ? だからオールドタイプなんかには関わらないほうがいいよ」と言ってるわけです。
 トビアは拒否します。
 そして後日、このシェリンドンにあてて手紙を書くのです。

あなたは1日に12kmの山道を歩くことができますか?
それはぼくたち宇宙育ちからみればとんでもない能力なんです。
でもそれは"進化"したわけではなく人間がもともと持っている力――
"環境"にあわせて身につく人間自身の力――
だからカンが鋭かったり先読みがきいたりするNTの能力も
単に宇宙という環境に適応しただけで、
ぼくらはまだ昔と同じ"人間"なのでしょう


 進化したニュータイプに対して、劣ったオールドタイプという構図をトビアは解体して見せたわけです。非ニュータイプの人たちも、ポテンシャルとしてはまったくニュータイプと変わらないだけのものを持っていて、けれど地球という場所に適応した結果、感覚が鋭くなったり先読みが利いたりする代わりに、12キロの山道を歩くといった別な方向に能力を伸ばしていった。
 つまり向いている方向が違っただけで、ニュータイプもオールドタイプも、どちらが劣ってどちらが優ってるなんて事はない、と。


 以前、この件について、うちのリンクの中にある「キャノンスパイク発射基地」のキャノン娘さんが、
クロスボーンガンダムでは、新たな感覚を得た人類であるニュータイプが、体を鍛えた
健常者と変わらないという事にしてしまった。視力のある人と、無い人のハンデは凄ま
じいものがあるのですが、なぜニュータイプ能力の有無がそれほどの規模のハンデでな
いと言えるのでしょう?」
 とメールの中でおっしゃっていました。
 確かに、ニュータイプが「人の革新」であるという設定に慣れていた人には、この部分は理解しにくいかも知れません。
 一応注釈しておきますと、コロニーで暮らしているトビアやシェリンドンたちにとって、そんな長距離を歩く能力は無い、ということです。人工的な大地であるコロニーで、また移動手段も確保されていますから、そもそもそんな長距離を歩くことはない。また、コロニーでかかる重力が、地球の重力ほど強くは無いことも考えられます。
 現在、スペースシャトルに乗る宇宙飛行士の人たちが、長期間宇宙に滞在すると「足腰が弱くなってくる」ように、コロニー暮らしのトビアたちにとって、地球暮らしの人たちとはかなり身体能力に超えがたい差が開いているらしいことは、作中から読み取るべきです。
 一方、人間のポテンシャルに元々、ニュータイプのような「感覚の鋭敏さ」を得るものがあって、しかし地球のような刺激の強い場所では、あまり感覚が鋭すぎては支障が出るので、あえて感度を低める方向に適応した――という考え方だって、できないとは限りません。
 宇宙空間と違い、地球上では地面の下にも億単位の微生物や虫たち、その他四方八方に無数の生命があります。それらすべてを鋭敏に知覚してしまったら、かえって狂ってしまうでしょう。だから、地球に住むアースノイドは、また人類自体が、あえて感度を下げる方向で適応しているかもしれない。
 トビアが言ってるのは、穿った言い方をすればそういうことです。とにかくここで重要なのは、ニュータイプが優れた人類で、オールドタイプが劣った人類であるという構図を崩す事です。その考え方こそが、「なら劣ってるオールドタイプは滅びちゃえ」という過激な考えのトリガーに成りかねないのですから。


 以上、長々と書きましたが、先人の作品、それもコミック作品にも、こうした問題を考えるヒントはあるというわけで。
 今、ネット上では、安易な二項対立による不毛な論争も珍しくありません。そうしたものに出会った時に、「どちらか片方を切り捨てたりせず」、「二項の両方が自分の中に内在するのではないかとよく省みて」、冷静に言葉を発していく必要があるんだろうなと思います。


 以上。なんか囚人022さんの提起された話題から、ものすごく脱線しまくった気もしないでもないですが、あまり深く考えずにエントリー。そしてもう寝ます。もう早朝だけど。眠い!(投げっぱなしかよ