Gレコ読解キーワード2:君の目で確かめろ!

            (1)Gレコは「戦争もの」ではない?
 歴代ガンダムシリーズのファンの方の中には、『Gのレコンギスタ』を見て違和感を感じ、あるいは「ガンダムっぽくない」と感じられた方ももしかしたら多数いるかも知れません。場合によっては、そのためにGレコを楽しめなかった方も、あるいはいたかも知れません。


 作品を楽しめなかった、というのも一つの感想であり、筆者である私はそうした感想を否定する意図はありません(というか、感想というのは原理的に、本人以外の誰にも否定されようがないものです。そう感じてしまったものはしょうがないわけで)。しかし、では「なぜそう感じたのか」を筆者なりに分析する事はできます。そして、楽しめた人も楽しめなかった人も、視聴時の感興とはまた別な、客観的な視点からこの作品の「ねらい」を、それを受けての「評価」を考えていくことは、可能なはずなのです。


 『Gのレコンギスタ』がなぜ「ガンダムっぽくない」のか、という事については、理由と思われる「違い」が明確にあるように思います。
 この物語は、かなりの最終盤になるまで、「戦争」を描くことをメインに据えていないのです。
 ガンダムといえば戦争を描いたアニメ作品。ファーストガンダムでは「戦争を知らない子どもたち」を戦争状況の中に叩き込み、『Zガンダム』以降もその時代時代の特色を取り入れた戦争像を、巧みにロボットアニメの中へ織り込み続けていました。
 Gレコもまた、兵器としてのモビルスーツが登場し、国や武装勢力同士の戦いが描かれているという意味では、戦争を描いています。しかしそうであるにも関わらず、この物語は戦争を描くことをメインのテーマには据えていません。
 3話くらいまでの時点では「海賊部隊vsキャピタル・アーミィ」だったのが、そこから「アメリアvsキャピタル・アーミィ」へ、そして「地球人vsトワサンガ」と来て、上記の通り「トワサンガ急進派vsレジスタンス」から「金星圏穏健派vs急進派」と、物語が進むごとに新しい勢力が現れ、そのたびに劇中の対立関係はかき回され、一旦無効化され、そして更新されていきます。この物語は、特定の対立関係に焦点を合わせて、その戦争の様態をじっくり描くという事を全然していません。むしろ目の前に現れた対立関係を視聴者が把握し、その問題に取り組もうとした頃には、主人公たちはまた次のステージに進んで、新たな勢力を物語に引き込んでいくのです。


 では、戦争を描いていないとすれば、この物語が描こうとしていたのは何か。ポイントになるのは、この連載記事第2回の肝になる、アイーダのこの言葉です。



メガファウナトワサンガに行くと伝えて、支度をさせてください」



「だから確かめにいくんでしょ!」(第13話「月から来た者」)


 この、トワサンガへ行こう、行って自分の目で確かめようという主人公たちのアクションが、Gレコの物語を「ガンダムっぽくない」話にしているのです。何故かって?



 この直前、地球に住むアメリア、キャピタル・テリトリィなどの住人たちの前に、月からやってきたトワサンガの人々が艦隊で現れ、既に小規模ながら武力衝突も起こっています。第13〜14話くらいまでの時点では、月の部隊は地球側のそれと比べて練度も高く強大であるように見えていました。
 もし、通常のガンダムシリーズだったら、この後の展開はどうなっていたでしょうか。おそらく、目の前の対立関係に向かい合い、地球側の人間として事態の収束のために動こうとしたのではないか、と思えます。
 ところがベルリやアイーダたち、Gレコの主人公たちはそのような行動に出ません。むしろ、そのトワサンガというところを見に行こうと言い始めるのでした。


 メガファウナがたどった、地球のキャピタル・テリトリィからザンクトポルトトワサンガビーナス・グロゥブへというルートは、このリギルド・センチュリーの対立関係を生み出している原因であるエネルギー、フォトン・バッテリーの出所をたどる旅です。既に指摘している方が多数いらっしゃいますが、このGレコの物語は、ストーリーの構造が戦争ものというよりもファンタジーに近い。世界の秘密を探るために旅に出る、そんな物語になっています。様々な不満を生み、様々な勢力を動かしているフォトン・バッテリーというものを「君の目で確かめろ!」というのが、全体の8割以上の話数においてメインとなっている主題なのでした。
 富野監督はインタビューなどで、こうした全体の構成を「ロードムービー」のようなものだとコメントしていたようですが、つまり既存のガンダムのストーリーとは違う構造を持っていたことをここでまず確認していただきたいと思います。


 ……とはいえ。これを、ただ単に「話に聞いたというだけじゃなく、自分の目で確かめるのが大事だよ」という程度のありふれた教訓のための物語だ、と判断するのは早計です。
 現に、ベルリたちはフォトン・バッテリーの出所をたどってはるばる金星まで出向くわけですが、結局、ビーナス・グロゥブにて、フォトン・バッテリー生成の過程を工場見学したり、といったような場面があるわけではありません。もしこの話の教訓が「百聞は一見に如かず」程度のものだったとしたら、金星にて工場見学をする場面というのがメインに置かれたりしていてもおかしくなかったように思えます。


 では、一体、この物語が今までの物語パターンを覆してまで描いたのは、何だったのでしょうか。



            (2)状況を外部に開く
 視点を変えてみましょう。ベルリたちがトワサンガに行ったことで何が変わったか。
 ザンクトポルトを舞台にした12〜14話あたりにかけて、まずトワサンガという新勢力が登場したことで大きな変化がありました。それまで敵対していたアメリアのMS隊と、キャピタル・アーミィのMS隊が、



 共闘する事になったのです。(同じく第13話)
 つまりこの瞬間、対立していた地球側がトワサンガを前に共同戦線を張る形で手を結び、事態は地球vs宇宙という構図になりました。そう、ガンダム伝統の「アースノイドvsスペースノイド」の対立です。ファーストガンダムから∀ガンダムまで、非富野ガンダムも含めて最も多用されたガンダムシリーズの黄金パターンです。


 ところが、ベルリやアイーダたちがアースノイド側の戦力として地球に留まる……という事をせずに、トワサンガに出向いたことでどうなったか、といえば、実はトワサンガ側にも急進派とレジスタンスがあって必ずしも一枚岩ではないという事が判明し、さらにそれに合わせて、クリム・ニックたちアメリア艦隊とマスク大尉たちキャピタル・アーミィトワサンガ急進派のドレッド艦隊に合流し、一方メガファウナ側はレジスタンスと行動を共にすることで……せっかく一時は共同戦線を張っていたキャピタル・アーミィメガファウナのMS隊は再び交戦するような関係になってしまいました。


 お分かりでしょうか? スペースノイドvsアースノイドという、ガンダム伝統の対立構図が、「トワサンガへ行く」というメガファウナの行動によって引っ掻き回され、無効化されてしまっているのです。

 こうした攪乱は後々にも繰り返されます。ベルリたちが金星に出向くことで、ビーナス・グロゥブの勢力が状況に参加、さらにこの金星にも急進派と穏健派がいるという事が判明し、金星急進派ジット団の介入によって戦局はさらに混迷を極めるのでした。


Zガンダム』で後半に入りアクシズが事態に介入してきた、といった事例はありますが、このように初期に提示された対立関係や組織が次々と目まぐるしく変わっていく展開というのは、これまでの歴代ガンダムにはあまりなかった状況です。
 そして恐らくは、これが歴代ガンダムが取り組んできた「戦いを収束させる方策」に関する、最新の答えなのではないかと筆者には見えるわけです。



            (3)二項対立解除ver.2015


 Aという勢力と、Bという勢力が対立し争っていた時に、これをどのようにすれば収束させられるか。多くは、以前以前ガンダムAGE解説記事で述べたことの復習になりますが、ざっと駆け足で触れてみますと……。


 言うまでもなく、ファーストガンダムにおいて「地球連邦とジオン公国」との戦争に対して提示された希望が、「ニュータイプ」でした。「誤解なく分かり合える人々」「戦争などせずにすむ人類」であるとされた、宇宙に適応することで認識力の向上した人類によって、いずれ戦いが克服されるかもしれないという希望です。
 ところが、続く『Zガンダム』以降の続編作品において、こうした希望を無批判に語ることに対して、かなり抑制的な態度がとられていく事になります。というのも……。



「時代は変わったんだ。オールドタイプは失せろ!」(第23話「ムーン・アタック」)



「私は、宇宙に出た人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにする為には、誰かが人類の業を背負わなければならない」(『逆襲のシャア』)


 ニュータイプという言葉は、対義語としてオールドタイプという言葉を生んでしまい、これが新たな対立関係になり兼ねない状況になってしまったのでした。そしてその果てに、「人類全体をニュータイプにする為」として地球に人を住めなくする、そのために隕石を落として大量殺戮を招くという、過激な動きにまで行き着いてしまう事になります。
 要するに、「ニュータイプが戦争をせずに済む優れた人類なら、そうじゃない劣った人類=オールドタイプは排除しよう」という選民思想になりかねなかったのです。


 という次第で、AとBの対立を相互理解によって解消しようという当初の希望は、別な対立を生んでしまう可能性の前に挫折したのでした。


 一方、90年代以降では、このAとBとの対立に対して、そのどちらにも与せずに、



 自らが第三勢力となる事で対処しようとする道も模索されました。
 古くは『0083』の終盤において、デラーズ・フリートにも、またシーマ艦隊を抱き込みティターンズ化しつつある連邦にも反発したコウ・ウラキたちアルビオンの戦力が第三勢力化した展開があり。以降、『ガンダムW』終盤、あるいは



ガンダムSEED』の三隻同盟まで、こうした展開も一つのガンダム的な類型として指摘できます。
 そしてその最も大規模な試みが、



 自分たちが世界共通の敵となる事で、対立する世界を否応なく一つにまとめようというソレスタルビーイングの試みだったと言えます。


 ……しかし、A対Bという大状況に対して主人公たちが中立的に振る舞っても、どうしてもその規模には限界があり、影響力が限定的にならざるを得ないという問題点もありました。
 SEEDのキラたちにしても、ソレスタルビーイングにしても、同時代の技術レベルからはあり得ないくらいの高性能MSとパイロット能力があるからどうにか成立しているわけで、現実的かと問われると大きく疑問符がつきます。
(余談ですが、そこで第三勢力の所持するMSをほぼ同時代レベルとして、結果として大したことができていないところをそのまま描いたのが『ガンダムAGE』の宇宙海賊ビシディアンであり、物語の盛り上がりに寄与しているかどうかは疑問ですが、上記SEEDや00への批判的文脈で見るとそこそこ面白かったりします。……まぁ、そんな面白がり方はマイナーもいいところでしょうがw)


 一方、現実でも比較的よく使われているのが、AとBの対立に対して、両者に共通の敵Cを外部に指摘して、それによってAとBを共闘させる形で和解させるという方法ですが。これはこれで非常に危険性の高いやり方であることは、『ガンダムAGE』のフリット・アスノが実演して見せてくれていました。



「僕たちの敵は、UEだ!」(第8話「決死の共同戦線」)
 コロニー・ファーデーンで対立していたザラムとエウバという二つの勢力を、少年時代のフリットはこのように言って共同戦線を張らせる事に成功します。ところが、A対Bという対立にCを持ち出して両者を共闘に持ち込んだ結果、今度は(A+B)対Cという新しい対立構造のど真ん中当事者になってしまい、今度はそこから抜け出せなくなってしまいます。そのことは、



 老年期フリットの「ヴェイガンは殲滅だ」発言によって嫌というほど視聴者にも印象付けられたことと思います(笑)。


 以上を踏まえて、『Gのレコンギスタ』が見出した方策を眺めてみると、実に大きな転換を読み取ることができるのではないかと思います。
 最大の違いは、AとBの対立に対して、これらの和解、「分かり合う」事を目的としないという事です。むしろ視野を広げることで、今までAとBしか見えていなかったその外側にCという別な勢力を見つけ、これを状況に引き込んでしまう。さらにDを、Eを。
 それで何が起こるかというと、AとBの対立という、強固で絶対的に見えた対立関係が、CDEと加わった全体像の中の部分的な問題へと相対化されるという事でした。別な勢力、別な視点や問題が持ち込まれることで、「A対B」という対立はシンプルな二項対立関係ではいられなくなるのです。
 また、別な存在が同じ場にいることで、AとBはうかつに動けなくなる事もあり得ます。互いに牽制しあう圧力は、陣営が二つしか無かったときに比べて大きくなるでしょう。


 すこし抽象的で分かりにくい話になってしまって申し訳ないですが。
 たとえば前述の通り、トワサンガのドレッド艦隊が登場し、これに対抗するためにアメリアとキャピタル・アーミィが共闘体制をとった時点で、Gレコの物語は一時的にガンダム伝統の「アースノイドvsスペースノイド」という対立構図の中に入りかけます。
 しかし舞台がトワサンガに移り、トワサンガの内部も急進派とレジスタンスに分かれていて一枚岩ではないという事が見えてくる事で、「スペースノイドアースノイドの対立って、そんな単純な二項対立だけで語れる問題じゃないんだな」という事が自然に見えてきます。
 実際、地球の民と宇宙の民の対立という歴代ガンダムで描かれ続けたこの大問題を、Gレコはたったの数話で素通りしていきます。劇中、この対立関係が強調されるようなセリフは14話以降、ほとんど出てきません。
 また、「地球上で弱肉強食の戦いをさせて、人の強化が必要だと宣言をした」というクンパ・ルシータ大佐にしても、以前までのガンダム作品であれば、ギンガナムやフォンセ・カガチ、あるいはデュランダル議長のような全状況に関わる黒幕になってもおかしくない人物です。実際、その主張はギンガナムに似ています。が、このクンパ大佐も、ドレッド艦隊のノウトゥ・ドレッドやジット団などが出てくるに及んで、相対的に影が薄くなり、状況全体に影響力を行使しているかのような印象はあまりありません。本人も、



「事態はわたしの思惑など、とっくに乗り越えられています」(第22話「地球圏再会」)
 と述べています。
(おそらくはそういうテーマ的な意図があったゆえに、クンパ大佐が主人公はじめ他の人物の明確な殺意によって排除されるのではなく、偶然の事故のような形で物語から退場する形になったのでしょう。彼もまた、状況の一部に過ぎなかった事が強調されることになります)



 敵の黒幕を倒すのではなく、黒幕と意志疎通して完全に分かり合うのでもなく、あえて複雑な影響関係を引き込んで、黒幕が持つ影響力を相対的に低くしてしまう。これは今までのガンダム作品ではあまり描かれてこなかった方法論でした。
 そしてこの点については、注目すべきことが二つあります。


 一つは、このようなやり方は、『ガンダム00』のような「最終的に世界を一つにする」という方向性とは真逆だという事です。00ファーストシーズンは、対立する大国間のパワーゲームを、力技で一つの世界にまとめあげることを目的とし、しかしその結果アロウズという存在が台頭してしまって、かれらの試みが結局はうまくいかなかった事を描いています。
 これに対してGレコ的なやり方では、むしろ分かり合えない相手、全然別な考えを持っている相手が多く参加すればするほど、極端な破局的事態は避けられると見ているように思えます。
 そしてこれはまた、前回書いたように、世の中がいわゆる「ポストモダン」状態だからこそできる戦略でもあります。地球圏に連邦とジオンの二勢力しか無ければ、状況を外部に開く事もできません。様々な価値観や立場が並び立つ状況だからこそ、このような戦略が可能というわけです。


 さらにもう一つ。上記のようなモデルを想定する限り、対立や戦いの「完全な終結」というのは原則的にあり得ない事になります。Gレコは、そのような「根本的な解決」をもたらすモデルを、あえて峻拒しています。
 なぜなら、対立や戦いが完全に終結するとは、対立していた相手同士がその問題に関して、完全に融合して一つ(の価値観・考え方)になるか、対立していた一方が完全に居なくなるか、そのどちらかしかあり得ないからです。
 一見したところ、根本的な対立の解決をもたらさないというのは半端で不出来な問題解決手段のように思えるかも知れませんが……しかしむしろ、完全に解決するために「融和か排除か」の二択を突き付ける方がかえって世の中を窮屈にしかねないという事が重視されているのでしょう。それはたとえば、『ガンダムSEED』において、中立でいたいオーブ首長国連邦に対して「同盟か、壊滅か」を迫る地球連合の強圧的な態度と紙一重、という事になり兼ねないからなのでした。


 物事は、表面的に対立が終息することはあっても、根本的な価値観や考え方の部分まで早々変わるものではない(また性急に変える必要もない)、というある種のリアリズムが、『Gのレコンギスタ』の基調になっているという事なのでした。これは本稿第4回で触れる、ベルリとルインを巡る対立とその顛末においても徹底されていることです。



 ……というわけで、今回の記事はここまでとしたいと思います。
 本稿はあくまでGレコのテーマや射程を大まかに掴むことを目的としているので、具体的な劇中描写との対応、Gレコ本編への言及が少ない点については申し訳ない気持ちもあります。その辺りは筆者の体力・時間との兼ね合いなので、ご勘弁ください。


 さて次回は、物語の舞台を金星まで広げたこと、それによってGレコが描いたテーマを概観することにします。
(5/2追記:次回記事の内容、予定を変更する事にしました。Gレコの舞台の変遷を巡る話は、第4回にしたいと思います。)
 のんびり更新の記事ですが、よろしければお付き合いください。

 歴史(上中下)


歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)


 畑違いのアリストテレスゾーンを抜け、そちらよりははるかに馴染み深い歴史学ゾーンの古典という事でヘロドトスを読み始めたわけですが。なんで読み終えるまでにこんな時間かかったかというと、私好みの記述が多すぎて、ちょっと読むごとに満足してしまってなかなか進まなかったのでした(笑)。


 「歴史の父」の誉れも高いヘロドトスではありますが、いざ読んでみると、想像していたよりも説話集チックな内容で、けっこう意外ではありました。まぁ、個人的にむしろそういうのの方が好みなので、余計に楽しく読んだわけですけれども。
 むしろ巻末解説によれば、当初この著作が説話集であって歴史書ではない、的に軽んじられていたところ、18世紀以降、考古学などの学問業績が蓄積されるに従って、「意外にも」本書が史実を正確に記載しているところが多かったことが認識された、とのこと。ちょっとその経緯には興味があります。いずれ時間が空いたら、じっくり追ってみたい気もしますが……。ヨーロッパの考古学成果に関する書籍って、新刊書店で探してもあんまり目にしないんですよねぇ。国内のに比べると。



 なんというか、読んでいて非常に気持ちのいい本でした。それはおそらくひとえに、その語り口の大らかさによるのだろうと思えます。ツイッターで何度か呟きましたが、長旅に出ていた親戚のおじさんが、上機嫌で旅の土産話をしてくれているみたいな(笑)。まるで語りながら身振り手振りを加えている、そんな様子まで目に浮かぶような、そんな語り口なのですよ。実際、ヘロドトスおじさんはナイル川をさかのぼってエチオピア辺りまで出向いたりして、その知見をも本文中に盛り込んでいるとのことで。
 話の本筋をそっちのけで脇道に逸れまくったり、著者が本文中に顔出してコメントつけたり、どことなく司馬遼太郎チックなのも良いw


 そういうわけで、話が脱線しまくるのが苦手な人には向かないかもですが、むしろそういう自由闊達な余談を挟みつつの語りを楽しめる向きには、絶好の読物ではないかと思います。私は無論後者なので、実に楽しんだ次第でした。


 さてそんなわけで、またも古代ギリシャの多様な豊饒さに触れてため息の出る思いだったわけですが。
 この後は、本来ならトゥキディデスに行くところなのですけれども、岩波文庫版が現在、新刊書店では手に入らないようで。ちくま学芸文庫にはあるのですが、今は岩波文庫を重点的に攻略しようということで、次はまた別の書籍に取り掛かることにしました。
 その感想は、また今度。